二宮ひかる『アイであそぶ。 二宮ひかる作品集』

 「あいつ頼めば誰とでもやるぜ?」という「娼婦としての同級生」はどこの中学や高校でも1つくらい「噂」としてあるもんだけど、まあだいたいは「噂」にすぎない。誰かをおとしめたいという意図で始まった妄言が、男子中高生の欲望に乗って自由に飛翔してしまうのだろう。

アイであそぶ。—二宮ひかる作品集
 二宮ひかるの作品には「学園のビッチ」というか、セックスが好きだとどこかで公言するエキセントリックな少女が登場するものがしばしばある。この短編集だけでも3作もある。どんだけ好きなのこの設定。

 女子高生・出水妙子は「ワンコイン女」、500円で誰とでもヤラせてくれる女として使いっ走りのようにいじめられている。かといって気が弱そうではなく、どこか飄々として正体がつかめなさそうなことばかりをうそぶいている。
 短編「オンリーワン」は、この出水を傍から観察している学級委員長と、出水とのかかわりの話なのだが、軽蔑されている謎めいた女にたいして、自分(委員長)がセックスを与え、救済する、という驚くべき妄想で満たされた物語である。フーゾクに働く、すなわち苦界に身を沈めるあえかなる女性を、セックスをした後に救済するというオヤジ感性が、「学園」という舞台に姿をかえて炸裂しているのだ。
 「学園の娼婦と噂される女」という設定は、売春をしている女性を「セックス好きの女」と解釈するお前はどんだけおめでたいのだという非難に対しても「いや娼婦だと思われていたのは実は誤解だったのだ」という筋運びにすることで、逆にこの制約が解除されて、目した女が実は性的な存在であるということだけが浮かび上がるようになっている。

 ところが、ここまでぼくら「元・男子中高生」の欲望に奉仕しながら、二宮は描いた女性をオトコの手にはすべり落としていかない。女はするりと男の手をぬけて砂のように消えてしまう。「謎めいたままの存在にしたいという、ちょっとばかし狡猾なだけの戦略なんだよ」というふうにも見える。
 しかし、それはたいそう困る展開なのだよ!
 同級生の女は徹底的なまでに「性的存在」としてオトコを求めていて、抑圧から解放してくれた男に、身も心もデレデレになってほしいと願うぼくからすれば、謎っぽくどこかへ去られてしまうのは大いに「欲求不満」というほかない。何も面白くないではないか。おれの性欲をどうしてくれる。

 河原で1回ヤったきりでろくに会話もなくなった委員長と出水。委員長はその謎めいた存在である出水の内語を妄想する。

——ちがうよ!
好きに…
ホントに好きになっちゃったから…
恥ずかしくて声かけらンなくなったんじゃん
そっちから声かけてくれるのを
ずっと待ってたのに
(二宮『アイであそぶ』p.187)

 ぼくは「そんなわけないだろ」というツッコミをいれつつも、でも河原で一度はセックスしたんだから、こういう気持ちであっても不思議はないよな、とか勝手なことを考える。
 結局なにもないまま卒業しちゃう。余韻を残す展開にしたかったのか、男の妄想どおりにはなりませんよという二宮の抵抗なのかは知らないが、ぼくには「寸止め」の効果はなく、ただただ不満として残る。

 この作品を読んでいると、ぼくはいつまでも「学園」のフェティシズムに拘り続けさせられており、「性的に使用を禁止された身体」をもつ「女子学生」へのフェティッシュなこだわりを捨てられないでいることにくり返し気づかされる。
 さらに、謎めいた女=「聖女」と、「娼婦」へと女性理解を分裂させ、それを同居させる感性は、フェミニストたちにつとに告発されているところである。

相手を理解不能な存在——すなわち異人、異物、異教徒——として「われわれ」から放逐する様式(これを「他者化」ともいう)には、人種化とジェンダー化のふたつがあり、このふたつは密接にからまりあっている、とサイードは『オリエンタリズム』[Said 1978=1986]のなかで指摘する。すなわち、「東洋[オリエント]」とは「女」なのだ。ここでいう「オリエント」とは「異邦(異郷)」の別名であり、「オリエンタリズム」とは異なる社会を他者化する様式のことである。(上野千鶴子『女ぎらい』p.38)

男にとって女とは、母性のやさしさ=母か、性欲処理機=便所か、という二つのイメージに分かれる存在としてある。[中略]男の〈母〉か、〈便所〉かという意識は、現実には結婚の対象か、遊びの対象か、という風にあらわれる。[中略]男の〈母〉か、〈便所〉かという意識は、性を汚れたものだとする性否定の意識構造から生じる両極の意識としてある[中略]。遊びの対象として見られようと結婚の対象に見られ選ばれようと、その根はひとつなのだ。(田中美津「便所からの解放」)

 二宮ひかるを読んでいると欲望を中途半端に引きずり出されて放っておかれる。さっきも述べたように、寸止めではなくて、甚だみっともないところで放置されるような感じだ。ベルトをゆるめ、ズボンをおろし、一物を出したまま、大通りに置いていかれるようなものである。そのようなどうしようもない自分の性的嗜好、偏り、抑圧者ぶりを鏡のようにみせつけられ、再確認させられる。