引き続きローマー『これからの社会主義 市場社会主義の可能性』についてです。
今回は第1章「社会主義者が望むもの」について。
理性で社会をつくろうとするローマー
ここでローマーは、“これまでの社会主義者が搾取の終焉(搾取の廃止)を求めていたのはそれによって平等を達成しようとしていたからだけど、もう労働者階級は昔のように貧しくて何も持っていない階級ではないから、そういう理屈立ては「なんだかなあ」という感じになっている。それよりも、自己実現と幸福の機会均等を目的にし、そのために政治的影響力の平等を考えるべきだ”と主張しています。
ぼくは、ローマーという人が、これほどまでに社会主義を理性による社会設計としてとらえていることにおどろきます。
マルクスは、資本主義の中に次の社会を準備する新しい萌芽が育ち、それがあたかも自然史的な過程のように進行して社会主義社会が登場するとみたわけですが、ローマーにあっては、社会というものは、理性によって目的を設定してその理想にむかって実現されていくかのようです。いわば科学的社会主義――社会発展の法則としてとらえるのではなく、空想的社会主義者のような理性主義なのです。
マルクスにとっての人間解放というのは、別に「こういう社会をつくりたい」という目標設定にむかって社会を恣意的に改造するわけではありません。
生産力が発展し、生産手段が「もうけ本位」に使われずに、国民の必要のために使われることが増えて行きます。そして政治変革(革命)によって、生産手段が社会の制御のもとにおかれるようになれば、生産力の発展は労働時間の短縮に回され、時短によってもたらされた自由時間で全面的な人間発達が可能になる――ここにマルクスは人間の解放をみたわけです。
ここには、無理な人為ではなくて自然史的な過程として社会発展がとらえられ、なおかつ人間が自由を拡大し、理想を実現するプロセスとしてもとらえられています。
こういうものとして社会主義をとらえる考えがローマーにはほとんどないことに、ぼくはおどろくのです。
搾取をなくすというのは自己所有にすることなのか?
さらに、ローマーは、伝統的な社会主義の考えを“搾取がなくなるというのは、労働者が自分でつくりだしたものが自分のもの(自己所有)になるということだ”として、そういう搾取の否定=自己所有という考えは「正しくない」(p.30)としています。
ここで考えるべき問題は、「搾取をなくす」とはどういうことなのか、という問題です。
搾取とは、たとえば労働者がつくりだした8時間分の果実のうち、3時間分だけを労働者にわたし、のこりの5時間分は資本家が取り上げてしまうことです。
だから、「搾取をなくす」というのは、その5時間分を労働者が自分のものにするということ……なのでしょうか?
不破哲三は、「搾取がなくなる」ということを次のような言葉で解説します。
搾取、つまり、労働者が働いた成果の大きな部分が剰余価値、資本家の利潤となるということはなくなります。労働の成果から、社会保障など社会全体の必要にあてられる部分や生産の拡大に必要な部分を除いて、それ以外はすべて、働いた階級のものになります。(不破『党綱領の力点』p.139)
少し違和感があります。
というのは、不破の「働いた階級のものになる」という言い方は、単純な給料での個別分配をイメージしてしまうのですが、その点ではマルクス経済学者の置塩信雄の言い方のほうが、より正確ではないかと思っています。
ぼくは以前、置塩の『経済学はいま何を考えているか』の「搾取をなくすとはどういうことか」という章の内容を紹介して次のように書きました。
搾取がなくなる、とは一体どういう事態なのか。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/okisio.html
置塩は、搾取の廃止とは剰余労働の消滅を意味するのだろうか、と問いをたて、そうではない、と結論づける。
「問題なのは、剰余労働を行うのかどうか、どれくらい剰余労働を行うのか、剰余労働で生産された剰余生産物をどのような使途にあてるのかなどについて、労働者がその決定を行うのでなく、誰か他の人びとが決定し、労働者はそれに従わねばならないという点にある。そして、そのようなとき、労働者は搾取されているのである」「剰余生産物の処分の決定を誰が行うか」
つまり、ここにたいして社会が決定にくわわれれば、搾取は存在しないのである。
つまり搾取をなくすとは、剰余生産物をどう処分するかについて、一部の資本家だけでなく、(労働者階級が中心となる)社会が決定することを意味します。剰余労働をどれくらいするのか、その剰余生産物をどれだけ自分の生活向上にあてるのか、社会保障にどれだけ回すのか、公共事業や生産拡大にどれだけ回すのか、時短にどれくらいあてるのか、そういうことを資本家が決めるのではなく、社会が決める。これが搾取がなくなるということです。
置塩は、資本主義のもとでは、労働者は剰余生産物の処分の決定から排除されており、まさに所有とは決定なのだとしています。逆に言えば、いくら生産手段を国家所有にしたとしても、労働者が剰余生産物をどう処分するかという決定から排除されているなら、やはりそれは搾取がなくなったとはいえない、という卓見を述べています。
現実に、剰余生産物をどう処分するかということは、昔のように資本家の専属的な決定事項ではなくなりつつあります。
例えば、累進課税や法人税のような形で、資本が利潤として得た果実は、社会がこれを強制的に取り上げ、社会に再分配するしくみが資本主義の中で生まれました。
また、例えば環境を壊さないような装置や規制をして企業を運用することを強制的に課して、環境保全のコストを出させたりします。
最低賃金、公契約のような形で、労働者への支出を強制することも行われます。
もちろん、これらは資本主義のもとでは部分的な措置でしかありません。
しかし、社会はこのような法律や制度を設け、剰余生産物の一部を労働者や社会のために使うことに関与するようになってきています。これは搾取をなくすために社会の中で生まれ育っている、新社会(搾取のない社会=剰余生産物の処分に社会が十分に関与できる社会)の萌芽と言えます。
置塩の見解によって、「搾取の廃止」「所有」という問題がクリアに、一体的に解決されるのです。