こうの史代『この世界の片隅に』下

戦争を戦後世代としてどう描くか


 広島から呉に嫁ぎ、そこで戦争と空襲に出遭う北條すずの物語は完結した。

 

 

 

 すでに上・中巻についての感想は書いた。そこでも書いたように、この物語が日常の雑事で覆われていることについては、作者・こうの史代自身があるインタビューで、

〈この作品では戦時中の生活を描くということと、戦前の女性の人生も同時に絡めて描きたいと思っています。主人公のすずという女性が、突然顔も知らない相手と結婚したり、闇市での物価の高さに驚いたり、スケッチをしていたら憲兵にスパイと思われたり…。すずの日常を描くことで、戦後に生まれた私たちが“戦争がある暮らし”というのはどんなものなのかを、ちょっとでも身近に感じられればと思うんです〉(新婦人しんぶん08年10月30日付)

と答えているとおりである。

 あるいは本書のあとがきで作者が、

〈わたしは死んだ事がないので、死が最悪の不幸であるかどうかわかりません。他者になった事もないから、すべての命の尊さだの素晴らしさだのも、厳密にはわからないままかも知れません。
 そのせいか、時に「誰もかれも」の「死」の数で悲劇の重さを量らねばならぬ「戦災もの」を、どうもうまく理解出来ていない気がします。
 そこで、この作品では、戦時の生活がだらだら続く様子を描く事にしました。そしてまず、そこにだって幾つも転がっていた筈の「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを知ろうとしました〉(本書下巻p.155)

と述べているように。

この世界の片隅に 中 (2) (アクションコミックス) こうのがそこで述べていること、書いていることには「戦争が終わってはるか後に生まれた私たち戦後世代が戦争というものをどう描くのか」という問題意識が一貫して感じられる。
 こうのが世に知られるきっかけとなった『夕凪の街 桜の国』という、原爆について描いた作品についての感想でも、ぼくはそのことを感じた。とりわけ、こうの史代はぼくと同世代であるだけに、そのことを強く意識せざるをえない。

 したがって、『この世界の片隅に』についても、ぼくは同様の問題関心からずっとこの作品を読んでいった。つまり「戦後世代が戦争というものをどう描くのか」という問題意識である。戦後世代にどう届けるか、ということはもちろんそこに含まれているが、同時に戦争体験世代にどう距離をとるかという問題もそこには含まれている。

 


「日常」が退き心象風景が前面に


 「雑事に覆われた戦時下の日常」とぼくは言ったが、下巻を手にして、その印象は大きく後景に退いた印象をうけた。
 かわって、戦争や戦争がもたらしたものに対する、主人公すずの心象風景がぐっと前景化してくる。
 これは大変危険な賭けだ。
 なぜなら、こうの自身は体験したことがない戦争、あるいは戦争のもたらした悲劇についての戦争体験者個人の内面を徹底的に描くことになるからである。後でものべるように、それは単にモノローグやセリフにとどまらず、下巻の世界の描き方全体にかかわるものになっている。
夕凪の街 桜の国 (双葉文庫) 『夕凪の街 桜の国』でさえ、これほどの踏み込みはなかった。戦争体験者の心情や心象風景はそこでも登場するが、短編にふさわしい簡潔な形で示され、半分以上は戦後世代の心を描いている。

 こうの史代のファンページがあり、そこの掲示板には、こうの史代本人がときたま登場する。それを丹念に読んでいくと、こうのはどのエピソードや心情の描き方についても何かしらの史料根拠を求めていることがわかる。
 たとえばこんな調子である。

〈「家を壊されればこの町を逃げ出せるのに」というような発想は、吉村昭「東京の戦争」や早乙女勝元「写真版東京大空襲の記録」に見られます〉

 しかし、仮にそうであるにしても、どの史料にリアリティを感じ、漫画に表すかは、こうの自身が決めることである。〈だから、この作品は解釈の一つにすぎません〉(あとがき)とこうのが述べているのは、そのような作画上の葛藤を表した言葉なのだろうと思ってぼくは読んだ。

 史料を一つひとつあたりながら、戦後世代である作者自身がリアリティを感じる部分を見つけ、それを一つの整合的な論理もしく著者自身が築いた史観(戦争観)のなかに位置を定めていくという作業をしている。

 そのことは、たとえば、「玉音放送」を描いた場面についての、こうの史代の発言にも表れている。こうのは、玉音放送を聞くシーンを描くことについて〈この作品の山場のひとつ〉(前掲インタビュー)、〈実は、この作品は「玉音放送で号泣する主人公」を描くのが狙いでした〉(前掲BBS)とのべているが、それほどにこの作品にとって重要なシーンである。

 すずは、玉音放送を聞いて、「怒る」のである。

〈たぶんすずは、それまでは負けようが勝とうがどっちでもよかったんです。でも、空襲で自分の右手や家族が奪われ、実家のある広島市には原爆が落とされて。
 そんな中、苦境に立たされながらもヒロシマを気づかってくれる呉の人びとの優しさにふれ、「こんなものに負けてたまるか!」って思ったところに玉音放送でいきなり終わってしまった。そりゃ悔しいと思います。また、「降参する」と言われてもなぜ今なのか。別にもう一カ月くらいがんばってもいいんじゃないか、とか、逆にもう一カ月前にやめることはできなかったのか、とか……すんなり納得できないと思うんですよ。
 すずが急に“好戦的”になったのはなぜ? と戸惑う読者さんもいらっしゃるかも知れません。それは“原爆投下で日本は戦意を喪失して、降参した”と教えられた人が多いせいかも知れませんね。しかし、原爆で戦争が終わったという理論が通じてしまうのだったら、これからもずっと原爆で戦争を終わらせることができる、となってしまう。でも、絶対にそうでないということは『夕凪…』で描いたつもりです〉(前掲インタビュー)

 こうのは、掲示板で『呉戦災あれから60年』(呉戦災を記録する会)での証言などをもとに、この感情と解釈のロジックを組み立てていったことを述べている。それはまさに〈史料を一つひとつあたりながら、戦後世代である作者自身がリアリティを感じる部分を見つけ、それを一つの整合的な論理もしく著者自身が築いた史観のなかに位置を定めていくという作業〉そのものではないかとぼくは思うのである。

 どんなに史料を「根拠」にしようが、こうの描いたものは戦争体験世代の「体験」の試験を受けることになるであろうし、逆に戦後世代のリアリティの審判にもさらされる。実に難しいところを、こうのは大変な「賭け」をやったのだとぼくは思った。

 


「ひとりの死」の描写に傾注する


 下巻を読んでびっくりしたことは、すずの呉での同居家族のうち、戦争(空襲)で死ぬ者は「たった」1人だということである。そして、その亡くなる家族は、義理の姪だということだ。
 ぼくのつれあいは、上中巻までを読んで「こんなにすずと家族のあたたかい場面を描いてくるのなら、下巻ではそれが滅茶苦茶にされるのを見ることになるんでしょう。そんな悲しいものは読めない」と言い張っていた。下巻をぼくが読んだ後に読んでみなよと勧めてもしばらくは読まなかったほどである。

 一家が全滅することを含めて、無数の悲劇を描くことは十分にできるはずであるが、あえてそれはされていない。「たった」1人が失われるという、そのことにむけて莫大な創作のエネルギーが集中されているのだ。

 しかも、『夕凪の街』では主人公自身の死が描かれたが、この作品で亡くなるその人は、すず本人であったり、すずの夫・周作であったり、もしくはすずと周作の間に子をもうけさせて、その子であったりするのではない。

 空襲の結果殺されるのは、周作の姉(径子)の子(晴美)なのである。径子は嫁いだ先で離婚をし、娘を連れて実家に「出戻って」きた。径子は険のある性格で、すずにも辛くあたる。その子どもの死にこうの史代は照準を合わせたのである。もちろん作中で径子がすずに辛く当たることはそれほど深刻には描かれていないし、すずと晴美の関係はむしろ中巻の口絵になるほど親しいものだ。しかし、そうはいっても、晴美とすずは「家族」ではあるが、義理の姪であり、むしろ「親戚」というほどの血縁的距離であった。

 こうの自身はひょっとしたら、物語がベタになりすぎるのを防ごうとしたという単なる演出の問題のつもりかもしれない。それはわからない。
 しかし問題は、作者の意図ではなく、それをこえて作品が社会的にどう受け止められるのかということである。

 


子どもの死とはどういうことか


 まず、子どもの死、ということについて考えてみる。
 ぼくには1歳の娘がいる。
 夫婦共に世間並みの親馬鹿である。
 ぼくのつれあいは娘について「こんなかわいい子がよくウチに来てくれたね」とか「もし娘がどこかへ行ってしまったらどうしよう」とかいう表現を使う。「どこかへ行ってしまったら」というのは突然死ぬということである。
 それは単に婉曲表現というだけでなく、この世に登場して自分のもとに居るということも、何かの事情で突然死んでしまうということも、実にたやすい存在のように思えるからである。
 「生まれる」という表現には、ずいぶん確かな根拠をもってそこに存在しているような図太さをぼくは感じる。「死ぬ」ということもたいそういろんなことを経て実行される行為のようにも感じてしまう。
 そうではないのだ。
 子どもというのは、本当にひどい偶然のような、ありえない形ではかなくこの世に、そして自分たちのもとにやってきたような気がする。そして、目を離した隙の事故に象徴されるように今そこで元気に遊んでいた子どもが数秒後に無残に息絶えているというような、やはりはかなさを抱えているような気がする。

 ぼくの家は高層階にあるが、ベランダは一応下には落ちないつくりになっているものの、もし何かの拍子で下に子どもが落ちたらどうしようという恐怖感が抜けることはない。
 ちょっと親が目を離した隙に駐車場で子どもがひかれたとか、結婚式に子どもを連れて行ったら吹き抜けホールにあった階段で母親がつまづいて子どもを階下に落として死なせてしまたっとか、そういうニュースを聞くたびに、そのはかなさを感じてしまう。

 だれかの上に爆弾が落ちて死ぬ生のはかなさとそれはよく似ている(戦争と事故は違う、というのは全然別の論点である)。今日明日にでも消えてしまう命を、子どもほど体現したものはない。子どもの死は現代と戦時をつなぐことのできる回路だとぼくは思う。

 晴美が死んだ後、すずは後悔をくり返す。

〈あー あの道
 側溝でもあれば良かったのに〉

〈下駄を脱いで走っておれば 坂のむこう〉

〈どこで間違ったのか〉

〈ねえ リンさん
 あの時 わたしの居場所はどこだったろう
 そうだ 反対側の塀
 いくらか板が抜けとったはず
 爆風に乗って あそこに飛びこめば
 あの向こう
 あの向こうこそ〉

 そしてページいっぱいのコマ。死んだはずの晴美が虹の下、一面の花畑で楽しそうに花輪を編んでいる。

〈わたしの居場所だったんだろうか〉

 晴美を殺したのは私ではなく米軍の爆弾ではないか、というのと同じように、駐車場で子どもをひき殺したのは私ではなくあの車ではないか、と考えることは空しいことのように思えてしまう。そして、いつまでもぐるぐると自分はどうすればよかったのかを責め続けるに違いない。
 本当の戦争なり、現代の交通戦争なり、子どもが死ぬことは大きな必然性のなかにおかれているはずなのに、問題はひどい偶然のようになって現われるのだ。

 そして、子どもの死は、それがどんな未来を断ち切ったのかということについて思いを馳させずにはおかせない。

〈あいすくりいむも はっか糖もしらぬまま
 お嫁に行けんでと叱られることもないまま
 行かずじまいだった人〉

 それは戦時であろうが、現代であろうが、まったく、何一つとしてかわらないことである。

 


「我が子」の死、夫の死を描かなかったのはなぜか


 しかし。
 我が子の死という場合、あるいはそうした「最愛」の者の死というのは、とても大きな悲しみが襲うものであるが、他方で、ともすれば利己的で閉じた感情になるおそれがある。
 「自分の子でなくてよかった」というエゴイスティックな感情というところまでいかなくても、たとえば「我が子の死は親である自分以外にわからない」というような感情である。

 晴美が径子とともに実家に戻って来たときから、すずは晴美のために小さな袋を縫ってやり、そこから2人の親しみはずっと続いている。晴美が学校に行きたくない悩みを打ち明けるのはすずであるし、すずの頭にハゲができればそのために墨を塗ってやりたいと案ずるのが晴美である。
 すずにとって、晴美は間違いなく愛すべき者の一人である。

 しかし、それはやはり、かつて好いていた水原への気持ちを断ち切ってまで愛していることに気づいた夫・周作への気持ちや、仮に子どもができていたら無条件でその子のために死ねるといえるというような自分の子どもへの気持ちともやはり違いがある。

 さらにいえば、義姉からその瞬間預かる責任をもたされていた矢先での死だったという事情が加わっている。

 すずが病床から漏らす謝罪の言葉は、

〈ごめんなさい 晴美さん
 ごめんなさい おねえさん〉

である。単に晴美への謝罪だけでなく、義姉への責任という感情があったからこそ、すずは呉の家から逃げ出したくなったのだ。
 あるいは、戦争が終わった直後、近所の者と晴美の話題になったとき、

〈なんでうちが生き残ったかわからんし
 晴美さんを思うて泣く資格は
 うちにはない気がします〉

とすずは語る。
 
 死んだ晴美を思うすずの気持ちの描写には、最愛の者を失ったときに抱くであろうような、ひどく感傷的で、閉じたところがない。こうの史代の抑制の利いた筆致と相まって、子ども一般の断ち切られた未来にたいする、あるいは大人としての子どもを守りきれなかった責任にたいする、より普遍的な描写になっている。

 なぜこうのは、すず本人でもなく、周作でもなく、すずと周作の子でもなく、晴美の死を描こうとしたのだろうか?

〈わたしは死んだ事がないので、死が最悪の不幸であるかどうかわかりません。他者になった事もないから、すべての命の尊さだの素晴らしさだのも、厳密にはわからないままかも知れません。
 そのせいか、時に「誰もかれも」の「死」の数で悲劇の重さを量らねばならぬ「戦災もの」を、どうもうまく理解出来ていない気がします〉

というあとがきに照らせば、こうの自身は死んだこともなく、他者にもなったこともない。自分の子もない(と思うのだがよく知らない)。自分が想像できる悲しみを1人にしぼって描いたということなのかもしれない。

 ただ、繰り返しになるが、作者の意図とは別に、この作品がどう社会的に受け取られる性格をもっているかということをもう少し考えてみたい。

 〈晴美さんを思うて泣く資格はうちにはない気がします〉とは、単に親戚の子を守りきれなかったというすずの自責を表現した言葉というだけでなく、作者・こうの史代のこの作品への態度でもある。

 こうのは、中日新聞のインタビューで、自分の祖母の戦争体験について、こう語っている。

〈祖父母はもう亡くなっているので、マンガを描くに当たって母の姉に戦災の話を聞いたら、祖母からは聞いたことがない話があって驚きました。伯母が庭で機銃掃射を受け、それを祖母がずっと横で見ていたというのです。家に落ちた焼夷弾の火を消すのに祖母が活躍した話も、聞いたことがありませんでした。
 口にできない怖さやつらさがあって、それを抱えたまんまだったんじゃないかと思います。普段は話すきっかけもなく、心の整理もついていなかったのでしょう。何げなく話していたことを思い出して、この人の心の中はこうだったのか、と今になって分かる〉(中日新聞09年4月26日付)

 「あとがき」の言葉と併せて読めば、こうのが戦争体験者の内面にふみこみそれをどれだけ描出できるかということに強いためらいや躊躇があることがわかる。
 自分の子や夫という最愛の人を失ってしまう悲しみはその人のなかで強く所有されているもので、それを開いたものにできるかどうかに、謙虚な抑制があったのではないかとぼくは考える。こうの自身がたとえそう考えていなかったとしても、作品はそのような効果をあげている。

 しかしそのことは作品の制約ではなく、むしろ物語を開いたものにしている、とぼくは思う。最愛の者という自分のみが強くその愛着を所有している人間の死ではなく、一人の愛すべき人の死という、普遍化された死がそこにある。言い換えれば、ぼくらは晴美の死の悲しみを想像できるし、晴美でない子どもの死に広げて想像できるということだ。

 


右手とは豊かな記憶を書き留めるもの


 晴美だけでなく、すずは自分の右手をも失う。
 すずにとって、右手を失うとはどういうことなのか。
 下巻の56〜57ページの見開きですずの人生にとって右手とはなんであったかが年表のように編まれている。

〈六月には 晴美さんとつないだ右手
 五月には 周作さんの寝顔を描いた右手
 四月には テルさんの紅を握りしめた右手
 三月には 久夫さんの教科書を書き写した右手
 …〉

 右手は生活を支え、世界に潤いをあたえる回路であったことがその事実の集積からわかる。おそらくそれは、漫画家であるこうの史代自身にとってもそうなのだろう。

 右手が失われたことがわかってから、背景はすべて「歪んだ世界」、すなわち〈まるで左手で描いた世界のように〉なってしまう。実際にこうの自身は左手で背景を描いたらしい。
 すずの心象風景をそのまま地の絵にずっと使ってしまう、という何とも大胆な手法である。先述の通り、いわば戦争体験者の心のなかをこんなに広いスペースでずっと描いていくことになるのだから。

 右手が失われて世界が〈歪んどる〉ものになってしまうのはなぜか。

この世界の片隅に 下 (3) (アクションコミックス) それは、右手というものが、生活の記憶と、想像することによる潤いを支える回路だったからだ。すなわち右手は二つの役割を果たしている。一つは、つらかった記憶だけでなく、楽しく輝いていた記憶をも再生させる力である。もう一つは、眼前にないものを想像させる力である。

 引き揚げをした水原が、もはや動くことがないであろう巡洋艦・青葉を眺め、その横をすずが車を押して通り過ぎるシーンがある。すずが笑顔の晴美を思い出すころ、右手は、老いさらばえた現実の青葉の上に、〈波を切る〉雄渾な、かつての青葉を描いていく。

 すずは近所の人に晴美の死について聞かれ、〈無念〉であったこと、〈晴美さんを思うて泣く資格はうちにはない〉ことを吐露する。しかしその直後に晴美がフネの名を聞いたときの笑顔を思い出す。

〈でもけっきょくうちの居場所はここなんですよね
 生きとろうが 死んどろうが
 もう会えん人が居って ものがあって
 うちしか持っとらんそれの記憶がある

 うちはその記憶の器として
 この世界に在り続けるしかないんですよね

 晴美さんとは一緒に笑うた記憶しかない
 じゃけえ 笑うたびに思い出します
 たぶんずっと 何十年たっても〉

 〈うちの居場所はここなんですよね〉というのは呉から逃れようとしたことに掛けているのだろうが、もっと普遍的に言い直せば、つらかった記憶にまつわる一切、たとえば晴美の笑顔も悲劇も、そのすべてを消去してしまうということである。

 『夕凪の街 桜の国』でもこのテーマは扱われた。

〈しあわせだと思うたび
 美しいと思うたび
 愛しかった都市のすべてを
 人のすべてを思い出し
 すべてを失った日に引きずり戻される

 お前の住む世界は
 ここではないと
 誰かの声がする〉

 忘れてしまえば済むことではないか、という誘惑にたいして、右手は沈みかけた現実の青葉ではなく、波を切る勇姿を見せていたころの青葉を描いた。戦争には耐えきれない悲劇があるが、その時代にすべてが悲劇だったのではなく、楽しくて輝かしい時間もあった。
 その豊饒な全体を捨ててしまうことは人生にとって幸せなことではないのではないかとこの作品は訴えている。

 右手はその記憶を豊かに書き留める回路であった。それが失われたからこそ世界は歪んだ。

 この物語のラストに、右手が書いたとおぼしき〈不幸の手紙〉ではない手紙がある。
 記憶を切断したり、忘れ去ってしまうことが本当に幸福なのかと問いかける。楽しかったことや輝いていたことはもちろん、悲しみも記憶のどこかに位置づけてその豊饒さそのものを生きるのでなければ、もともと〈この世界のほんの切れつ端にすぎない〉自分の人生の薄さに耐えかねるではないかと言っているのだ。

 作者のこうの史代が、ここまでもし言っているのだとしたら、祖母の抱えていたつらさに思いを馳せるほどの謙虚さを持つ人だけに、その意味は果てしなく重い。口にできぬ体験を抱えた人に、記憶の切断や消去ではなく、悲しみも喜びもその全体を記憶した豊かさの中を生きよ、と説くのだから。仮にこうのがそう思っていなくても、この作品はそこまで踏み込んでしまっているのだとぼくは考える。

 


右手とは想像力を具現化するもの


 そして、右手の果たすもう一つの役割は、すずの空想、すなわち想像力を具現化するというものだった。
 上巻で水原のために描いた海の絵は、転覆事故で肉親を失った水原をなぐさめ、〈つまらん海〉のはずを彩り豊かな海に変えた。その夜、薪を燃やしながら鼻を見つめるすずの顔には水原への淡い気持ちが浮かび出ているが、自分の初恋をひとつの形にする大事な存在がやはり右手だったのだ。

 広島を去るとき、水原に再開したとき、周作と別れることになるかもしれないとき——人生の重要な節目で右手は「絵を描く」ということで、それを支えてきた。

 目の前の現実だけでなく、その奥にあるものを想像させるために、または笑顔の記憶を呼び起こすために、右手は決定的な存在ではなかったか?
 戦争が終わってから〈右手……どこで何をしているんだろう〉とすずがつぶやくシーンがある。
 そして右手が登場し、何やら描いていく。
 そこで描かれるのは、周作がひょっとして心を寄せていたかもしれない遊郭の女・リンの生涯である。こうのによれば、このリンの生涯は口紅で描いたということであるが、ちょっとした絵本のようになっている。必ずしもこれは「事実(記憶)」であるかどうかはよくわからない。その絵本的タッチといい、ぼくはむしろ「右手によって想像されたリンの人生」だと思いたい。
 想像の力を借りることで、小さい時に出逢ったあの座敷童は実はリンだったのではないのか、自分とリンには深い縁さえあるのではないかとすずは感じていくのである。

 右手はまた「鬼イチヤン冒険記」を描く。
 〈あー 手がありゃ 鬼いちゃんの冒険記でも描いてあげられるのにね〉というすずのセリフのあと、兄をはじめすずの父母も帰ってないことを、すずの妹は病床で告げる。その妹さえも原爆症とおぼしき兆候が描かれている。それほどまでに悲惨な状況がここで伝えられるが、右手はそれを慰めるかのように「冒険記」を紡ぎ続けるのだ。

 そもそも、この物語全体が、こうのの想像力によって紡がれている。
 もちろん、そこには歴史的な事実、個別の事実の取材があった。こうのも〈この作品は一つの解釈にすぎません〉と述べている。だが、それを個別の事実として垂れ流したものではないだろうし、単なる個別や特殊のものでもないだろう。そこに普遍につながるものを見ようとして、こうのは想像力を働かせながらおそらく描いたであろうはずのものである。少なくともできあがった作品はそのように仕上がっている。

 作者自身をはじめ、誰もがそこに想像力を働かせられうる存在として晴美の死があるように思われる。先述のとおり、我が子や夫、恋人といったような、「この悲しみは自分にしかわからない」という立場の者の死ではないからだ。愛すべき者の一人ではあるが、主人公とその人との間には少しだけ距離のある存在として晴美は描かれている。

 先の大戦の犠牲者であれ、アフガンで殺された子どもであれ、私たちが戦争による悲劇を想像するとき、まさにそのような距離が必要ではないか。

 先ほど記憶を豊かに書き留める回路として右手を紹介したが、右手は同時に想像力を具現化するツールであり、その想像力が失われたがゆえに世界は歪んでしまったともいえる。

 


右手を「取り戻す」とはどういうことか


 そして右手——記憶と想像力が回復するがゆえに、世界が歪むのをやめて再び彩りと豊かさを取り戻すのは、すずと周作が戦災孤児を引き取る瞬間なのである。
 誰も彼もが自分が生きることで精いっぱいの戦争直後。ある者は孤児を汚らしげに追い払うし、孤児自身も落ちた食べ物を一刻も早く口に入れることで頭がいっぱいだ。
 ところが、その孤児はその落ちたおにぎりを口にするのをふと止めてしまう。そのおにぎりを落としたすずの右手がなかったからだ。孤児は自分の母親が原爆によって死ぬ時に右手を失っていた記憶を呼び覚まし、すずの不幸を想像する。

 戦争直後の社会の中で最底辺に位置し、おそらく最も生きる力も余裕も乏しい孤児でさえ、そこで記憶と想像を働かせて、おにぎりを食べる手を止め、それをすずに返そうとしたのである。

 そのシーンにいたるまでに描かれた孤児の物語は、事実の記憶のようでもあるが、なぜその孤児がすずにおにぎりを返したのかを、すずが想像したようにも読める。
 孤児は語らないはずである。
 だとすれば、すずと周作が孤児の過去を想像し引き取る気をにわかにおこした、と読んでも不当ではあるまい。

 記憶であるか想像の結果であるか定かではないが、いずれにせよ右手が象徴的に果たしていたその役割を、「孤児を引き取る」という具体的な行為によって実現するうちに、世界は歪むのを止め、再び彩りを取り戻す。

 ただし、鮮やかすぎる真昼の色彩ではなく、夜の呉の街の、あたたかな生活の明かりを描くという、控えめな希望として。すなわち、下巻のカバーのカエシですずの右手が回復しているのは、記憶と想像という右手が果たしてきた役割が再建されたことを象徴的に表しているのだとぼくは読んだ。

 


実践的機能を果たす力作


 長々と勝手な解釈を書いてきた。
 そんなヒネくれた解釈を幾重にも経なければこの作品は読めないのか。
 そんなことはない。

 こうのは中日新聞のインタビューで、最後に、

〈私の描いたマンガが家族の昔の話を聞くきっかけになればいいなと思います〉(前掲)

と語り、しんぶん赤旗のインタビューでもまた、

〈すずの日常を通して“戦争のある暮らし”はどんなものか、私たちのお父さん、お母さん、おじいさんやおばあさんがどんなふうにこの時代を過ごしたのかを少しでも想像してもらえれば…〉〈これを読みながら体験者にも話をしてもらえたら、心の中にあるものを私たちと共有できれば、との願いを込めました〉(しんぶん赤旗日曜版09年2月15日号)

と述べている。戦後世代は、戦争の日常を想像し、その悲しみや喜びを想像する。戦争体験世代は、忘れたかった記憶であっても、戦時のときの日常の楽しさや輝きを思い出して少しでも語り出すようにしてほしい——そういう実践的な役割を果たすようにこの本はつくられている。こまごまとそこに埋め込まれた装置を解読しなくても、それらの無数の装置は読む者に、こうした実践的な効果をたちどころに発揮するであろう。

 本作は「感動作」というより、力作である。それはこのような実践的な機能を担うために、実に考え抜かれて作られた作品だからである。