自衛隊は暴力装置ではないかどうかという話

 もう話題の賞味期限が切れつつあるが、こんな大事な問題を消費なんかしちゃいけないんだ!(キリッ
 仙石官房長官の「暴力装置」発言が波紋を広げ、ものすごい明後日の方向へ波紋が広がっているのはネットの一部。

 もうとんでもなく論点が拡散しているんだけど、なかでもfinalventが持ち出した自衛隊暴力装置ではない、という論点は、「心底どうでもいい」扱いをうけている。

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/11/post-7cd1.html
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/11/post-669f.html
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20101120/1290323266
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20101120/1290329605

 finalventも反論にやっきだ。
 finalventが言いたかったことは、自衛隊や警察などの「暴力」は国家によって独占され公的にコントロールされることで全体が統御された機構・装置になるんだよ、というむねのことだったんだろう。

 だけど、それを言おうとして、自衛隊や軍隊は暴力装置ではない、装置はそれが配置された国家なんだよ、というところにアクセントをおいてしまい、しかもそれが論争になってしまったために、不自然な強調が重なるハメとなった。

 finalventはさかんに『社会学小辞典』の定義

暴力装置 暴力を発動するため、諸機関が配置されていること。最高に組織化された政治権力である国家権力が、軍隊・警察・刑務所などを配置している状態などに用いる。現代ではこの装置が巨大化し、独走する危険性がある。

を根拠に持ち出している。そして、

こんな話は社会学では基本中の基本なので、どの辞書でも載っていることだが

と不用意に言ってしまう(強調は引用者)。いや、“自衛隊や警察などの「暴力」は国家によって独占され公的にコントロールされることで全体が統御された機構・装置になるんだよ”的なことはたしかに「社会学では基本中の基本」かもしれないけど、

だからこそ、自衛隊暴力装置ではない、ということを理解することが重要になる。こんな話は社会学では基本中の基本なので、どの辞書でも載っていることだが

といってしまうと、全然そんなことはありません、と言われてしまうことになる。
 finalventは「きちんと辞書にあたったかた」をホメているが、もっと「きちんと辞書にあたったかた」を見てみると、

政治家が政治の場で政治学用語を使うと失言になる国。 - 性・宗教・メディア・倫理
http://May13th.exblog.jp/12307147/

もうありとあらゆる辞典や事典が軍隊は暴力装置です、と叫んでいるのであった。

 ちなみに、Yahoo!百科事典で「暴力装置」を引くと、それを含む記述の大半は軍隊を暴力装置とみなすものばかりである。
 先ほどfinalvent翁が引用した『社会学小辞典』の1997年および2005年版の編集者の一人、濱嶋朗(東京学芸大学名誉教授)はYahoo!百科事典では「階級国家」の項目をどう書いているかというと、

このように歴史上の国家はつねに「階級対立の非宥和(ゆうわ)性の産物」(レーニン)であり、経済的に支配する階級がその利益を擁護するために政治的に武装し(つまり、物理的暴力装置である軍隊、警察、裁判所などを支配下に置き、政治権力を独占して)、支配と領有、搾取と抑圧を行う階級国家である、とされる。

という具合である(強調は引用者)。
 finalventの言いたいことの核心はもうわかった。それには同意する。だけど「自衛隊暴力装置ではない」というような認識は「社会学では基本中の基本」というわけではないことは認めた方がよい。いや上記は政治学だろ、というツッコミがあるかもしれないが、まあアカデミズムでは基本中の基本とは言えないということだろう。


個人的な、何の根拠もない憶測

 ぼくが左翼になったのは80年代末、高校生だったときだが、そのときパトカーを見たら「あっ、暴力装置だ!」と言っていた。当時レーニンの『国家と革命』を読んでいたが、きっちりとテキストを読み込むなんていうもんじゃなかったから、そこから取った言葉ではなかった。たしか『国家と革命』とあわせて、高校の「政治経済」の資料集かなにかで階級国家論の解説があり、そこから情報を得ていた気がする。
 そして、さっきの発言は同世代の左翼高校生とじゃれあっていう、ジャーゴンというか符牒というか、そういうものの一つだった。
 仙石もたぶんこんなふうだったんじゃねーかなあ。推測だけど。
 つまりウェーバーのどこそこにあったとか、マルクスレーニンのどこそこにあったとか、いうんじゃなくて、起源や由来はよく確かめずに、解説書や仲間・先輩・教員が使っていた言葉を共有するようになったという感じで。仙石から事情を聞いた前原外相(仙石は前原グループ)が、

「実力組織と言うところを、昔よく共産党系の本も読まれていたのか、『その中に暴力装置のような言葉があった』と聞いた。それが間違って出てきたと思う」

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/101120/plc1011200100001-n1.htm

と述べているのはそういう感覚に符合する。

 ぼくは学者じゃないので、自分の読書体験の範囲でだけモノを言うけども、「装置」という概念は、近代政治学の流れからいえば、そういうまるで機械のような操作性で国家をとらえるがゆえに、国家やその中核にある公的暴力をどう管理・制御するかを考えやすくしたものだと思う。だから「暴力装置」という言い方よりも「国家装置」という言い方の方がより正確に聞こえる。

 他方で、マルクス主義の陣営のなかでは、このように国家をまるで支配階級が意のままに使える「道具」のように把握することの違和感が表明されてきた。ギリシア共産党員でもあるプーランツァスは『資本主義国家の構造』(1968)のなかで

マルクス主義理論は、支配階級の道具ないしは手段としての国家という図式を、一般的には繰り返してきた。

とのべているように、全共闘運動華やかなりしこの時代には、すでにマルクス主義陣営のなかで国家を「階級支配の道具」だとみなすような国家観が広まっていたことを物語っている。
 1982年という、全共闘運動から10年以上の歳月を隔てたころに、イギリスのマルクス主義政治学者であるジェソップは、『資本主義国家』のなかでこのような「国家は階級支配の道具である」みたいな「道具主義的アプローチ」を批判している。

もし単純な道具主義的アプローチが受容されるなら、国家のさまざまな形態を説明するのが困難になり、またそれと同様に国家装置の制御ではなく、その粉砕または変形がなぜ必要になるのかの説明も困難になる。……単純な道具主義的な見方は、国家装置がその人員や志向において非党派的で受動的である、ということを含意している。……もし国家が階級支配の単純な道具であるなら、経済的に支配する階級が実際に国家システムのなかで枢要な地位を占めていないときに、支配的生産様式はどのようにして再生産されるのか、ということについて説明する必要がある。

 プーランツァスやジェソップがなんでこんなことを言いだしているかというと、「資本主義国家は労働者階級の革命で打倒されるはずなのに、されずに、むしろその支配を受け入れているようなフシがあるじゃん。なんで?」という疑問があるからだ。国家が行使する(しようとする)公的暴力によってイヤイヤ服従しているというよりも、すすんでその支配・従属関係を受け入れているように見えるからだ。そうした支配・従属関係を含めた統治全体を国家として認識する必要があるし、なぜそんな意識が再生産されるんだろうか、というのが、こうした人たちの強い問題意識だった。

 話を元に戻すと、さきほどの

もし単純な道具主義的アプローチが受容されるなら、国家のさまざまな形態を説明するのが困難になり、またそれと同様に国家装置の制御ではなく、その粉砕または変形がなぜ必要になるのかの説明も困難になる

というジェソップの批判は、レーニン的な国家把握(とジェソップが考えていたもの)への批判として読めるが、

単純な道具主義的な見方は、国家装置がその人員や志向において非党派的で受動的である、ということを含意している

という部分は、国家の階級性をしつこいほどに論じるレーニンではなく、近代政治学社会民主主義的な国家把握への批判として読める。

 つまり、プーランツァス、少し時代がくだってジェソップの時代というのは、「国家装置」「暴力装置」というような把握は、レーニンを再解釈したソ連流の政治学ウェーバーを再解釈した近代政治学、どちらでも強調されていたことではないのか。つまりレーニンが起源がウェーバーが起源かというのではなく、それらの後継者によってデフォルメされ強調された結果「国家装置」や「暴力装置」というような把握が広まっていったのではないか。どちらをも源泉としている、ということだ。

 いやあくまで推測にすぎないんだけど。

 しかし、レーニンの中にはそれほど「装置」といったような把握が出てこないのに、さっき見たようなマルクス主義的とされる「階級国家」の解説のなかには「暴力装置」などという概念がぴょん、と飛び出してきたりするのは、レーニン以後にそういう把握が登場したとしか思えないのである。
 本当はその間を埋める文献的「発掘」作業をやればいいんだろうけど、そんなことに時間を費やすつもりはないので、進化の途上の2点だけをとってその間の「ミッシング・リンク」を想像するみたいなことをやってみた。