娘と何歳まで一緒に風呂に入るか

 親子混浴はいつまで許されるのか。
 異性の親子、特に父親と娘という関係では非常にデリケートな問題だ。
 すでにぼくの家ではこのテーマは過去の問題となっている。
 なっているので、書く。


 アメリカなどでは混浴自体が問題視され、別文化であるアジア移民系の父親が「性的虐待」とされたニュースも聞いたことがある。

中華系団体の調停員、李江華氏がこのほど、数年前に起きたある悲劇について紹介した。中新網が23日伝えた。その悲劇とは、10歳の少女が学校で教師から「お風呂は誰と入っているか?」と尋ねられ、素直に「パパ」と答えたために通報された中国人男性が、娘の養育権を剥奪されて逆上、ナイフを振り回して暴れたため、警察官に射殺されたというものだ。(2013年6月24日「新華網」)

 日本では自治体の条例で、公衆浴場における混浴の年齢制限をしている。例えば下記は福岡市の公衆浴場法施行条例である。

第5条 前条第1項に定めるもののほか、普通公衆浴場に関する措置の基準は、次のとおりとする。……
(4) 10歳以上の男女を混浴させないこと

http://www.city.fukuoka.lg.jp/d1w_reiki/reiki_honbun/q003RG00001215.html

 これはだいたいスタンダードな条文で、多くの自治体の条例では「10歳」は一つの区切りである。お父さんやお母さんと銭湯や温泉に行って子どもであることを理由に一緒に入れるのは、10歳までということだ。*1第二次性徴の始まりを意識した区分と言える。


 紙屋家ではどのような方針をとったか。

  • 「娘が『もうお父さんとは入らない』と宣言する」もしくは「自然に一緒に入らなくなる」までは、父親の側から「今日からやめよう」とは言わない。
  • 娘が小学校に入ったら、父親の側から「一緒に入ろう」とは言わない。*2

というものだった。
 以上の2箇条は、決して娘には言わず、不文律として自分に課す(そして家庭内ではつれあいにだけは言う)。つまり「自然に混浴が消滅する」ということを狙った。


 これは、娘が保育園のときに、保育園保護者会の役員会で一緒だった男性で、教員をしているWさんから聞いた話に影響を受けたからである。

父親の側から「もう一人で入りなさい」とか言わないほうがいいですよ。強い形で性を意識させてしまうことになる。自然に入らなくなるとか、娘さんが「もう一緒に入らない」って言うのを待つほうがいい。とにかく何歳であっても、娘さんが自然に違和感を持つようになるのを辛抱強く待つ方がいいです。

 非常に納得がいった。
 だから他のパパ友から「紙屋さんはいつまで娘さんといっしょに風呂に入るつもりですか?」と聞かれた時、上記のように答えていたが、「じゃあ、娘さんが言い出さなかったり、一緒に入ろうとし続けたらどうするんですか?」と追及されるので「その場合は……まあ、高3の夏までかな」などとトボけていた。
 確かにこの方針をとる以上混浴はずっと続いてしまう可能性はあるわけで、ぼくもやきもきしたものであるが、結局条例通り(笑)、10歳で自然消滅した。


 ぼくが、Wさんの方針に強く共感し、支持したのは、常々、「父親は性的な存在であるという側面を持っている」ということを、できるだけ自然な形で娘に知ってもらいたいと思っているからである。
 このために、性的な部分をまったく隠蔽すること、逆に性的な存在であることを不必要に強調することは、娘の性教育にとってまことに不健全であると考えていた。
 その原則からいえば、「今日からお父さんと一緒にお風呂に入るのは、やめなさい」と突然宣告するのは、父親が性的な存在であることを急激に娘に意識させ、また、性的な存在であることを「恥ずかしい」と思わせる意識を植え付けかねないという危惧があった。


 だから、家のマンガ棚には性的なコンテンツもある。
 『分校の人たち』が1巻と3巻、置いてある(笑)。
 別に山本直樹とか鬼束直とかだけじゃなくて、例えば西炯子のコミックにはセックスのシーンが描いてある。そういうものが置いてある。
 娘は父親であるぼくの知らないうちにそれを勝手に読んでいる。
 セックスそのものについて父娘の間で議論になることは、ほとんどない。
 しかし「ストライク・ウィッチーズ」のどのキャラが「好み」かを娘が聞いてきて、それにぼくが答える際に、父親がどのような「性的な好み」であるかを示すもの*3だということを薄々認識しながら娘はその答えを聞くことになる。実際なぜルッキーニが好きなのかとか、なぜミーナなのかと理由を聞かれるので、「もし顔だけの好みなら」とか「もし一緒に生活するパートナーなら」とかぼくが言うのである。
 そしてまあ、おおっぴらじゃないけど、つれあいとイチャイチャすることもあって、そのことを娘が全然知らないわけではないと思う。
 つまり、そこでは、ある程度の性的な歪みを伴った、しかし、生身の父親という身近にいる男性が、女性に性的な視線を注いでいる、または女性に欲望を向けている「性的な存在」であることが示されるのだ。
 娘にはその欲望は決して向けられていない、しかし、父親も性的な欲望を持っている存在、もしくは性的な存在であることを「自然に」知ってもらうのが、ぼくなりの性教育だと思っている。
 「自然に」というのがまた微妙で、「ナチュラルメイク」がナチュラルでもなんでもないように、「自然に」というのは無防備・無自覚的に伝えるのではなく、相当に意識的な「温度設定」をして伝えるということである。


 ぼくは小さい頃、兄の引き出しからエロ本が出てきたのを発見した時、1日眠れないくらいの打撃を受けた。また、両親がセックスをしているときの「喘ぎ声」を聞いた時、やはり同様の打撃を受けた。今まで1グラムも性的な側面があるとは思いもしなかった家族が実は性的な存在だったという突然の事実に、距離感が取れなくなってしまったのだ。もちろん、それゆえに「セックスなんてフケツだ!」みたいな反応をこじらせることはなかったわけで、子ども(人間)にはそこを乗り越えていく力があるとは思うのだが、乗り越えられずにいろいろと歪んでしまう場合も少なくない。*4
 


 性的なコンテンツとかポルノというのは(被写体の人権侵害の側面はいまは措くとして)、それを見る者に、そこに描かれている・映されている・写されている人間が性的な存在であることを一面的に強調する。人間の中にある豊かな側面・要素は捨象され、性的な喜びを感じ、それだけに左右されるかのような存在であるように描かれる。だから興奮するのだとも言える。
 そういうファンタジーだと思って、鑑賞するわけだ。
 「ファンタジーだ」というフェンスで囲って鑑賞するのであるから、そのファンタジーの中ではどんな想像も解放されうる。クジラックスとか月吉ヒロキのような、子どもへの性暴力という形で自分の中にある支配への志向や攻撃性を消費する作品さえも、そのフェンスの中では「楽しむ」ことができるだろう。(もちろん本人はフェンスで囲っているつもりでも、「女性とは性的な存在でしかない」「攻撃してもよい性的な存在である」というメッセージは、「ヒドゥン・カリキュラム」として作用し、知らないうちに自分のリアルな性意識をどこかで歪ませ、強化しているかもしれない。だからこそ、そのようなポルノへの批判はありうることだし、「リアルと虚構の区別くらいはついてますよ!」などとナイーブにポルノを楽しんですむものではないとは思うが。)


 ポルノそのものが性教育教材になりにくいのは、性的な存在であることの過度のデフォルメであるからだし、一面的な強調とそれによる歪みが現実の性意識の中にうっかり入り込みやすいからだ。
 人間は性的な存在であることをなんらかの形で伝えるべきだと思うが、それはポルノのような形ではない、ということである。
 しかし、父親がポルノ(ぼくの場合はエロマンガ)を「使って」、自分の性的な欲望と付き合っている存在であることは、娘には少しぐらい知っておいてほしいとさえ思っている。「こっそりと本棚の隅にエロマンガがある家庭という風景」は、性教育にとって一つの理想ではないか?


 要するに、娘には「人間は多様な側面があるけど、そのうちの一つが性的な存在だという側面だ」ということを「自然に」知ってもらいたいと思っていて、それがぼくなりの性教育だと思っている。「性的な存在でしかない」とか「性的な存在では全くない(性的な存在であることは恥である)」とかいう強調は間違っていると考えていて、特に子育てや教育の現場では、後者になりやすい。


 ぼくは以前の記事で、娘に性についての絵本を与えたことを書いた。
 必要最小限に「性において正しいこと、間違ったことは何か」を伝える程度のことはしなくてはならないが、それは性教育のほんの一要素でしかない。
 むしろ自分自身が生き方全体の中でどのように性的存在であるのか、または性的存在ではないのかを実地で示すことにこそ、性教育の広大なフィールドがある。*5

*1:現実に9歳の子どもが異性用の風呂にいたら相当違和感があるとは思うけど。

*2:娘が断りにくくなっている可能性もあるから。

*3:二次元だけどね。

*4:いや、もちろん、娘がぼくの本棚のエロマンガを手にとって衝撃を受けているかもしれないし、ぼくら夫婦がどこかでイチャイチャしているのを知って衝撃を受けているのかもしれない。ぼくが知らないだけで。

*5:この記事全体がヘテロセクシュアルを前提に書いているけど、それを同性愛について置き換えても同じである。