國分功一郎・古市憲寿『社会の抜け道』

革命と改良

社会の抜け道 社会問題の解決、ということについて、古市と國分が語り合っている本。一言で言って、國分が論じて古市が突っ込んでいる。だから國分の本だといえる。この本は社会問題の解決、ということがテーマで、オビにあるように、「あらゆる社会問題は『解決』しない。けれど、必ず“抜け道”はある」ということが主張の核になっている。
 そして…なぜか本書には随所にマルクスが登場する。そんなに必然性があるとは思えない箇所にいろいろマルクスが。マルクスが社会問題の解決として意識されているのだ。まあ、國分がドゥルーズがどうした、フーコーがこうした、と言っている哲学者なのだからその前提になっているマルクスが「チラッチラッ」と意識されて当然なんだけど。
 ということは、そう、これは「革命と改良」をめぐる本だといえる。
 「革命と改良」はマルクス主義では古くからあるテーマだ。
 改良を積み重ねて社会を改革するのか、それとも革命によってラジカルかつドラスティックに社会を変えるのか。レーニンの時代から戦後の一時期までは、改良はかなりバカにされてきた。「革命左派」「革命的マルクス主義うんたら」という呼称が流行ったのは、「革命的」であることのほうが価値が高かったからだ。「改良主義派」とか自称する人はいなかった。当時、これはただの蔑称でしかなかったのである。

 
 第2章「『暮らしの実験室』の幸福論」はこのテーマを扱っている。
 60年代末の学生運動の流れをくむグループが有機農法にとりくんでいたが、やがて路線上の対立がおきる。外に積極的に契約をとりにいって、考えを広めていこうとする「契約派」と、農場でまず土いじりを楽しむことを重視する「農場派」と。
 古市の次の言葉は「農場派」の改良主義的空気をものすごくよく代弁している。

おもしろいのは、イバ君〔農場派の一人、引用者注〕のいう「啓蒙」というのは、上から目線の、抽象的な啓蒙ではないという点です。暮らしの実験室では、数十人、多くても一〇〇人くらいを呼ぶイベントをよく開いています。一緒にツリーハウスをつくったり、田植えをしたり、バーベキューをしたり、そういうことをして楽しみながら、何となく自分たちの理念に共感してもらう。顔が見える範囲での、押しつけがましくない啓蒙なんですね。ファーマーズマーケットをやっている友人もいってましたけど、社会をガラッと変えることなんて無理だし、そんな風にして変わった社会はきっといびつ。だったら、小さくてもできることを、できる範囲でやっていくほうがいいって。(p.82)

 ええっ、これじゃあ、ただ楽しいことをやっているだけじゃん。と思うかもしれない。そこにエクスキューズが入っている。この「イバ君」によれば「啓蒙の意識はありますよ」といっているのだ。つまり、改良のなかでも「目的意識性を極力低くする」ということなのである。微量な改良の意識。そこまで温度を下げて始めて、先進国での社会改革は実現する、ということになる。

 結びの第6章、「僕たちの『反革命』」は、革命と改良についてのこうした問題意識をより鮮明にしている。國分の次の言葉を聞こう。

あるとき、ガラッと社会が変わって、「ああ、よかった」って思いたいのだろうけど、そんなことは起こるはずがない。その意味では、俺は反革命だな。(p.246)

そんな時代だからこそ、ガラッと変える発想なんてダメで、やっぱり反革命じゃなきゃいけない。少しずつしか物事は変わらないよ。(p.248)

 これを古市が補強する。

「社会を変える」なんて大きいことがいえるのは、「社会」が何か分らないからいえることなんでしょうね。具体的な経験や現場を持っている人は、「社会を変える」という発想に飛ぶ前、個別の問題に目がいくと思います。(p.249)

 國分は「あとがき」で、マルクスが、社会矛盾が階級闘争として現われるとしたことを「概ね正しいと思う」としながら、マルクスが革命を主張したことを批判して次のように述べている。

物事が一気に変化するという出来事は確かに魅力的である。だから、「革命」は人気がある。/しかし、社会を細かく、微視的(ミクロ)に眺めるとどうだろうか? 私たちを悩ませているのは、個別具体的な一つひとつの問題である。それらは「革命」によっていつか「解決」されるものなのかもしれない。しかし、それをただ待っているのは、何もしないのと同じだろう。(p.251-252)

左翼の日常は改良で充満しているぜ!

 なるほど。そりゃそうかもしれない。
 だけど、こういう「革命によっていつか解決されるかもしれないと思って、ただ待っているだけ」なんていう人は、議会参加をしている左翼にはもういないんじゃないかなあ。むしろ橋下徹の「グレートリセット」とか、そういう理念に惹かれて熱狂している人にこそ当てはまるのかもしれない。
 左翼の活動は、「個別具体的な一つひとつの問題」で充満している。 生活相談だといって、生活保護の申請の仕方ひとつを役所と毎日ケンカしている。それが生存権の豊富化につながっている。特養ホームをここにつくるかどうかということで住民アンケートをとったり署名を集めたり議会質問をしたりしている。国民健康保険料が高すぎるということで引き下げをする議会質問をしたり、署名を集めたりしている。払えない人がいたら減免が適用できないか、何か活用できる制度はないか一緒に探す。根本的には国保会計に国の補助をふやさないといけないと国会で質問したり、厚労省に要請したりしている。でもそれが変わらないうちは何もしないわけじゃない。むしろ積極的に引き下げができないかどうか走り回り、実際に引き下げをさせたりしている。
 この前、選挙で落ちて浪人中の左翼系元市会議員が「だれか布団余ってないー?」ってフェイスブックで探していた。生活保護世帯の人が布団を病気で血まみれにしてしまったんだけど、買い換えるお金がなくて布団なしで寝ていたのである。そこでその元市議がフェイスブックで布団をつのってマッチングさせていた。布団あげるっていう人が見つかって、その元市議がヒイヒイ言って布団運んでたけど。まさに「ミクロ」に満ちているのが左翼活動。
 いや、前も言ったけど、お金のない家庭の子弟の学力をつけさせるとりくみ「無料塾」をやってお茶のみ話している左翼もいるよ。お茶のみ話をお母さんたちとしているのが楽しい。それが左翼の日常。

このテーマだけでいえばマルキストたちの方がはるかに長く議論してきた

 革命と改良の関係をどういう具合でブレンドするのかという問題は、マルクスマルクス主義者たちのほうがはるかに洗練されている。革命と改良を結合させよう、というのがマルキストたちがもうずいぶん前に出した結論だ。
そしてマルクスが問題にしたかったのは、革命で一気に変えてしまうかどうか、ってことじゃなくて、「国家権力をにぎる」ってことをやるかどうかだったんだよね。その選択肢を入れるかどうか、そこが問題。
超訳マルクス ブラック企業と闘った大先輩の言葉 ぼくが出した『超訳マルクス』は国際労働者協会(インタナショナル)の活動の話ばっかり入っているんだけど、結局「社会をどう変えるか」っていう話でもある。
 その当時、たとえば協同組合運動っていうのがさかんになってきていた。自分たちで起業して楽しい働き方をやっちゃおうぜ! っていう感じのものだ。楽しいから、実際どんどん広がっていったわけだよ。そして、他方で、労働組合なんかでストライキして賃金をあげたり、労働時間を短くさせるために法律を通すことなんかが問題になってきていたりした。そして、政治権力を握って社会と政治を変えるという方法もあった。こういう様々な「社会変革」の方法を、マルクスがどう組み合わせようとしていたか。そのあたりが『超訳マルクス』を読むと分ってくる。とさりげなく宣伝。

国家権力の掌握について國分はどう考えておるのだ

 もう一度言うけど、革命の本質というのは、社会をガラッと変えることではなくて、国家権力の掌握をするかどうか、ということだ。
しかもそれは、単に立法権=権力の頭を握るだけじゃなくて、行政権=権力の肢体全体を握るかどうかが大事な問題なのである。
國分は都市計画道路住民運動にかかわった経験をもとに『来るべき民主主義』(幻冬舎新書)を書き、立法権への関与しか問題にしてこなかった近代政治学を批判して行政権にオフィシャルに関われる制度の構築を提唱している。だから、國分の問題意識はぼくのいう革命=行政権をふくめた国家権力の掌握と同じはずなのだ。そしてこれは「プロレタリアートのディクタトゥーラ(全権掌握)」として、失敗したドイツ革命とパリ・コミューンを観察したマルクスによって提起された問題であった。


来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題 (幻冬舎新書) 國分は、国家権力の掌握を「社会問題の解決」の方法として認めるのだろうか。まさか、わざわざそれを排除しようとはしないだろう。権力の本体である行政権力をコントロールしやすくすることが革命の本体であるとすれば、國分はおそらく「その答えは『来るべき民主主義』に書いてある」というのかもしれない。すなわち、住民投票制度と審議会改革である。
 うーん。まあ、ぼくもそのこと自体は否定しないんだよね。住民投票制度や審議会改革は必要だと思う。実際福岡市では、税金の無駄遣いである人工島事業を止めるための住民投票をやろうという直接請求運動をしたし、市長がつくる審議会の「お手盛り」ぶりにイライラさせられることが本当にしょっちゅうだからだ。だからそこは否定しない。
 だけど、行政権力へのアクセスや関わりを本当に広げるうえでは、もっといい方法があるんじゃないか、という疑念がぬぐえない。ここではもう詳しく論じているゆとりがないんだけど、たとえば保育園の待機児童を解消する問題というのは、議会での質問、保育運動、マスコミや世論、請願署名……こういうものが相乗的に作用して保育所の新設や定員増ということに実ってきた。行政を動かしてきたのである。そういう相乗的な効果について、もっと考えるべきだとぼくは思うのだ。
 そしてそれ以外にも、一番肝心な問題、選挙=議会で多数を握るということをどう考えるのか、ということだ。
 國分はこれをどれくらい大事なことだと思っているのだろうか。
 そこを聞いてみたいのである。
 ただ、この問題は『来るべき民主主義』のほうにもけっこう書いてある。そっちのほうで論じたほうがいいかもしれない。

この本の醍醐味は個別具体的な瑣事から社会に上昇していく点にある

 この本の醍醐味は、「僕たちの『反革命』」の部分、つまり革命と改良を論じた部分ではない。
 そこではなくて、ミクロからマクロへと上昇していく、そのつなぎ方の面白さの方にある。古市のツッコミもここで生きてくる。


 古市は、最初に自分の待ち合わせ風景を書いている。日常の瑣事で埋め尽くされている様子を、ファミレスのメニュー名やスマホの機種名などの単語やガジェットを使いながら描写していく。社会問題よりもそうした消費にかかわる一つひとつの事柄のほうが、ぼくらの暮らしの中でははるかに大きな比重を占めているといわんばかりに。
 そのような日常のこまごまとした生活の中にどうやって「社会問題」がしみこみ、そこへと上昇していくのか、というところに古市の問題意識はあるのだろう。


 この角度から本書を楽しむときは、なんというか、体系的に話すことが難しい。一つひとつ話題にあがってくることに対して、こっちも頭に浮かんできたことを断片的にぶつけていくだけになる。そういう感想の書き方をやってみたい。

IKEAコストコは高齢者に優しいか?

 第1章「IKEAコストコに行ってみた」は、消費社会、そこから資本主義経済をのぞいている。
 福岡市の郊外にこの2店がいずれもあるので、ぼくはこの2つの店を利用することがときどきある。自分から積極的にということではなく、パパ友にいざなわれて、ではあったが。そういう意味では古市にいざなわれて来店した國分にスタンスが似ている。
 古市はコストコIKEAが高齢者に優しいかのように述べていたが、これはまったくそういうふうには思えなかった。違和感をおぼえた國分に味方する。
 前の記事で書いたけど、地方のJAがセブンイレブンと組んで買い物難民の支援をおこなっている。いや別にJAと組まなくても、都心ではコンビニが高齢者世帯に惣菜を配達したりしていて(有料)、体が動かせない高齢者にとって不可欠な存在になったりしている。高齢化社会に資本が需要を見出し、その運動と整合的な範囲に限定されてだが、社会問題に対応するという、こちらの動き方を紹介したほうがまだ納得できる。


 古市が新自由主義社会保障とセットで考えるのが大事だといっていたことは、感覚としてはすごくよくわかる。ベーシックインカムの考え方に似ている。最低生活を国家が保障すれば、あとは自由・自己責任、という世界。
 こういう気分というのは、ネットを駆使できる程度のリテラシーや能力のある若い人にとってはすごくぴったりくるものなんだろう。
 だけど、生活保護の相談とか、トラブル続きで自立ができないような人たちの相談にかかわっている左翼的経験からいわせてもらうと、簡単に人に「くいもの」にされて、あっという間に「最低生活」まで搾取されてしまう。結局「自由」を原則にするにしても、そこにはやはりルールが必要になるだろうし、最低生活を人ごとに、それに合うように設計しなければならないから、「新自由主義社会保障」みたいな単純な図式ではいかないんだよね。
 ただ、もう生産力がずいぶん高まっているから、人間は死ぬほど働かなくてもいいはずなのだ。古市や國分(國分は第4章で詳しく論じている)が紹介しているように、労働時間を規制して余暇を自由にすごしたり、社会保障にまわしたりする、マルクスが予見したような社会の実現は条件が整っている。成熟経済を生かす、という問題意識は共有できる。


 第4章は「人類史的重要プロジェクト 保育園の話」。ここは生活実感として一番共感した部分だった。國分が「シングルファーザー」としての子育ての経験を書いているんだけど、

そうはいっても、仕事から帰って来て保育園に迎えにいって、一緒に夕飯の買いものに行って、ご飯をつくって、一緒に食べて、お風呂に入れて、寝かせて、その後、洗いものをして、洗濯してってこれをやると、さすがに終わったときはヘトヘトで、あの頃から夜は勉強できなくなったなぁ。疲れてすぐビール飲んじゃう(笑)。(p.183)

ってくだり、ぼくのこの前の記事のこのくだりとそっくりじゃね?

しかし、少なくとも職場を出て保育園に迎えにいって、ほぼ毎日買い物に寄って、料理をつくって、食べさせて、その間にマンガを読みふけるばかりで配膳や食器洗いや洗濯物たたみや保育園のカバン片付けを何一つしようとしない娘とひとしきり闘争して、フロに入れさせて、歯を磨かせて本を読んで寝かせる、という午後10時くらいまでは、なんもできません。なんもです。それからだいたいいっしょに寝てしまいます。へろへろです。自分は仕事との相性がいいので、同じ時間やったら仕事の方が疲弊度がはるかに少ないといえます。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20131007/1381072909

 そっくりっていうか、俺が真似したみたいじゃん。

 それはともかく、この章では、國分が保育運動がさかんそうな都内の公立保育園で「親育ち」をされて厳しく鍛えられ、「子ども・子育て新制度」にガンガン反対してたたかっていくというすばらしい様子が描写されている。
 また、「地元コミュニティの核としての保育園」という主張のされている。
 このあたりは、以前からぼくが言ってきたこととものすごく整合的で、激しくうなずきながら読んだ。
 逆に言うと、ぼく的には新しい飛躍や違和感がそこでは少なかったわけだけど。

陳腐なことは大事なことだ!

 國分の言っていることって(そしてぼくの言っていることって)陳腐なのかもしれない。ありきたりというか。
 たとえば國分が本書のラストで「地域での住民の政治参加って本当に大切だと思う」(p.250)って言っているのはすこぶる陳腐だ。彼は『来るべき民主主義』でも「行政権にオフィシャルにかかわれる制度を」として、「住民投票」と「審議会改革」をあげている。これもまた驚くほど陳腐なものだ。
 しかし。
 ぼくは、この國分の「陳腐」さを高く評価したい。
 現場で実践を重ねてきた人たちがたどりつくものは、多くは「陳腐」で、飽き飽きする日常だろうから。多少はスパイスのきいた楽しみがあるにしても。その陳腐さを避けずにきちんと提起できるのは、國分が現場をよく知っているからだろう。本書の保育運動を紹介しているところなどは、本当に共感の気持ちでいっぱいになったし、それ以外の点でもミクロな生活の分野での國分の主張には肌感覚で同意できることが無数にあった。

 これが東浩紀だったら、この陳腐さを避けて、あえて変わった、面白いことを言うために、「一般意思2.0」とか改憲案とか言い出したりしちゃうんだろうけど、そういうことのほうがうんざりだ。テーゼとアンチテーゼをのりこえるフリをして、見せかけの「ジンテーゼ」を出すっていう、俗流弁証法

 あ、書き忘れていたけど、古市って、自分の主義主張に強いこだわりがないだけ、ツッコミ役としては少々物足りない。でも相手のスタンスにあわせて、共感したりいろんな話題を持ち出して増幅させる、つまり煽る役としてはたしかに最適だなあと本書を読んで思った。