ちきりんを批判する
電車を待つために駅の本屋に寄って「AERA」2011.2.21を読んだのだが、けっこう読み出があった。
もともとは「連合赤軍」事件の中心人物で、先頃死んだ永田洋子の「ラブレター」にまつわる話が面白そうなので手にとった。結局、離婚をした坂口弘が好きだったということなんだけど。
ちきりんのエントリでは、「連合赤軍」事件の「総括」として、理論と感情にものごとを分けて、
たいていの場合、感情は理屈より圧倒的に正しい。だからそのふたつに矛盾を感じたら、感情に沿って生きるべき
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110208
と言っていたのだが、これは丸山眞男が指摘した「理論信仰と実感信仰」における「実感信仰」そのものである。こういう結論の導き方はないよなあと思う。*1
あらゆる政治や社会のイデオロギーに「不潔な抽象」を嗅ぎつけ、ひたすら自我の実感にたてこもるこうした思考様式が、ひとたび圧倒的に巨大な政治的現実(たとえば戦争)に囲繞されるときは、ほとんど自然的現実にたいするのと同じ「すなお」な心情でこれを絶対化する…
(丸山『日本の思想』)
この丸山の指摘を生かしていえば、むしろある集団のなかでの「巨大な政治的現実」の前に「すなお」な心情で警官殺害やリンチを絶対化したのだろうと思う。「理論」の力は作用せず、むしろ圧倒的な「実感」の力が働いたのが「連赤」事件だ。「AERA」の記事においては、永田の弁護士をつとめた秋田一恵の次の談話が重要だと見る。
「まじめで並はずれたがんばり屋さんだったからこそ、あんな事件を起こしてしまったのではないでしょうか」
この点についてぼくは
永田は、さして激しい学生運動の体験もないのにセクトに居着き、それを教条的なまじめさだけでこなしていこうとした。活動家においてこういうタイプの人間をぼくはしばしば見受ける。そして自分のなかに経験や理論の自信・根拠というものがないから、たえず強力な指導者に影響を受け、その忠実な実行者であろうとした。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/red.html
こうした永田の個人的資質は、事件の主因ではないにせよ、事件の重要な推進動力になったとぼくは考える。ゆえに、『レッド』1巻がここを描いているのは本質的である。
非現実的な「武装闘争」へと傾斜していくとき、理論や経験があればそれを防ぐことができた。あるいは「ふまじめ」であればどこかで放り投げていくこともできた。永田にはどちらも欠けていたのである。
と書いたが、秋田のコメントはそのことをよく表している。
携帯メールの記録はどうやれば消えるのか
ところで、「AERA」の本号の記事だが、他にも興味深いものとしては、相撲の八百長問題で誰もが一度は頭に思い浮かべた「携帯メールの記録はどうやれば消えるのか」というテーマ。
しくみをよく知らないぼくからすると「根源的には、業者のサーバーを調べればいいんじゃないか?」という思いがあったのだが、基本はこれでいいらしい。令状が必要だったり、わりと短い期間(3年くらい)で記録がなくなるといううらみはあるらしいが。サーバー以外では、携帯の基板を破壊というか破砕することがベストのようで、他にも「塩ゆで」にするもいいようである。
できちゃった婚は「最強の人生選択」なのか
「死ぬまでにいくら必要か」という記事は、老後の資金額について書かれている。厚生年金の場合は、「空白期間」、つまり退職してから年金支給までの間がどれくらいになるかがやはりカギのようだ。まあどれくらいの水準で生活をするのかでずいぶん変わるんだろうけど、
例えば40歳のサラリーマンと専業主婦の場合、60歳の時点で退職金や預貯金などで2200万円蓄えていても、66歳で「マネー寿命」*2が尽きる。そのころには年金財政はさらに悪化し、支給開始年齢が70歳ごろまで引き上げられている可能性が高いからだ。
と聞けば震え上がる。ぼくら夫婦の「覚悟」としては、(あくまでぼくらの場合)夫婦で月10万円あれば何とか我慢していけるのではないか、とふんだのだが、こういう計算は、経常費だけを見積もるので、物入りの瞬間のことはすっかり忘れられている(例:知りあいが死んで葬儀に東京に行く、泊まる、など)のでまあアテにはならない。
この記事では「老後の心得10カ条」なるものが載せられていたが(池田圭介・藤川太の老後セミナー資料)、そのトップが
晩婚・晩産は、「親の介護」「子供の教育」が「退職後の無年金期間」と重なり「共働き」でないと老後は生活苦に
とあって、ビビる。これを「トリレンマ世代」と称するようだが、この3つがすべて社会保障の貧困から来ていることにも考えさせられる。親の介護は親の費用の範囲内で必要なサービスが(保険として)必ず受けられる、大学・高校など高等教育は他の先進国並みに無償に、年金は退職と支給が切れ目なく、という方策さえとれれば問題はないはずだ。
福岡市には今7500人の特養ホーム待機者がいる。なのに、200人分しか毎年新設しない。どうするのか。この前、共産党が追及していたが、市の回答は「自宅で待機してなおかつ介護度4か5の人分くらいは確保できる」というものだった。
裏返すと、どんなに介護度が重くても病院みたいな別の施設で空きを待っている人や、自宅でも介護度3みたいな人は放置されているということである。
病院は3ヶ月たつと転院を迫られるし、介護度3といったって、
- 入浴や排泄などの行動が自分一人の力ではできない
- 立ち上がりや歩行などが自力ではできない
- 痴呆に関連する問題行動もあらわれる
- 身だしなみや居室の掃除などの動作が自分一人ではできない
というレベルの人なんだから、それには対応していないってどうなんだ。
そして、「老後の心得10カ条」の第2は、
「できちゃった婚」は子供が早く成人するので、最強の人生選択のひとつ
とある。この記事の流れからいえば、「トリレンマ」を避けられるからであろう。しかし、「できちゃった婚」は必ず早婚だと断定するのはものすごいことだ。40すぎて「できちゃった婚」する人だっているだろうに(下記データでは35歳以上でも1割いる)。
http://www5.cao.go.jp/seikatsu/whitepaper/h17/01_honpen/html/hm01ho10002.html
もし「現実のデータ」をうんぬんするなら、門倉貴史のいうように、
「できちゃった婚」が良いか悪いかという倫理的な価値判断は別として、一般的な傾向として若いカップルは収入が少ないため、生活基盤がしっかりしていない状態で子供が生まれてしまうことになる。その意味で、「できちゃった婚」をした若いカップルは、ある程度生活基盤が固まってから計画的に子供をつくるカップルに比べて、万が一のリスクに備えることが難しいと言わざるをえない。
http://news.livedoor.com/article/detail/3454014/
という現実があるのだから、およそ「最強の人生選択のひとつ」とはいえないと思うのだが。
「イクメン」ブームを断固支持!……するのか
ああ、前置きのつもりで「AERA」の他の記事を紹介しようと思っていたら、むちゃくちゃ長くなってしまった! ぼくの知りあいで「すいません、あんまり前置きを長くすると怒られますので、手短に話しますが…」とものすごく長い前置きをいろいろしゃべる人がいるんだけど、ほぼその人状態。とこんなことを書いてる間に早く本題に入るべきだよね!
「イクメンで一発逆転」という記事が本当はいろいろ言いたかったことなんだけどね。
「イクメン」というのは説明するのもアレだが、育児をする父親をヨイショする言葉である。
結論的に言えば、父親の育児を称揚する風潮は非常に正しい。そのためにとにかく社会現象として人口に膾炙させ、大騒ぎしようという努力であることは十分にわかる。しかし、自分でいうのはどうにも恥ずかしいだろ。だいいち、女性が当たり前のようにやってきた(やらされてきた)のに、「育児美人」とか言わないし。だから、この記事で取材されている男性が、
「イクメンは自称しません。持ち上げられるまでもなく、共働きとして当たり前のことをやってるだけですから」
みたいに言ってるは至極当然なんだけど、すでにこれを抽出しただけで、「善行しているのに謙遜する美風あふれるコメント」みたいな感じになっちゃうのがこわすぎる。たとえば「歯をみがいた」だけで、「すごいね、毎日みがいてるんだ!」とかホメられて、「ハミガキストは自称しません。持ち上げられるまでもなく、生活者として当たり前のことをやってるだけですから」とコメントしているみたいな感じに仕上がっている。たぶんこの男性はもうちょっとナチュラルに否定したんじゃないかと思うんだけど(例えば「え!? いや別にイケメンとかそんな。もう全然。共働きなんだから自分もやらないとマズいっしょ」みたいな)、記者がわかりやすくまとめたために、こんなコメントになっちゃったんだろうな。
データとして、「仕事と育児はどちらがラク?」と聞かれて、「子あり男性」「子なし男性」「既婚女性」すべてが過半数で「仕事がラク」(「ややラク」と「断然ラク」の合計)と答えているのは面白い。とくに育児の負担が集中している既婚女性では7割を越えている。
この記事でも紹介されているが、ぼくもトラックバックを打った下記のブログ記事の「正しさ」が証明されたことになるわけですよ!*3
「休日くらいはゆっくりさせろ」とぼやく、KYな世の中のパパさん達へ
この「AERA」記事では、イクメンブームにたいする手厳しい声も紹介されている。ベンチャー企業で働きコンサルとして独立した男性は、
として、午前2時から家事をこなし、週末にも子どもとかかわる自分の姿を紹介する。*4また、中小企業に勤めていた男性は、
「イクメンは、ごく一部の、職場環境が整った大企業の贅沢品にしか思えません」
とのべている。
旧来の職場体制は解体されざるを得ないのでは?
そういう辛辣な声はあるんだけども、おそらく父親が育児に「参加」し、それによって企業戦士的な生き方が解体していく、という流れは止まらないだろう。
もちろん、過労死を迫るような過酷な労働環境がそのままなら、「イクメン」にはなれまい、というのはそのとおりなのだが、そういう人は、そもそも就職しないか、賃金条件が悪くても時間がとれる職場を選んでいくようになるということだ。
ぼくがいる職場では、上の世代(の男性)は、もう家庭もかえりみないほどに仕事にのめりこんできた人たちがひしめいている。現場・最前線の仕事はそういうスタイルを前提に組まれている。土日もなく働き、夜中まで職場にいる。ぼくが育休をとったことや5時に帰っていることを陰で罵る人もいる。
そして、保育園の6年間がすぎれば、「子育て期間」が終わり、夜中まで働けるようになると思っている。
しかし、とてもそんなふうにはならないだろう。
ぼくは、最近数年後のことを想像して不思議に思ったことがある。それは「子どもを1人で遊ばせることができるのは一体いつからなのか」という問いである。「1人で遊ばせる」というのはたとえば近所の友だちの家に自由に行き来したりするような遊び方だ。
ぼくの子どもの時代は、田舎だったこともあり、少なくとも保育園に行き始めた4歳のころは1人で遊んでいた。福岡市にいる年輩の人たちに聞いても、「3歳から」という人もいたし、まあ就学時にはだいたいもう1人で遊ばせていた。
しかし、今子育てをしている同世代の諸先輩に聞いてみても、「小学校入学」という答は返ってこなかった。だいたい「小学校4年生くらい」というものだ。これは学童保育がおわる期間に一致する(現在福岡市では学年を拡大中)。
ということは、「1人では遊ばせない期間」は10歳=10年にもなるのだ。ましてや子どもが2人もいれば、その期間は十数年にもなってしまう。
現役時代の十数年が子育てに「手をとられる」、「制限された勤務」になる、としたら、むしろそちらのほうが「常態」となる。少なくともうちの職場ではこれを基本にしなければ、若い人は寄ってこないだろう。年寄りを中心に職場を組み立てるか、働き方を再構成する以外に、生き残る道はない。
ぼくはサヨクだから、社会制度を変えることで人間の生き方に変革をもたらそうという人種であるけども、すでに人々の間に広がっている「ライフスタイル」によって社会変革が起きていくことをきちんと考えなくてはいけない。
イクメンと呼ぶか呼ばないか別として、こういう価値観の父親が増えていくことで、労働そのものが変革されざるをえないという可能性も十分あるのだ。
*1:ぼくは「論理というものの限界」についても指摘したことがあるが、それは明らかにここでの粗雑な二分法とは違うと考える。 http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/kokka-no-hinkaku.html
*2:持てる金融資産を使って何歳まで持ちこたえられるかを示す。
*3:関係ないけど、このブロガー(かん吉)は、この記事以後ものすごくブレイクしていて、はてブに関してだけいえば、ケタが違うブクマを集めている。この記事が転換点だったのか。
*4:ちなみに、この男性の視点には「父親たる自分の家事と育児参加」しかなく、父親が帰るまでの家事と育児の根幹が日常的に誰によって支えられているのか(答=妻)、という視点はない。