益田ミリ『ふつうな私のゆるゆる作家生活』

 あいかわらずである。何が「ふつうな私」だ。何が「ゆるゆる」だ。そんなタイトルにだまされてヌルい内容を想定して読み始めるととんでもないことになる。
 イラストも描き、漫画も描き、エッセイやその他の文章も書く著者のいわば作家生活の自伝であり、コミックエッセイである。
 如何にして余は脱OLをして作家となりしか。
 如何にして余は編集者に接し、そして編集者をどう思っているか。
 如何にして余はイラストだけでなく川柳やエッセイや漫画に手を広げしか。
 そんなことが描かれている。

 冒頭の漫画がまず辛辣である。
 はじめての編集者と会う話だ。この漫画は本人以外すべて動物の顔で表現されている。会う編集者は犬の顔になっている。世間話をして打ち合わせに入っていく様子がまず描かれ、一緒に本を作りましょう、ありがとうございます、とやりとりするところまで描かれた後で〈ここから先は編集者によって変化していきます〉というナレーションが入る。

 ここで紹介される編集者の異常というか無礼ぶりが炸裂する。

 編集者は自分でストーリーを考えてきたといいながら、自分の考えてきた主人公の名前をまず益田に押しつけ、自分の考えてきたストーリーを語り始めるのだ(下図参照)。

 

本書、文藝春秋、p.7



【1コマ目】
編集者「主人公の名前は」
益田の内語(名前 決まってる!?)

【2コマ目】
編集者「のんちゃんはあーでこーであーでこーで」

【3コマ目】
編集者「するとのんちゃんはおじいさんと旅に出るわけなんです」

【4コマ目】
(セリフ無し。テーブルにすわっている益田と編集者。益田は口をあけてぽかんとしている)

【5コマ目】5コマ目
益田「で、どうなるんですか?」

【6コマ目】
編集者「ここから先はマスダさんらしく考えていただいて」

【7コマ目】
ポカーン

【8コマ目】
益田の内語「そのマンガの作者は、わたしでいいのでしょうか?」

 益田の漫画は確かに〈ゆるゆる〉である。しかしその場合の〈ゆるゆる〉とは単に時間がゆっくりと流れているということにすぎない。そしてコマを見てもらったらわかるとおり、益田が描いている辛辣な現実が〈ゆるゆる〉とした時間を使って読者にいやというほど丁寧に提示されるのである。
 普通なら1コマないしは2〜3コマですぎるような時間を、益田は8コマにまで分解し、無言のコマまで入れて読者に意識させる。
 この場合でいえば、失礼な提案をしている編集者の顔や手足をじっくりゆっくりと眺めながらこちらが「へえええええええ」「ほおおおお」とか感嘆の声でもあげつつ編集者のまわりを何べんも何べんもぐるぐると回るような行為をやっているようなものだ。
 つまり益田における〈ゆるゆる〉とは癒しとかヌルさでは一切なく、現実や感情をじっくりと眺め回すためにあるのだ。だから辛辣な現実はいっそう辛辣さを拡大されるし、悲劇的な感情はますますその悲劇性をふくらまされる。

 そう。まさに拡大辞である。

 冷静に考えてみたい。
 編集者が依頼する作家にイメージをもってもらうために、どんな本にしたいかということを話すことはありうる。そのとき少し具体的に語りすぎてしまう人だっているだろう。さらに、そのイメージを話す時に「主人公、そうですね、たとえば『のんちゃん』とでもしましょうか」くらいは、ふっと言ってしまうこともあるだろう。
 編集者が何らイメージのコアも持たずに打ち合わせに来たとしたら逆に無礼であるということもありうる。イメージがどれほど具体的であるかは打ち合わせする作家の好みの問題にすぎない。

 いや、益田は大げさに言ってけしからん、という話ではない。

 普通の時間軸で描いてしまえば単なる「作家の好み」という問題で片づけられてしまうモチーフなのに、益田は独自の〈ゆるゆる〉さで対象を見つめることによって、益田にとって編集者がいかに無礼で非常識であったかということが実に説得力をもって示されているのだ。

 ちなみに、益田は本書のなかでスバラしい編集者とともに、無礼な編集者を何人も描いている。益田に会った印象を「正直…」という前置きをおいて、次々失礼な言葉で表現する編集者というのが出てくるが、益田的時間軸をほどいてみると、かしこまった関係ではつっこんだ打ち合わせもできないから、腹を割った話をしてみようということではないかと思える。
 しかし、本書を読んでいる間はそんなことは忘れ、編集者の失礼ぶりを暴くブラックな〈ゆるゆる〉を楽しんでしまうのだ。
 本書を閉じて、ぼくが街を歩いているとき、突然、

そういえば

益田ミリの漫画に出てくる

あの編集者って

たんに

腹を割って

話したかっただけじゃないのかな〜

(セリフのないコマ)

まあ (エロ漫画を本屋で繰りながら)

どうでもいいけど

という想念にとらわれた。いずれにせよ、そんなことはまさにどうでもいいのである。この本は益田の〈ゆるゆる〉拡大辞を楽しむためのものなのだ。

 会社を辞めて上京するまさにその日、益田は泣きそうになる。泣きそうになるまでをまたしても益田的時間軸でじっくりじっくり読者は眺めさせられる。
 先述したとおり、益田以外の登場人物はすべて動物の顔にされていて、それは家族とて例外ではない。父親は犬、母親は猫の顔で描かれている。しかし、上京の日、母親は駅まで送ると言い出し、自転車を押しながら益田に同行する。いつもは多弁な母親が寡黙に歩く。

 長い長い母子の無言の道のりが終わると、母親は〈ちゃんと ご飯食べなさいよ〉と心配そうな顔で言って別れる。

 母親を描く最後の2コマだけ、母親は猫ではなく人間の顔に戻っている。本書全156ページのなかで、益田以外の人物が人間の顔になるのはただこの2コマのみである。
 動物の顔にしていると生々しさが失われ表現がソフトになる。益田が辛辣な現実批評をしている部分でも、批評対象の表情を生々しく描かないことで批評対象となっている人物への益田の評価ではなく批評対象となっている行為そのものへぼくらは意識を集中させることができる(対照的なのが小林よしのり、ね)。
 最後の2コマで人間の顔に戻った益田の母親。その瞬間に、読者は意識を、益田の「泣きたい」と思っている気持ちではなく、母親の人間的な困惑そのものへと向けることができる。母親の生々しい困惑の真情が読者の心に侵入してくるのだ。それゆえに、次のコマの、益田が電車の中で一人泣いてしまうシーンがぐっと生きてくる。


 冒頭に書いたようにこの本には益田がどうやって会社を辞めて「作家」となったかを描いている。ちなみに益田によれば〈作家とは、小説やエッセイやマンガなど、本屋さんに行くと並んでいる本の作者をいいます〉ということである(実際、作家の辞書的定義からすればこれは正しい)。そうなるとぼくも作家なのだ。うほほほほほほほ。明日から和服きてヒゲ生やさんとな。

 会社をやめて益田は半年も何もせずぶらぶらしていたし、益田の漫画をみていると一見行き当たりばったりでやっているように見える。そういうあたりだけが益田的時間軸で拡大されているからだ。
 しかしよく読むと、益田はかなりアクティブに自分を売り込みしたり磨きをかけたりしている。その部分は拡大が効いていない。イヤらしくならないように計算されているのだ。
 読後感だけで言わせてもらえば、「なんだからゆるゆると作家になってしまった」ように感じるが、じっくり考え直すとその精力的な活動がみえてくる。益田的時間軸をほどけば〈ふつうな私〉でも何でもない。
 だから、本書の読後感のままにヌルい気持ちで作家になろうとすると大変なことになる。