宇野常寛『リトル・ピープルの時代』


リトル・ピープルの時代 宇野常寛『リトル・ピープルの時代』を読み返す機会があった。
 宇野は『ゼロ年代の想像力』でもそうだったけど、「大きな物語」が失効した、というストーリーにこだわるので、村上春樹が「壁と卵」の例えを持ち出して悪と正義に世界を截然と分けるようなやり方に我慢がならない。
 宇野は、この時代の問題が「グローバル資本主義」という認識までは至っているんだけど、そういうものはジョージ・オーウェルが『1984』でスターリニズム批判として持ち出した「ビッグ・ブラザー」のようにわかりやすい悪の姿をとっていなくて、人々の内側に紛れ込んでしまっている、村上春樹の『1Q84
に出てくる「リトル・ピープル」みたいなもんだ、というような話をする。そういう時代にふさわしい想像力が必要なんだぜ、というのだ。
 この本は3.11の後に出された本だけども、例えば「原発」という問題は、原発を推進するような巨大資本の問題としては把握せずに、そういうものを前提にしているぼくらの日常、それを許してしまっている「システム」の問題……という具合に問題を組み替えてしまう。


 確かに、現代資本主義の問題っていうのは、例えば「いじめ」とか「DV」とか「生きづらさ」とか、そういう形をとって現れる時、必ずしもそれはストレートに資本主義の問題としては登場しない。
 「働き方改革」の問題一つとったって、飽くなき搾取をめざす日本独占資本主義の問題さ! とコミュニストたるぼくがいくら言っても、職場で非効率なやり方に固執する上司や同僚の問題だと思っている人にはあんまり響かない。「日本独占資本主義」には問題は向かわず、「無数の正義」の一つである、「ダメ上司」「無理解同僚」に矛先が向いてしまう。
 これほど「わかりやすい」はずの問題でさえこうなのだ。
 つまり、現代資本主義というのは、それが問題として我々の前に現れる場合、本質は本質のまま現れず、複雑に、倒錯して現象する。
 もっとも、資本主義というのは昔からそういうものだとも言える。だからこそマルクスヘーゲルの方法を使って対象のイデオロギー(観念形態)を暴露して本質を示すという手法をとったのであるが。*1


 そういう意味で、問題意識の入口においては、決してぼくは宇野には反対しない。コミュニストであるぼくにも思い当たる節がある。


 だけど、そんなに「大きな物語」を頑なに拒み、「壁と卵」のような比喩に噛みつかなくてもいいんじゃないかとも思う。つまり「グローバル資本主義と対決する」というタイプの想像力がリアリティを獲得する場合もあるし、3.11を「第二の敗戦」という捉え方をして、人間の共同(震災ボランティアや反原発デモ、あるいは右派のデモでさえもそこに含まれうる)に新しい光をみる――そういう想像力が新しさを得る場合もあるじゃん、とぼくは言いたいのである。


 その辺りの問題意識を今度の「ユリイカ」誌での押切蓮介論で書いてみた。

*1:例えば労働者は労働の対価をもらっているんじゃなくて、労働力価値を受け取っているのだが、賃金を「労働の対価としての時給」というイデオロギーをまとってもらっている。