大塚志郎『漫画アシスタントの日常』を読むと、「スゲエ…漫画家ってこんな作画の苦労しないといけないの……」とアナログ作画の苦労を知らないぼくは慄然とする。
題名どおり、デビュー直前の主人公の、アシスタントとしての生活・生態、技術的苦労を描き、さらにテクニック解説をこれでもかと詰め込んだ労作(フィクション)である。
背景に時間・手間かけるのは「意味あるんですか?」
パースや消失点の取り方、集中線でのヌキの仕方、それを時間内に仕上げるつらさについて主人公が説明している最中、他の新人アシスタントがブチ切れるエピソードがある。
「意味あるんですか?」。そんなのやってられねーよ、どうせデジタルになったら不要になる技術じゃん、と。
うん、まあぼくもそう思わずにはいられなかったよ。ここまでやらないとダメなの? そんなにクオリティを上げて背景や効果を作ったって、作品の質にそんなに影響すんのかよ、というふうに考えちゃうんだなあ。
3巻で主人公・五百住(よすみ)はこの問題の「解答」を示す。
ハッキリ言おう
背景というのは
漫画で最も気にされない部分
漫画で最も重要なのはネーム(話)
次にキャラクター
この2つが漫画の根幹
あくまで背景とは
いつ――
どこで誰と――
何をしているか――
読者にわからせるための記号
なーんだ、そんならいいじゃん。
しかし、五百住が背景のクオリティを一定以上に仕上げねばならない理由としてあげるのは、
ヘタだと
目立つ!
これに尽きる、というのが五百住の結論のようである。
背景をどのレベルで描くかはマンガの戦略・思想と一体のもの
志村貴子見てみなよ、あれ背景真っ白じゃん。
背景なんかクオリティあげればあげるほど無駄な情報がごちゃごちゃ入ってくるわけだよ。どうやって簡略化しても。だとしたら、本当に「いつどこで誰と何をしているか」を示せたらそれでいいじゃん。
いや、志村のコマなんか、例えば下図*1を見てみなよ。
このシークエンスが終わるまで「どこで」この3人が喋っているのかという情報が全然ないんだよ。ファミレスなのか、飲み屋なのか、だれかの家なのか。そんなことはどうでもいい情報なんだよ。「どこか」でこの3人が会って、話をしたんだな、そういうことさえわかればいいってことなんだよ。
『ポプテピピック』*2みてみろよ。あれだって背景ないぞ。ここぞっていうときは背景書いてるだろ。あれを背景っていうかどうか知らないけど。竹書房のビルだってことがわかることだけが決定的なんだよ。
いやいや、『乙嫁語り』見てみ?*3
ある意味、背景が全てだよ?
ここが中央アジアのどういう場所か、においまで立ち上ってくる、そのリアルを描かないと成り立たないよ?
おいおい『乙嫁語り』って、実は服装には相当力を入れているけど、シーンごとの背景は1コマ描いたらあとは結構省略してるぜ?*4
……という具合に、背景や周辺要素をどれくらい重視するかは、マンガの戦略による。そのマンガの思想とも言える。
例えば森の『乙嫁語り』のようなマンガを描こうと思えば、背景を重視することは戦略的に決定的に重要になる。場所や空気感さえはっきりすれば、志村のような省略の方がむしろ心象や会話が浮かび上がる。ただ、そういう思想を先に決めて背景を意識的・戦略的に選択して……というふうには作画せず、ふつうは現場で渾然一体と決めてしまうものだよね。
浅野・花沢的背景についての論争に関わって
数年前にツイッター上で背景について議論があった。
江口寿史先生の「マンガの背景」論と、マンガ家たちの反応。 - Togetter
この議論・論争は、浅野いにおや花沢健吾のような背景(写真をそのまま取り込んだように見える背景)を是とするかどうかという議論で、「作品次第だろ」というのが結論だった。ここで大塚が持ち出している問題とは少しズレる。
だけど、このツイッター論争の中でも結局ゆうきまさみが
採用される手法は、技量の問題というより思想の問題だと思うので。
https://togetter.com/li/221811?page=7
と言っていることは上記の問題とかぶる。
「話やキャラさえしっかりしていれば背景なんかにそんなコストをかけても無駄」か?
問題は、この作品の中で主人公・五百住が他のアシとケンカした、その争点についてなのだ。つまり、「話やキャラさえしっかりしていれば背景なんかにそんなコストをかけても無駄。しかもデジタルで背景が挿入できるようになる時代に、五百住のような無駄なコストをかけた職人技ははっきり言って時代遅れ」という主張は是か非かということ。
五百住が出した答えというのは(ぼくの読み取りでは)、背景がヘタだと目立つので一定のクオリティ以上なければならないし、それはアシ時代にしか修行できないのでアシスタントとしてきちんと技量を磨いておく必要がある、というものだった。これに補足すれば、背景のレベルを多様に操れるようになると作品の選択肢が広がるので、背景の技術取得は必要である、ということになるだろう。逆にいえば、背景の技量があまりなくてもマンガはかけるし、話やキャラが抜群に面白ければ基準以下の背景であっても構わないが、選択肢は狭まるし、制約条件は格段に多くなる……ということになるだろうか。
こう補足したうえでそれを五百住=大塚の結論だと考えれば、まあぼくも概ね同意する。背景の意味(水準を求められる意義)とは畢竟このようなものではないのか。
妹の啖呵の小気味よさ
この『漫画アシスタントの日常』は、技術論としても面白い。アマゾンのレビューにあるけど、3巻はストーリーがほとんど進まないくらい割り切って技術の話ばかりしている。それを不満とする向きもあるけど、ぼくは楽しい。
特に、担当者からネーム段階でボツばかり食らわされ「長考」を強いられるようになったらどうしたらいいか? という打開策がユニークだった(これは読んでのお楽しみである)。
さらに3巻では、シロートレベルだけどマンガは好きでマンガ家になりたいと思っているような五百住の妹にどうアドバイスするかという話が出てくる。ぼくはまるでマンガ家志望の自分の小4の娘のことのようで、食らいつくように読んでしまった。
ここで五百住が「漫画が描きたいのか? それとも漫画家になりたいだけなのか?」と迫るときの(妄想上の)妹の反論の啖呵がすっごい好き。言い訳じみているのに恐ろしく迫力があってシャープで、ぼくは仕事をしている最中に、脈絡なくふと反芻してしまう。(以下、強調は引用者)
しょーもない説教!
うっさいわ!
立場に憧れて何が悪いねん!
ちやほやされたい思って何が悪いねん!
楽したい思って何が悪いねん!
描ける人間は余裕があるから
そういう理想が言えんねん!
描けへん人間をそうやって追い込んで
一体今まで……
何人の夢を諦めさせて来てん!
鬼や!
悪魔や!