親のアホさが目につく20代前半まで
ぼくの場合、反抗期めいたものは高校時代になってやってきた。ずいぶん遅いと思われるかもしれない。
左翼活動を始めたので真っ向から父親や祖父などと衝突するようになったからである。
家に置いといた反核運動の署名用紙に赤ペンで「×」などと書かれて頭にきたものだ。
もう亡くなったが、保守系の地方議員をしていたこともある祖父は、親子電話の子機で、孫であるぼくの電話を「盗聴」していたこともあった。左翼仲間からかかってくる電話に出たらどうも音が変だと思い、ピンときて、子機のある部屋に走っていったら、祖父がバツの悪そうな顔をしてむこうを向いていた。
そういう反抗期めいたものは、大学時代の終わり、すなわち20代の中葉(わけあって6年間大学におりました)まで引きずり、農家・自営業者、のち中小企業社長であった父親への複雑な感情、いわばコンプレックスとして残った。
父親は若い時は石原裕次郎のような壮健美があったのだが、年をとってからも晩年の石原裕次郎っぽくなり、晩年の裕次郎を丸刈りにして少々不細工にしたような感じである。よくヤクザに間違われていた。いまつきあっている町内会の幹部の人たちにこのテの風格の人が多いが。
10代末から20代前半は、思春期のように父親が単に相対化されるだけではなく、父親という個人がどういう社会的ポジションの存在なのかということもわかってくる。会社でヒラだとか、自営業者だけどかなり零細なんだとか。
そこに10代とか20代の若さゆえの傲慢から、父親への軽侮とかいう感情も生じてくる。アホみたいにみえるということだ。とくに学生の頃というのは社会人としての苦労がない分、そういう観念が生じやすい。
かくいうぼくも、学生時代までは自分の父親といえば「田舎の頑迷固陋な保守オヤジ」というイメージが強く、学生仲間に父親をバカにした言説を吐いたり、本人ともそういう気持ちで衝突したりしていた。
親の生き方に共感や敬意が芽生える20代後半
そういう気持ちに変化が生じるのは20代後半から30歳前後になるころで、自分が社会人になったり結婚したりするようになって、親の職業や生き方に対する敬意のような感情が生まれてきたのである。「結婚を祝う会」というのを友人たちにやってもらったのだが、そのとき親も呼んでその場で初めて自分は親への感謝のようなものを明確に感じることができた。
自分でもちょっとびっくりしたのだが、そのときまで他人、なかんづく親にたいして「感謝」というようなものを考えたことは実に希薄だった。
コミュニストと称しながら自分が他人によって生かされている、という自覚が弱かったのである。活動や仕事が自分の独力でとてもなされているものではない、ということを思い至るという経験を経てようやく感づいたといったところであろう。
大ざっぱに、かつぼくの個人体験を不当に普遍化するとすれば、独身期の青年期には親がアホにみえ、社会人になり結婚するような時期には親の苦労が理解でき、親の人生に自分を多少なりとも重ねることができるようになるのかもしれない。
親への軽侮と、親への共感・敬意が入り交じる時期というのがおそらく20代後半ではないかとぼくは思う。
石黒正数『響子と父さん』はこのような微妙な時期における子ども(娘)から見た父親像を、実にうまく形象化している。
『響子と父さん』はこの過渡期の父親像である
主人公の長女・岩崎響子はイラストレーターという職業を得て結婚を果たそうとしている年頃の女性で、響子とその父との日常生活を描いた作品である。「日常生活」といったが、冒頭に、パトカーに乗せられたとおぼしき父親、頭から血を流す長女、怒りに猛る次女、というカットが並べられており、
俺の…
岩崎家の歯車は
一体
いつ狂ってしまったのだろう
という父親の思わせぶりな独白から始まっている。1話から6話まではこの冒頭の「家族崩壊」を思わせる惨劇の展開のように読者に提示されるのである。
たしかにすべて上記の諸シーンがあるし、この独白めいたものを父親はするのだが、全体はありがちな家族崩壊の悲劇ではなくて、むしろコメディーであることが結末を読むとわかる仕掛けになっている。つか、途中まで読んでみるとわかるけども、ところどころに差し挟まれるコントめいた基調で最後にカタストロフィが待っていたら絶対おかしいだろ!
石黒のギャグによって、「父親のアホさ」はあますところなく描きつくされている。もういいというほどに。
「暴れん坊将軍」の殺陣好きな父親は模造刀を振り回してマネをするほどアホである。近所の廃マンションに不審を感じて模造刀をひっかけて出かけるというのは相当のアホで、加えて通報でやってきた警官に出会ったとき、
愚か者…
余の顔見忘れたか
と言ってしまう瞬間は最高にアホである。そして「あなたは!! 最上川本部長」と応じる警官の一人も同じぐらいアホである。そんなところに日本刀をもって警察幹部がいるわけないだろ。
その他にも娘を「若妻」などと意味不明な見栄をはって紹介するとか、次女を諭そうとしてわけのわからないたとえ話をしてしまうとか、各所で油断のならないアホさが待ち構えている。
父親のアホさしか見えないのが、20代前半とおぼしき次女・春香である。この反発を、石黒は「性分」として描いているのだが、ぼくからみると実に「20代前半」である。結婚や就職をもし春香がしたとしたら、おそらく春香の父親観も変わったのではないかと勝手に推測する。
ちなみに、春香は石黒の別の短編『ネムルバカ』の主人公の一人だから、一度芸能界デビューはしていることになるので「就職」はした経験があるのだろうが(途中で投げ出して行方不明になっている)。
父親の苦労話は出てくるけどもアホさしかない。
しかし、通して読んでみると、そうしたアホさのなかに、父親への敬意がじわりとにじむようにできている。職場での失敗談とか、子どもを海に連れていった思い出話とか、そういうものの一つひとつが実直に勤労と子育てをしてきた善良な市民という像を形成しているのである。
春香的段階を脱して、父親への過渡的なまなざしをもっているのが響子である。
まあ、くり返しになるけど、たしかに響子は早くから春香への父親の接し方には批判的な視線を持っていて、石黒はあくまで両者の違いを「性格の違い」として描こうとしているのだが、響子という形象が普遍性をもっているのは、単に「こういうタイプの女性だから」というのではなく、20代後半の父親観に通じるものがあるからだと思う。
「パーカー」と文化系女子
石黒作品は、後からじわじわ来ることが多い。
実は『それでも町は廻っている』も当初はちょっと面白かったがそれほど面白いとは思わなかった。しかし、読み返すうちに「何度も読み返したい」と思える作品であったことに気づいた。『響子と父さん』も一読目はサラリと行ってしまった。しかし、ふと手にとって二度三度読むうちに面白さがわかってきた。特に大げさなことが起きるわけでもない日常を描いているだけに、そういう「来」かたをするかもしれない。
ストーリーの起伏が激しかったり、ひどくドラマチックだったりすると、二回目を読むのに(つまり再度手にとるのに)そうとう時間がかかってしまう。
ところで、春香には全然「こない」ぼくであるが、響子にはグッとくるね。
20代後半のメガネ・文化系女子、という設定がいいんだけども、響子という形象を立体化させているのはパーカーである。1〜3話に出てくるパーカー姿の響子には、文化系女子の生活感がにじみ出ていてその象徴としてパーカーがある!(これにたいして春香のパーカーは全然ダメである)。
いやー、パーカーなんかピクリともこんわ、と思っていたが、ここにきてそうでないことを知った40に近い春。