押切蓮介『ピコピコ少年』

 保育園に行っていると、子どものためにいい環境をどうつくるか、という情報が洪水のように押し寄せてくる。この前保育園の懇談会でやった学習会はこうだ! 「きゅうしょくだより」の見出しを紹介しよう。

〈ジュースの中身は砂糖だらけ??〉
〈砂糖(糖分)を摂りすぎると??〉
〈砂糖を摂り過ぎた結果どうなるの??〉
〈なぜ味覚がおかしくなるの??〉

 異様に甘い砂糖水をまず飲ませられ、次にそれにレモン、炭酸をいれると、あら不思議。飲めてしまいますね! という実験を体験させられる。

 あるいは、テレビなどのメディアは絶対に見させないようにとの話が念入りにある。

 いやまあ、至極ごもっともと思うので、別にそれはいいんですが。

 そういう環境で生きていると、いかに自分がそれと正反対の幼年・少年時代を送ってきたかなどということは忘れて、子どもにベストの環境を与えなきゃ、という気になってしまう。

 そんな「子育て目線」からみて、押切蓮介の『ピコピコ少年』ほど恐ろしい漫画はあるまい。

 

 


 この漫画は押切のゲーム人生自伝である。
 いや、そんな生やさしいものではない。「ゲームの虜になることによっていかにダメ人間としてスポイルされていったか日記」として傾斜がかけられている。前述のような子育て環境にいるぼくのような人間が読むとふるえあがるほどだ。免疫のない子育て世代の親なら泡をふいて卒倒すること疑い無しである。

 冒頭のエピソード「初恋少年」は、この作品全体を基調づける「人間退廃」が象徴的に表されている。親に隠れてゲームウォッチをする押切の「ゲーム脳」ぶりの描写から始まり、近所にいた「貴音ちゃん」という同級生(小学1年)がファミコンをもつことでまったく勉強のできない「ダメ少女」になってしまっていることが描かれるのだ。

〈貴音ちゃんのこの人生に対して
 まったくやる気がない表情が好きでしかたなかった

 たし算もロクにできず、明らかに俺よりバカな所も
 好感が持てる〉

 暗い表情で「13+4」を必死で計算する貴音ちゃん。「この手を使う感じ…ナイスだぜ」と暗い表情で喜ぶ押切。
 しかし、貴音ちゃんの家でファミコンを覚えた押切は逆にファミコンの虜になってしまう。貴音ちゃんは押切の好きなゲームばかりを手に入れてくるのだった。やがて、押切の家に貴音ちゃんは母親とともにやってきて、ファミコンを〈俺にさずけに来たのだ〉。
 ファミコンを渡す貴音ちゃんは〈…ごめんね〉とひと言。
 そのひと言が意味したものは、ファミコンを渡すということは、押切への愛ではなく、押切の廃人化を極限までこの道具が押し進めてしまうであろうことへの謝罪なのだった。もちろん、押切はそんなことに気づくことなどなく、いよいよゲーム廃人の道をひた走るのであった。

 小学六年生になり、貴音ちゃんはクラスの秀才に。押切は本格的にゲーム中毒になって〈俺の学力は小学二年でストップしたまま…〉。貴音ちゃんと会ってももはや〈ゲーマー〉としてその取り巻きたちに劣等人間扱いされ侮蔑されるのである。

 うわーん。こわいよー。
 自分の子どもにはこうはなってほしくない、という筋書きが、ものすごく克明に描かれているんだよー。

 いや、実は自分だって、そんなに押切とはちがわない人生を送っていたような気がする。
 ぼくは押切と10ほどちがうのだが、やはりゲームウォッチにハマり、目を悪くするほどに熱中した。ぼくを「メガネ男子」にしたのは勉強のやりすぎなどという世の女子連中が妄想しているような理由ではなく、単なるゲームのやり過ぎなのである。金回りのいい友人が大量にもっていて少しだけやらせてもらっていたのだが、親にねだってゲームウォッチシリーズの「ヘルメット」を入手してからがいけなかった。

 いまでも思い出すぜ、作業員が分身するあのウラ技。

 そのあと、「マイコン」時代が到来し、MSXを購入。「ドラゴンアタック」「ディグダグ」「ステップアップ」、そしてもう一つ一番ハマったやつがあったのだが名前を失念した(まあ「ドラゴンアタック」は「スペースインベーダー」、「ステップアップ」は「ドンキーコング」の“ジェネリック”なのであるが)。

 

 たぶん、あそんだソフト数はそれほど多くないかもしれぬ。しかし、消費した時間は人後に落ちないだろう。
 だから、押切の人生は決して他人事ではないのである。
 いや、押切も「ゲーム廃人人生」というアクセントをつけてこの作品をまとめているので、これほど強烈な腐敗臭のする作品に仕上がっているのだろうと思う。実際にはまあもうちょっといろんなことのあった人生だったはずだ。知らないけど。

 そういう「色」を排して冷静にこの漫画を眺めると、実は意外に楽しい幼少期の描写なのである。
 秘密基地をつくったときの描写。

〈誰にも縛られない俺たちだけの空間……新聞紙を丸めてゴミ袋に詰めた自作のクッションによりかかりながらのゲームプレイは至福をきわめる〉〈さらに、秘密基地の屋根に当たる雨の音がより一層心地の良い気分にさせる〉〈雨露をしのげることに最高の幸福を感じ取れるのだ〉

 つれあいはこの描写を読んで「楽しそう」と言った。そうだ、楽しそうなのだ。「ゲーム廃人のダメ人生」という照れにもにた脚色がしてあるが、ここに描かれている秘密基地での雨の日の至福は普遍的なものだ。詩情にあふれている。雨の日の秘密基地ですごす無為な時間ほど幸福なときはないだろう。

 駄菓子屋で過ごす時間の、下品さと幸福感についてもまた身に覚えがある。あの体に悪そうで、商標や著作権など恐らく無視しまくりのパクリばかりの食品に囲まれた「子ども世界の社交場」について、これもやはり「ゲーム廃人のダメ人生」というストーリーの影にかくれてたくみに描いている。

 本書にはゲームの名前や種類がたくさん出てくる。ぼくはそのほとんどを知らない。知らないのにこんなに愉快に読めるのは、そこに幼少期の野蛮で下品な、普遍的情熱があふれているからだ。

 いや、「ゲーム廃人」という「色」を排してしまったら、面白くも何ともないだろう。こんなものをそういう味付けなしに描いたら、『三丁目の夕日』的偽善ノスタルジーになってしまうではないか。そういう点で、この偽悪的な装いはまったく素晴らしいというほかない。

 押切は「これは脚色とかデフォルメなんかじゃねーよ! ぜんぶ事実なんだよ!」とわめくかもしれないが。

 それにつけても、

〈中学二年の俺には三次元のアダルトビデオは
 それほど興味が持てなかった
 何歳もの歳上との性交渉には逆にリアリティが持てず
 嫌悪感すら覚える程であった
 しかし
 エロゲーではどうだ
 すんなり脳が許容してくれるではないか
 この二次元キャラクターなら脳が大歓迎してくれ
 抱かれてもいいと思えるのだ
 現実に存在しない二次元キャラを
 本気で愛するように人間を作った神は
 設計ミスをしているのではなかろうか〉

は至言である。