後藤羽矢子『後藤羽矢子の裁判びゅー日記』

 北尾トロ『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』のAmazonカスタマーズレビューは60件(09年9月23日時点)もついているが、「のぞき見的面白さ」と「不謹慎」の間で評価が揺れていることがよくわかる。

 他方で、裁判員を務め終えた市民らの記者会見が新聞に載る。汗びっしょりの緊張感が伝わってくる。

〈—判決を終えた感想をお話しください。

 2番 正直ほっとしています。人を裁くことにかなり緊張しました。評議室では、和気あいあいではないですが、チーム意識というか仲間になってやったので、話せるような環境がありました。

 1番 まだ緊張が解けていませんし、自分の中で整理できていません。これから家に帰って、自分の中で整理して終わりにしたいです。

 5番 わたしは求刑通りになってよかったと思います。

 6番 一人の被告人に対し判決することが、これほど難しいことだということを実感しました。ただ、判決を言い渡すだけではなく、チームで考えた内容を彼に届けられるのか、届いてほしいと願いながら一生懸命にやりました。いまは疲れも感じています。

 —性犯罪を裁いた感想をお聞かせください。

 6番 犯行内容が明らかになっていき、その状況を聞くたび、心が苦しく、正直、気分が悪くなりました。けれども現実を見なければ、正しい判決ができないので、自分なりに真剣に向き合えたと思っています。このような事件が二度と起きないようにしなければならないと思いました。〉

 

 どちらが本当の心情だろうか。
 傍聴マニアは俗な人種、裁判員は真摯な市民、あるいは傍聴マニアが目にする大半は軽いマヌケめのもの、裁判員が扱う裁判はヘビーなもの、と二分することもできようが、刑事事件にむきあったときに、「ふつうの国民」のなかに存するアンビバレントな心境はこんなもんだろう。ワイドショーの延長であるなら無責任に言い募りたい、しかしいざ自分が判断を下す一員となるなら重い責任に緊張する——それが同じ人のなかに同居するのである。

 もちろんぼくは傍聴マニアたちの高みの見物的態度を批判する気にはなれない。自分自身に大いにそういうところがあるからだ。

 本書『裁判びゅー日記』は明らかにこうした「覗き見的趣味」「野次馬根性」全開の、無責任傍聴録である。本人はそんなつもりはない、と抗弁するかもしれないが、誰が何と言おうと無責任に決まっています。

 

 本書は後藤自身の裁判傍聴体験をつづった体験的エッセイコミックである。1話(1傍聴)6ページほどでまとめられている。ゆえに、そんなところにドラマ性だの、罪の重さだのといったものは引き受けられようもなく、実に軽妙かつ他人事的無責任のまま描かれるのである。
 もともとこれを描いている後藤自身がエロ漫画を描いていることもあって、痴漢の話題やあるいは性犯罪とは何も関係のないところでさえ、必然性のない(笑)エロシーンが描かれている(関係ないが後藤の『どきどき姉弟ライフ』を昔読んだことがあるが心をまるで動かされなかった。そういう意味では本書で見直した。ちなみに『どきどき…』はエロではない)。

 

 


 たとえば「第五審」で描かれる痴漢事件では、読者の期待どおりに痴漢シーンを詳細に描き、客観的にみれば明らかに加害者側に立つ視点で傍聴録を進行させるし、挿入されているギャグも、被告の兄が法廷で被告に呆れるあまりに言い放つ標語を笑いものにしたりともちろん事件の重さなど1グラムも引き受けない。

 この本の裏表紙に、作者が「裁判ってもっと重苦しいのかと思ってました」とつぶやき、案内役の裁判傍聴ブロガー・阿曽山大噴火が「ヘビーからマヌケまで それが裁判です」と応答しているコマがある。
 裁判というか、犯罪という形で国家の秩序にふれその機構に抑圧されてしまう人間の姿をリアルにとらえようとすれば、どうしてもこういう軽妙さが残されていなければならない。というのも、たとえば本書「第七審」で描かれるような「詐欺暴行」は、たしかに詐欺暴行なのであるが、刑務所を出たばかりの自暴自棄の人間が、国家秩序の枠に「運悪く」触れてしまい、「詐欺暴行」という凶悪?な罪名の犯人になっている様子を「笑い」のなかで(作者にその気はまったくなかろうが)告発することになっているからである。

 匿名によりプライバシーが保護されているなら、こうした自由さで裁判を眺めることはむしろ貴重でさえある。

 「第十四審」でリフォーム会社の社員が横領する話が出てくる。
 横領なんてすぐバレるのに、なぜするの? ギャンブルや借金? と誰もが思うところだろう。

「ここ数年で…… 給料がめっきり下がって……」と被告。
 しかし、多いときで被告は年1800万円にも達しており、現在でもその3分の1だという(ということは600万)。「充分じゃねーか!!」という傍聴者のツッコミは頷ける。

「ずっといい給料もらって お金の価値観が狂っていたんです」

は被告の反省の弁であり、ぼくらが次に考えそうなことであるが、よくよく聞いてみると、ベンツのゲレンデを買っていたり(1000万円以上する)、エルメスの服を買ったりしていた。1800万円の年収があったにせよ、1000万円の車を買うということ自体すでに狂っているし、エルメスの服を着て職場にいって「浮かなかったのか」と裁判長がツッコむのはあまりにも当然だ。しかし、「会社全体がそんなカンジでした」という意外な答えが被告から返ってくる。

 そして、横領がバレて逃げている間に働いている引っ越し業などを味わって被告が感じたのは「フルで働いても25万から35万くらいで…なんとかギリギリで贅沢どころじゃありません」。「それが普通だって…」という傍聴者の心のツッコミ。

 こういうコミカルでマヌケなやりとりを読むうちに、金銭感覚が狂うということの、たしかにリアルな姿が浮かび上がってくる。

 この「覗き見的趣味」「野次馬根性」としての裁判傍聴は、これを「ドラマ」にしたり、「裁判員もの」にしてしまったら、台なしである。形式と内容がまったく釣り合わなくなるのだ。

 この点で最悪だといえるのが、コミック版『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』(北尾トロ原作、松橋犬輔漫画)であろう。まさにこのヌルさを地でいく。北尾の文章の軽さがすべて消されて、亜流『ウシジマくん』的なハンパに重いドラマでエピソードがふくらまされているのである。
 いや、商業的漫画作品としてのクオリティはちゃんとある。でも、裁判っていうのは、野次馬かシリアスかに徹しないとダメなんだよ。

 コミック版『裁判長! ここは懲役4年でどうすか』1巻で、主人公は裁判に自分が何を求めているかを自問し、「リアル=人間の本質」だと答える。これは北尾トロの文体の軽さの中だと、のぞき趣味的無責任さと相まってエッジのきいた答えにはなりうる。

 しかし、コミック版のようなシリアスさやドラマ性が半端に前に出てしまうと、「ええかっこしい」をしているだけのように見えてしまい、非常に偽善的なセリフにぼくには聞こえてしまう。

 そして巻を下るにしたがって「この漫画、別にもう北尾の原作を冠してなくてもいいじゃん…」という気になってくるのはぼくだけではあるまい。でもこんなに長く続いてるってことは、それなりに需要があるってことなんだろうな。もうタイトルの「軽妙さ」は全然いらねーよ。