水谷フーカ『14歳の恋』

 14歳の恋というタイトルに何を期待してこのマンガを買うのか。


うみべの女の子 1 (F×COMICS) たとえば浅野いにお『うみべの女の子』だと、中学生がはずみで不器用なセックスをする描写を読むことで、大人がセックスに対して必ずいくらかはもっている「食べ馴れた」感覚をいっさい排除して、セックスの一番なまなましい部分、ぼくがセックスに抱いている原初的な憧憬のひとつを得ようとするのである。



好いとっと!?(1) (ファミ通クリアコミックス) あるいは、かがみふみをの中高生の恋愛シリーズのように、手がふれあったり、何げない仕草に猛烈に相手を意識してしまう自分の心の動きを、微分しつくした描写を味わうことで、今はもう失われてしまった「恋愛初期の心の興奮」を再現しようとする期待で読む場合もある。たとえ片思いであってもこの感覚はぼく自身が体験したことがあるものだ。



 他にもいろんなバリエーションがある。



14歳の恋 1
 ただし、男性向けの漫画に限る。
 現在進行形の14歳(前後)の恋愛を描く少女漫画の場合、驚くほどぼくの萌えツボをすりぬけていってしまう。そうした漫画の楽しみ方はまったく別のものだ。エロ本を買うほどではないにしても、何かハフハフと甘酸っぱい期待をしながらその本をとりあげるような情動はそこにない。


 なので「14歳の恋」というタイトルの(男性向け)漫画を買って読むとき、ライトにしろヘヴィにしろ、ぼくの場合、そこに性的な期待をこめて買うのだ。リリカルなものではない。そして、買って、読んで、はじめて自分のどこのどのような期待にこたえてくれる(あるいはくれない)ものであったかを知るのである。

 水谷フーカ14歳の恋』(1巻)は、クラスの中で、クールかつあか抜けているとされる2人の美男美女の中学生が、それは仮面にすぎず、本当は小学生からの子どもっぽいじゃれあいをしたくてたまらず、クラスの他の生徒がいない場では存分に戯れあう、というところから物語を始める。

 しかし、ある日突然、「子どもっぽいじゃれあい」こそが今の自分たちには仮面のようになっていて、大人の気持ちでお互いを見るということが本当の気持ちだと気づくのである。
 それを自覚した2人は見つめあい、だれもいない放課後の教室でキスをする。


ゴールデン・ベスト まさにトワ・エ・モアの「ある日突然」の世界。


 ただ、ぼくには幼なじみで恋愛に発展したということもないし、物心つくころから一流のエロガキだったという前科もあり、このような気持ちの移り変わりにノスタルジーとかを感じるということもない。いや、感じるかもしれないが、水谷の今回の描写はそこまで高い普遍性を持っていない。

 むしろ水谷の本作を読んで思い起こした感覚は、ぼくが大学時代に今のつれあいとつき合い出して、最初の半年くらいは、まわりのサークル仲間たちとか友人に秘密にしていた期間のことだった。


 サークルの友人たちに嘘をついて2人で旅行に出かけたり、喫茶店とか部室でこっそり会ったりしていた。
 別にサークル恋愛禁止ではなかったし、何でそんなことをやっていたのか詳しく思い出せないのだが。



 不倫は別として、今でも、男女交際が特段禁止もされていないような学校であっても、「つきあっていることを秘密にする」というケースはたくさんあるのではないか。その理由は千差万別というか謎だが。


 あれ、「つきあってることを秘密にする」っていうのは、独特の親密さが生まれるよね。
 知られちゃいけない日常の場面で、お互いのアイコンタクトとかそういうものだけでお互いの気持ちが通じてしまう瞬間とか、誰も居ない教室や、知人がいないお祭りの場なんかで、通常よりもかなり高い解放感でお互いに接したりとか。不倫ってやったことないけど、そういう効果が生まれるのか。


 水谷の本作で描かれている、教室でかわす視線や、2人きりの教室、2人きりでの行楽のシークエンスには、こうした特別な親密さがあふれている。誰もいない放課後の教室で、女がゆっくりと上履きを脱ぎ、靴下をぬぎ、素足を目の前にさらし、誰にも知られないように、しかしお互いだけは「お揃い」を知っているために、お互いの足にふれ、アンクレットを巻き合うなんていう情景は(*゚∀゚)=3ムッハーとかしか言えないじゃないですかあ! しかもそのあと、キスするとか……もう……ぐふっ(血反吐)。