唯川恵『永遠の途中』 ささだあすか『永遠の途中』

 なかなか面白かった。
 まず漫画版(ささだあすか)を読んだ。それが面白かったので小説(原作=唯川恵)へすすんのだが、漫画版以上によかった。

 

 

 

 女性作家の小説を原作にしてコミカライズするものは当たりが少なくないと思う。鴨居まさね田辺聖子の小説を漫画化しているのもよかったし、少し前だが海埜ゆうこ山本文緒の小説を原作にしたシリーズも悪くなかった。

 小説と比較して読んだことがあるものは多くないけど、たとえば海埜ゆうこが描いたものは、山本の小説をかなり忠実に再現していると思った。たとえば小道具などは微妙に変えているものの、小説の雰囲気は大事にされている。漫画の後小説を読んだが、驚くほど違和感がなかった。

 本書は広告代理店で働く対照的な2人の女性(薫と乃梨子)が、一方(乃梨子)は独身のまま仕事にうちこみ、他方(薫)は結婚して家庭生活に入るという人生を歩んでいく物語で、お互いはお互いの人生をつねに見つめ、比較しあいながら、年齢を重ねていくのだ。27歳から60歳までを小説で300ページ弱、漫画で164ページの中で表現している。直木賞作家である唯川恵が「女性自身」に連載していた小説を、ささだあすかがケータイコミックにしたものだ。

 ぼくのつれあいも漫画の後小説を読んだのだが、漫画版を面白く感じたものの、かなり漫画版に不満をもったらしい。

 たとえば、小説での次の描写だ。47歳になった乃梨子が会社を成功させ、薫の友人たちの前に登場するシーンである。

〈しばらくして、乃梨子が部屋に入って来た。
「ごめんなさい、お待たせしました」
 とたんに、部屋全体に華やかさが広がった〉(小説p.194)

 そして、薫の友人たちの主婦仲間が、事務所を出た後に交わす会話がコレである。

〈「さすがに彼女、私たちと同世代には見えないわよね、どう見ても十歳若いわ」
 その言葉に誰もが頷く。
「確かにね。シンプルな濃紺のパンツスーツに白シャツ、髪はショートボブで、耳には一粒ダイヤのピアス。腕時計はフランク・ミューラー、靴はグッチかしら。まさに、成功した女のスタイルって感じ」〉(小説p.197)

 つれいあいによれば漫画版はこうした小説のディティールを浮き立たせる画力がない、というのである。下図を参照してほしい(MFコミックス、p.117)。

MFコミックス、p.117

「漫画版みたいな描き方じゃあ、まるでリクルートスーツじゃん。『部屋全体に華やかさが広がった』って感じじゃないでしょ?」

というのがつれあいの言い分である。「加齢の表現が目や口の端にシワ入れるだけってありえなくない?」。ありえるよ(笑)。

 まあ、わからなくはない。
 ぼくも、乃梨子が薫に意中の人を当てられたときの漫画の描写は、そのあとに「当たりだ」というコマが入らなければ「あ、薫に言い当てられてしまってはぐらかそうとしたんだ」ということがわからなかったのである。小説では、

〈「じゃあ、笹原さん?」
 その名前が出た瞬間、乃梨子の頬にふわりと浮かんだ甘やかな恥じらいを、薫は見逃しはしなかった。
「違うわ。薫の知らない人よ」〉(小説p.14)

となっているが、ぼくは、ささだの描いたものが「頬にふわりと浮かんだ甘やかな恥じらい」とは見えなかったのである。これはまあかなりグラフィックで表現するのは難しいから仕方ないけどね。

 それでもぼくが漫画版が面白かったなと思うのは、乃梨子の形象に萌えたからだということはここでは伏せておこう。

 しかし何といっても漫画版がいいと思ったのは、小説が表現しようとした「年表のように人生を俯瞰する」という雰囲気をこわさないで伝えているからだ。よくぞ200ページたらずでこれを表現したものである。


 年表のような文学がある。
 ぼくも小中学生の頃、夢中になって作った。
 架空の王国や国家の盛衰を年表にし、それをもとに叙事的な記述と多少のドラマをつけくわえていく。一つひとつの歴史の出来事がテンポよく描かれ、次々過ぎ去っていく。しかし全体としては決して年表だけのときのような味気なさではなく、肉付けされた長い豊かな歴史が横たわっていることになる……と少なくとも自己満足に浸ることができた。

 そんな小学生が作った偽史と同じにされてはたまったものではなかろうが、ぼくは本書を読んだ時、そのことがまず思い出された。


 仕事に生きた女性(乃梨子)と、家庭に生きた女性(薫)の人生を比較するという、ありがちなテーマ。しかしそれを27歳から60歳まで、人生のステージごとに俯瞰するように見渡していく小説というのはなかなかないだろう。大河小説のようなものだったらあるのかもしれないが、1つの年齢ごとのエピソードはそれほど長くない。実にサクサクと進んでいくのだ。


 この物語のひとコマひとコマだけを切り取ってみると、女性が体験するありふれた日常、陳腐なやりとりが並んでいるだけのようにも見える。だが、それが30年以上もの歴史を積み重ねる形で提示されると、そのありふれた感覚、陳腐さは「典型」や「普遍」としての積み重ねに変わり、物語の終りには人生そのものを追体験したかのような疲労感さえ覚える。

〈そして今日、薫は四十二歳の誕生日を迎えた。
 何て言えばいいのだろう、悲しいとかがっかりするというより、ただただ驚いてしまった。
 自分に四十二歳という年齢がやって来るなんて、若い頃には想像もしてなかった〉(小説p.151)

 〈自分に四十二歳という年齢がやって来るなんて、若い頃には想像もしてなかった〉なんてそんな馬鹿なと思う人もいるかもしれないが、そんな感じなのだ。42歳になることはもちろん理屈では知っていても、42歳の自分の姿などはとうてい想像できなかったのである。

〈そうして、こうなってみると、かつて自分が想像していた四十二歳とは、あまりにもかけ離れていることに、ため息が出る。
 若い頃、四十二歳なんてものすごい大人だと思っていた。落ち着きが備わり、小さなことでカッカしたりせず、何事も鷹揚に対処でき、人生を達観している。
 ぜんぜん違っていた。大人になったのは年だけで、頭の中身はほとんど若い頃と変わらない自分がここにいる〉(同p.151〜152)

 ぼくももうすぐ40になるが、ほとんどこの実感である。〈四十ニシテ惑ハズ〉と孔子は言ったものだが、おそらく20代、30代以上に惑い迷っている。
 ぼくは自分のセンスや頭の構造が20代で停止してしまっている。着ている服や髪型なんかがまさにそれで、結婚し同居し子どもを持てば変わるだろうと思ったものが何も変わらずに今日まで着ている。もちろん現代の20代ではなく、昔のままの20代だから実にやばい。

 この物語の2人の主人公も惑いまくりだ。
 この物語の基本ベースは、「自分が生きられなかったもう一つの人生を横目で見ながら、自分の歩んでいる人生への確信がなく、たえず惑い、動揺する」ということだ。物語の全編がこの種の動揺に覆われている。

〈薫のことなど、少しも羨ましいと思っていない。主婦としてしか生きられない毎日なんて、考えただけで息苦しくなる。
 それでいて、死ぬほど薫を羨んでいる自分がいる。当たり前のように、郁夫〔薫の夫〕と共に生活し、郁夫の子供を産み、郁夫に守られている薫がどうしようもなく羨ましい。
 この矛盾に、いったいいつになったら答えを見つけることができるのだろう。この矛盾と、いったいいつまで戦わなければならないのだろう。
 マンションの前で、乃梨子はもう一度振り返った。けれど、そこには深い夜しか見えなかった〉(小説p.170〜171)

〈薫は手紙を手にしたまま、しばらくぼんやりした。
 今まで、子供の写真を載せるなんて、親馬鹿丸出しのことなんかできないと思っていた。なのに、今年に限ってそれをやったのは、
「自分の選択に間違いはない。こんなに可愛い男の子に恵まれたのだから、すべてはこれでよかったのだ」
と、自分に確認したかったからだ〉(小説p.135)

 こんな調子の記述が一度となく登場する。
 この二人の人生をまとめてみると、仕事に生きた方も、家庭に生きた方も、どちらもかなり幸福な終点を迎えることができたように見える。冷静な第三者からすれば。
 ところが、本人たちは迷いまくっている。
 選ばれたエピソードだけみていけば、悪いことが次々起きているようにみえる。いやそこまでいわなくても、たえず不幸と不満が彼女たちの人生に影を落としているように見えるのだ。

 漫画版を描いたささだが、〈私自身、家庭と子を持つ主婦であり、漫画家という仕事を持つ立場でもあるので、描いているあいだ薫と乃梨子のどちらにも共感できる部分がありました〉(漫画p.166)とのべている。

 ささだは、ぼくと同じ境遇にある。結婚もし子どももあり、そして仕事も持っているのだ。だから〈どちらにも共感できる部分がありました〉という感想はぼくも抱いた感想であり、ウソではないだろう。
 だが、仕事に没入し結局家族を持つことを諦めた人間、あるいは家庭に入ることで社会的な仕事のなかで自分の才能を発揮する人生を諦めた人間——そうした何かを断念して自分には絶対もう手に入らないものがあるという人間の抱く焦燥や羨望の強さは、きっとささだもぼくもわからないだろうと思う。

 ぼくの場合で言えば、むしろたとえばジャーナリストになっているあいつ、弁護士になっているあいつ、学者になっているあいつ——そういう自分の生きられなかった仕事を生きている人間に対する焦燥や羨望を感じる瞬間がある。この物語を応用すればそういう「自分の生きられなかった人生を横目で見ながら自分の生き方にたえず動揺する」ということなのだろう。

 その解決策は、吉川トリコが最後に「解説」で指摘している部分であろう。

〈どうしてもって、自分の生き方に自信を持って来なかったのだろう〉