「前衛」2011年3月号に載った唐鎌直義「日本の社会保障の後進性と打開への道」は、認識を新たにする点がいくつもあった。認識を新たにするような文章にはそうそう出会えるものではない。
ぼくが一番うなったのは、日本の生活保護制度の額面上の「充実」ぶりであった。「国民一人当たりの生活保護支出」の国際比較が載っているのだが、300米ドル台のずばぬけた実績をもつスウェーデンとアメリカをのぞくと、日本はドイツやイギリスと並んで「90米ドル」台となっている。つまりヨーロッパ諸国と比べると遜色ないように見える。
ところが、ドイツとイギリスの生活保護(公的扶助)は日本でいうところの「生活扶助」に特化しているのにたいし、日本では生活・医療・住宅・介護・教育・生業・葬祭・出産という8つの扶助があわさっている。
生活扶助だけで比較すると、約30米ドルになってしまい、独英の3分の1になるのである。
唐鎌はそれが意味することを、次のように書いている。
なぜ日本の公的扶助は、あれやこれやの種類から構成されているのか。その理由は医療保障、介護保障、住宅保障、教育保障のそれぞれの分野で最低保障の仕組みが脱落しているからであり、そうした社会保障制度全体の構造的矛盾が生活保護制度にしわ寄せされているからである。こうした状況を筆者は「ナショナルミニマムの孤島」と呼んでいる。餌をとれずに飛び疲れた渡り鳥が、もうこれ以上飛べなくなって絶海の孤島に落下する。それが日本の生活保護制度の現実的機能である。しかし、ひとたび「稼働能力を持たない」と判断されて保護の受給を認められると、この認定(本質は限定)された「貧困者」に対して、八種類もの扶助の中から数種類が組み合わされて最低生活が保障される。国家によって選別され切り取られた被保護者から見るならば「生活保護は手厚い制度」ということになる。現に日本の生活保護法を「一般扶助主義の仮面」を含めて、高く評価する研究者は多い。しかし「手厚い」のではない。生活保護制度の外側に位置すべき各種社会保障制度がどれも「ナショナルミニマム」機能を持たないから、相対的に「手厚く」見えるに過ぎない。本末転倒の話なのである。
唐鎌はこのあと、医療の無料や住宅への家賃補助が一般世帯に行われているイギリスの社会保障制度を紹介する。
イギリスでは公的扶助制度が「絶海の孤島」ではなく、「社会保障列島」を構成する一つの島なのである。
よく「日本は極貧層が福祉で、富裕層が減税でいい目に会っていて、一番ワリを食っているのは、なんの恩恵もなく搾り取られるだけの、まじめに働いている中低所得者だ」的な議論に出会うことがある。
唐鎌は論文の冒頭で、日本の生活保護制度が「貧困であれば誰でも救う」という「一般扶助主義」ではなく、依然として「稼働能力」の有無を問題にして受給を厳しく制限する、戦前以来の「制限扶助主義」をとっていることを批判している。実際、生活保護の大半は高齢世帯か傷病・障害世帯であることをみればそこのことはすぐにわかる。
生活保護世帯の何%が働いているか? - 情報の海の漂流者http://d.hatena.ne.jp/fut573/20100711/1278843282
そのように、生活保護自体が「狭き門」であることをふまえてであるが、いったん生活保護を受給すれば、同様の貧困ラインであえいでいる人よりも「優遇」されているかのような感覚にとらわれることは確かにある。
端的なのが国民年金で、25年以上せっせと保険料を納め、ようやく手に入れることができる年金は満額で月6万6000円にすぎない。平均支給額は4〜5万円になってしまうから、これだけをあてにして生活するような老後はほぼありえないと言っていいだろう。ぼくもかかわった生活相談で、ある老婦が月4万円台の国民年金しかなく、結局その後生活保護になったというケースがある。
これでは老後は公的年金よりも生活保護を受けて生活した方が有利であると、国が加入者を誘導しているのではないかと疑いたくなる。
ぼくの住む福岡市は、国民健康保険料がバカ高く、とくに中低所得者には負担が重い。年所得200万円で3人世帯というモデルケースだと40万円を大きく越える。所得の2割以上が保険料だけでもっていかれるという実に過酷な制度になっているのだ。あげくに保険料が納められなくなって保険証をとりあげられ、医者にかかれなくなって手遅れになっていく。
共産党の志位和夫が最近国会でとりあげていたが、他の政令市も似たり寄ったりだ。志位がとりあげた事例では、保険料を必死に分割納付してきたのに、「お前ら子どもの学資保険があるのを隠してただろ」といって、差し押さえされたのだ。大学にいくことはここでは「ぜいたく」なのである。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2011-02-04/2011020405_01_0.html
ますます日本社会が「マクドナルド化」され、単純サービス労働と、知識集約型の労働に二極分解し、進学や学歴が人生を大きく分つものになっている。そして日本の大学の7割は、学費の異様に高い私大だ。そういうときに、学資保険をとりあげられる絶望は想像して余りある。
唐鎌によれば、
生活保護の医療扶助の受給者について調べてみると、圧倒的多数が「国保適用除外」という理由で受給に至っている。「国保から生活保護へ」という道筋が出来上がっているのである。
他にも高い利用料によってサービスを抑制される介護保険、生活費のかなりの部分を食い荒らす住居費や住宅ローンをみればいい。なるほど「まじめに働いている中低所得者」には確かに過酷なまでの仕打ちが待っているのだ。
生活保護法に明記されていない運用上の受給要件によって排除された低所得の「非保護者」(要保護者)が限定的「被保護者」に向けるまなざしは厳しくならざるを得ない。同じような生活を送る貧困者同士だからである。
中低所得者が「生活保護受給者」をたたいて、生活保護制度をいっそう貧しくさせる方向に矛先が向くのは、理由のないことではないわけだが、それは「生活保護者が優遇されている」のではなく、「自分が不遇」なのだ。
唐鎌は、こういうときには、生活保護制度だけを「守る」たたかいをしていても展望がない、それは守りの姿勢にほかならない、と指摘する。生活保護制度の防衛にも成功しないだろうという。
ではどうすればいいのか。
それはさっき、唐鎌がのべた「列島」をつくることが必要なのだ。
医療や住宅、介護、教育などといった人間が生きていく上で欠かせないものを、ナショナルミニマムとして、現物給付的な形で無料・安価に国民全般へ提供させれば、「生活保護者だけ、なんで…」といったスティグマ問題は起きない。
いや、スティグマがどうとかいう問題だけじゃない。
これは唐鎌は本論文では言ってないことだけども、たとえば日本のサラリーマンの4割ほどがまだその制度下にあるとされる年功賃金は、加齢とともに教育費と住居費があがっていくことに関連がある。これらを社会保障に移転してしまえば、年功賃金は意味が薄れ、賃金は低くても生活できるようになるし、また一つの企業にしがみつかなくてもいいから、雇用の流動化もおきやすくなる。同一労働同一賃金が低い水準でやりやすくなり、夫が長時間働くのではなく、短時間労働を夫婦が組み合わせて仕事をするようなスタイルも可能になるはずだ。
唐鎌はこうした改革について次のようにのべる。
なんのことはない。本当の意味での福祉国家の形成である。一年間の実質GDPが五二六兆円、国民可処分所得が四一三兆円に達する日本で、これらのことを実現していくのはそう難しいことではない。
唐鎌は、本論文の冒頭で、国民一人当たりの社会支出の国際比較をおこなっているが、この「一人当たり社会支出」はスウェーデンを100とするとドイツが73、イギリスが63、アメリカが50、日本が40になっている。
要は、国富が莫大にあるのに、社会保障という形では全然使われてねーよ、ということなのだ。「それは高福祉・高負担のことか?」という人がいると思うのだが、ある意味その通りだ。ただし「高負担」というのを消費税中心でやるのか、所得税の累進強化や法人税増税でやるのか、それとも他の方法でやるのかでずいぶん色合いが違ってくるのだが。
結局こういう大幅な改革をする以外に解決の道はないのだ。
唐鎌論文は他にも戦前の「恤救制度」がどういう水準のものだったのかを論じている。14歳以上70歳未満の場合は、障害者や重病人でなければ制度をうけられず、「稼働能力」をひたすら問題にする思想は現代にも受け継がれていることや、仮にその制度を受けられることになっても1食あたり下米1.6合分の現金支給しかなく、生きていけないという制度の貧しさ(劣等処遇)などが詳しく描かれている。
また、イギリスの「一般扶助主義」を紹介し、わりと有名な話だが、『ハリー・ポッター』を書いたローリング女史が「自立支援」などといって追い立てられずその結果同書を書き上げられたことなどが描かれている。ゆとりのある制度設計が高額納税者や稼働への復帰をかちとることで、公的扶助の費用対効果ははるかに高いではないかと日本の制度を批判するのである。
他にもさまざまな刺激的な論点があって実に興味深い論文だった。