海野つなみ『逃げるは恥だが役に立つ』


逃げるは恥だが役に立つ(1) (講談社コミックスキス) 週刊プレイボーイの先週発売分に、海野つなみ逃げるは恥だが役に立つ』の書評を書いた。


 このマンガは25歳の女性・森山みくりが主人公で、大学卒業時にも就職できず、大学院にすすんだがその後も就職できず、派遣の仕事もやがて切られて無職になってしまうところからスタートしている。彼氏もいない。
 みくりは、報酬をもらいながら父の元部下・津崎平匡(36歳)の家事代行をやっているうちに、みくりの実家が引越しをしなければならなくなり、主人公は雇用継続をしたたままでは住居がなくなる危機に直面する。
 そこで、住み込みでやればいいのでは?→いっそ結婚すればいいのでは? というふうに話がすすんでしまう。その「結婚」はただの結婚ではなく、いわば偽装結婚。結婚にともなく各種の控除や特典を得ながら、住み込みの家事代行を続けるための方便として使われる。
 ここでは結婚は「セックス・恋愛」+「家事労働」として現れ、みくりの場合はその分のうち「セックス・恋愛」が禁止されているのである。

何のために結婚するのか?

 結婚の目的は、多くの人にとっては、家族づくり、もっといえば子づくりだろう。「そんなことないよ!」という反論については後からふれるので、まあ聞き流してくれ。
 わざわざ結婚をして関係を固定化させるというのは本作に出てくる結婚に懐疑的なイケメン・風見涼太よろしく、考えてみると奇妙な制度である。
 恋愛感情が強く残りセックスをする気持ちが旺盛な段階で、他の男女との関係を排除した関係に入る。それは何のためかといえば、子どもをつくるためだ。エンゲルスが指摘したように、相続すべき財産をもつ人間にとっては、これはきわめて大事なプロセスなのだが、そんなものを持たない(もしくは一代限りと思っている)庶民どもには、確かに「何のためにこんな関係に入るの?」という問いがわいてきても不思議ではない。
 ただ、相続すべき財産はないけど、なぜか「子づくりしたい」という気持ちがあるカップルの場合は、子どもを育てるための安定した経済単位として2人以上の成人男女で家族を構成するのは「自然」である。*1


子どもをつくらない(かもしれない)結婚は何のため?

 子育てを想定しないのであれば、結婚し家族を構成することは、何の意味があるだろうか。子どもを持たないカップルはぼくの周りにもいるし、ひょっとしたらぼく自身がそうであったかもしれなかった。


 『逃げ恥』では、結婚を「セックス+家事労働」ととらえたうえで、セックスを禁止した。となれば、結婚とは家事労働である。夫が労働して一般等価物(なんにでも交換できる商品)である貨幣を稼ぎ、妻は専業主婦として家事労働を提供して、夫が持っている貨幣と交換する。 *2 ここでは、家事労働は対価が必要な有償労働であることが明示されており、ある種のフェミニズム的な家事労働論がそのままここにあるといえる。

家事労働だけで結婚を考えることはできるのか

 しかし、家事労働だけで結婚を考えることはできるのか。
 みくりが平匡のところに来ている条件で家事代行サービスを頼んだ場合、いったいいくら代行サービスに払うのか。
 家事代行サービスって頼んだことないけど、インターネットで料金をみてみる。最初のみくりの条件、週1で3時間なら月3万円。結婚後の条件なら、週5回で3時間の場合月15万円である。ちなみに週5回、毎回9〜17時で労働させると月25万円にもなる。
http://www.ecobeans.jp/system.html


逃げるは恥だが役に立つ(2) (講談社コミックスキス) 生活保護の単身の扶助費(住宅扶助は入っていない)は13万円くらいなので、まあ少し「お得」といったところだろうか。


 しかし、「いや週3回、1回3時間でいいだろ」というツッコミがある。その場合は月8万円ですむ。そのツッコミがなくても、同居する分、住居の利用面積は落ちているわけで、住居費の負担がここにくわわってくる。
 本気で家事代行を同居させるコストを考えたら、「家事労働代行としての結婚」というのは、やはり割りにあわないのではないか。


 ここでネタバレを書くので先に知りたくない人はここから読むな。




 最新巻・2巻の終わりでは、風見がこの「契約結婚」=偽装結婚を見抜き、平匡に「みくりさんをシェアしよう」という話をもちかける。そこで終わっている。
 ぼくは連載を読んでいないので、「シェア」が何を意味するのかわからない。一見「女性をシェアする」って(;´Д`)ハアハアな話っぽいけど、恋愛・セックス抜きなんだから、やっぱりそれは家事労働を「シェア」するってことなんだろう。それこそ“家事は週3日くらいしてくれればよくて、他の3日分は別の人(風見)の家で家事をしてもらい、費用は半分にしたらいい”的な。次巻の予告が単行本のラストに載っていて「次の3日もどんなふうに使い回してくるか楽しみです」と笑いながら言っている風見が描いてあるので、まず間違いあるまい。




 だから、『逃げ恥』の答えは実は「家事労働」ではない…と予想する。


『逃げ恥』における答を予想する

 子どもをつくらない(つくらないかもしれない)というカップルがなぜ結婚という選択肢を選ぶのかは論理的には難しいものがある。


 家事のシェアによって、ますますみくりは「家事代行サービス業」化していくに違いない。そうすれば結婚の中核概念はますますぼんやりしてしまう。そうすると、風見と平匡との間でゆれることになるみくりにとってもう一度考えるべきことは、いったん追放したはずの「セックス・恋愛」になるだろう。
 みくりたちは、セックスや恋愛を禁止するところから「契約としての結婚」が始まっているのだが、そもそも不快ではない相手だから一緒にいてもいいと判断したのだし、一緒にいることがだんだんと心地よくなってきてしまう、雇用主と従業員の関係をふみこえてしまうであろうことは必然ともいえる。


 しかし、ただ「セックス・恋愛」であるなら、風見がそれまでやっていたように「セックス・恋愛」と「家事」をまったく分離して調達してしまうという考えに負けてしまうはずだ。


 ではどういう答になるのだろうか?


 平匡が風見から「結婚ていいですか?」と聞かれて、

…一人でなんでもできるけど 
でも安心って
実は人が与えてくれるものなんだなって思ったんですよ

と答えるシーンがある(1巻112ページ)。
 おそらくこうしたことが『逃げ恥』にとっての答につながっていくのだろう。


 論理的には答はでまい。どこまでいっても「それは結婚しなくてもいいじゃないのか?」という問いからは逃れられないのではないかと思う。それを乗り越えて納得しうる結論を『逃げ恥』が出すのか、それとも「やっぱり(子育てを明確な目的にしない)結婚は不可解なものだ」という答をだすのか。それはこれからの展開を見ないとわからない。楽しみでもある。

 
 ぼくの場合、子どもをつくらないかもしれないのになぜ結婚したのか。
 一つは、避妊をしていてもセックスをする以上、相手の身体と心に重い責任があるということ(そして避妊は100%ではないということ)。ぼくは法律婚ではないが、社会的に宣言することで、「責任をもった関係」であることを明示した。
 もう一つは、結婚によって「社会的に見て維持されるべきカップル」と承認されるので例えば職場での休みやシフトも言い出しやすいことなどがあげられる。

家事労働について追求してほしい

家事労働ハラスメント――生きづらさの根にあるもの (岩波新書) 関連して、竹信三恵子『家事労働ハラスメント』を読んだ。
 家事労働が「だれでもできる軽微なもの」「無償でおこなわれるべき貴いもの」という扱われることで、社会的に「みえない」扱いをされていく、その現場を多角的につづったものだ。「生きづらさの根にあるもの」というサブタイトルにあるように、「社会的には『無い』ことにされている」、つまり重い家事労働(育児も含む)を負担して生きているということがカウントされないために、たとえば残業はその後に家事があることを考えていないがゆえにそれを過度に押しつけられて体をこわしたり、あるいは、逆に残業できないからといって就職を拒否されたりする。また「家事はだれでもできる軽いもの」というような扱いが、介護労働の安さや調理業務で自殺者をだす(ワタミの事件)ようなものにつながっていくのだと竹信は主張する。

 それに、家事はいつも楽しいわけではない。料理や洗濯のひとつひとつは、一見「軽い労働」に見える。しかし、それが束になり、しかも家族の必要に応じて一日中間断なくのしかかってくるとき、それは重労働になる。介護や育児は重要だという人でも、「家事」となると「女性ならだれでもできる仕事」と考えがちだ。でも、介護や育児って、ご飯を炊いたり洗濯をしたりの家事の連鎖なんだって、わかってます?

 しかも、この労働は、どういうわけか対価がつかない。家政婦が雇い主と結婚したとたん、その仕事は、お金を稼げたはずの時間を着実に奪っていくものに転化する。茶碗を洗ったり、繕いものをしたりすることは、適度に、自発的に行なうときは、癒しや自己回復の営みになる。だが、その分配が過重になるとき、「家事」はその担い手を破壊しかねない。(竹信前掲書「はじめに」iv)

 あ、『逃げ恥』っぽい、と一瞬思ったが、『逃げ恥』がおそらく家事労働が結婚の本質的側面ではない、という描き方に移行していけば、この側面の追求はもはや『逃げ恥』ではあまりされなくなるだろう。そこは惜しい。ぜひこの角度からももう少し掘り下げてみてほしいものである。

*1:現行制度の貧弱さのもとでは1人で子どもを育てようとすることは「不自然」になってしまう。また、社会の保障制度が発達してくれば、個別経済単位である家族を子育ての基本とする必要はなくなる。

*2:ちなみに厳密にいえば夫は妻の家事労働を買っているのではなく、妻という労働力商品の買い手であり、実際には妻が生存できるだけの貨幣額しか渡していない。