自分の商品価値を落とさないためだろ


 ちきりんが「ネットでは議論しない」と言っているんだけど、
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120813

その理由は“議論して結論を一つに決めるのは多様性の否定だから”ということだそうで…。


 単純に、ちきりんが議論しない=本体サイトのコメント欄を非表示にして、はてなブックマークの表示にも厳しく制限をかけているのは、自分の商品価値が落ちるからだろ。
 ちきりんがツッコミどころ満載の極論を書く。
 普通はコメント欄が燃え上がる。いや、炎上はまだ「極論」を商売とするうえではいいかもしれないけど、はてなブックマークのコメントになると嘲笑に近くなる。
 そういうものがエントリといっしょに出てくると、もう極論を売りものにしているというより、ただの珍論、頭の悪そうな意見になってしまう。
 自分の商品価値が下がる。


 そういう商品の見せ方が嫌なんだろ。

あえてちきりんの議論に乗ってみる

 まあ、それはともかく、民主主義と議論をからめている点については一言。
 これは統治としての民主主義と、議論という慣習のすりかえだよね。
 簡単に言えば、政治としての民主主義は一つに決めないといけない。

ここに、政治というのものの原理的困難がある。多と一は結びつかない。一は一であり、多は多である。橋の建設に関して、どこに作るか、どのようなものを作るか、そもそも作るのか作らないのか、様々な見解が存在しうる。しかし政治はそこから一つの決定を導き出さねばならない。これは原理的には無理である。政治は多と一を結びつけねばならないが、多と一を結びつけることはできない。政治が困難で厄介なのは、この原理的に無理なことをやっているからだ。(國分功一郎『来るべき民主主義』p.118)

 別にこんな難しいこと言わなくてもわかるよね(笑)。
 こうした「政治」に対して、「議論」は一つに決める必要はない。
 しかもちきりんの場合は、議論を一つに結論づけることと、コメント欄やブクマの非表示とは何の関係もない。むしろ積極的に多様性を覆い隠している。ホントどうでもいいことだけどね。


 ちきりんの意見の中で積極的であり、一定の人が支持しうる部分というのは「ネットの議論は不毛なことが多い」ということだろう。これは議論をちきりん流に「一つの意見は他方の意見の否定」だとする考えに由来する。



●なぜぼくは2chにカキコをしないか、または、「まちがい」とは何か - 紙屋研究所見田石介『ヘーゲル大論理学研究』 見田石介『ヘーゲル大論理学研究』


 上記のURLの記事でも書いたけど、一つの意見がまるごと根本から間違っているということはない。どこかに「正しい」ところがあるから生き残っている。ちきりんの意見自身がそうだ。
 原発だって、ぼくは脱原発派であるが、原発存続派に世論をうなずかせる部分があるからこそ両派の対立は消えない。

批判とは、なにかものを外部からたたくというのではなく、いままで普遍的だとおもわれていたものが、じつはもっと普遍的なものの特殊なケースにすぎないことをあきらかにすることです。そのものを普遍的なものの一モメントにおとし、没落させる、これが批判ということです。(見田石介『ヘーゲル大論理学研究』p.6〜7)


 つまり、相手の言い分の「正しい」部分をとりこむような、より大きな意見に自分の意見を豊富化するということだ。


 理想的な議論は、そのようにお互いを豊かにし合う。
 こういう議論を重ねていけば、両派の意見は体系化され、豊富化され、次第に似通った体裁をもつものになってくる。普遍化してくるのだ。
 まあ、あくまで理想は、ね。
 現実には、そんな議論はネットではなかなか起きない。相手を否定する不毛な罵倒の投げつけ合いに終始するから、かかわりあうだけ無駄である……という気分になることがほとんどだろう。
 そういう意味で、「議論などで合意には達しない」とするちきりんの意見は70%くらい正しく、本質的な30%は間違っているのである。


 多少はこの議論も生産的になっただろうか。そうだとすればちきりんの極論も捨てたものではない。


 そんじゃーね。