この本のオビにはモテ期を「都市伝説」と書いている。無論(なにが無論だ)、モテ期とは人生において突然モテるようになる時期のことである。オビは「人間誰しにも訪れるという」との形容句がついており、これが「都市伝説」だと述べているのである(※ちなみに本文の冒頭には「とうとう来たんだ 人間誰しも訪れるというアレが」とあるから、これは「誰しも」の誤植であろう)。
そのまま書いちゃうのはアレなので、ちょっとしたエクスキューズとして「都市伝説」とか書いたんですよ、というのが真相かもしれないが、ぼくはモテ期というものは存在すると断言する。しかしそれは「誰しも訪れる」というものではない。そこが都市伝説なのだ。今リキを入れて語らなきゃいけないことは山ほどあるはずだが、あえてこんなしょうもないことにリキを入れて語らせてもらおう。
前にも紹介したが、人間の顔というものは大陸移動のように目鼻口などの要素が顔という板の上を加齢とともに流動していく。まったく流動しないという人もいるが、たいていは太ったり痩せたりするだけでこういう大陸移動が起こるので多くの人が経験するところだろう。さらには骨相まで変わったりするので顔に根本的な革命がおこることさえある。
典型的なのが少年期に美少年だったような子役が長じるに従い平凡な顔立ちになったり、ひどいときは平均以下になってしまったりするような事態だ。
神木隆之介をはじめてサザンのビデオでみたとき、
「ネ申!?」
と画面の前で固まってしまったぼくであるが、彼も歳を重ねるごとに「普通にちょっとかっこいいだけの男の人」になっていってしまった。
SMAPは、木村拓哉のみを例外として、顔が総崩れともいうべき状況である。たとえば草ナギ剛はもし売り出しのころに今の顔であったらまず売れないであろうという顔になっている。しかし、現在のSMAPの売りはもちろん「顔」ではないのでもはやどうでもいいのであるが。仮に綾小路きみまろのような顔であっても文句はいわれまい。
このように顔というものは不断に変化のうちにあるという弁証法の世界観を体現していることは言うまでもない。そしてこのように「言うまでもない」「無論」などの語尾を連発する言説ほどあやしいことは言わずもがなである。
小さい頃ブサイクだったと思われた顔は、顔の大陸移動にともなって、ある絶妙のバランスへと人相を変えていくことがある。偶然にも絶妙なバランスへと到達する奇跡のような瞬間があるのだ。絶妙なバランスという極限の点までいかなくとも、なんとなくイケる顔という程度の範囲へ進入できることがある。この顔の要素の大陸移動こそ、モテ期を形成する第一の要素である。
モテ期を形成する第二の要素は、価値観・美醜観の時代的変化である。
たとえば草刈正雄のような濃くてバタ臭い顔が好まれた時代があったが、そのような顔を美的頂点にもってくる時代はすでに過去のものとなっている(阿部寛などが現代でもいるが)。
サッカー選手だった中田英寿のような顔、すなわち男子の醤油顔というのはたとえば70年代であれば絶対的不人気であっただろう。酷薄とさえいえる顔で、ドラマ的には犯罪者役であったに違いない。しかし、中田的な顔は現代ではむしろクールの代名詞ともいえる顔であることは論を俟たない。
つまり時代によって美醜の価値観は変わる。
仮に顔の要素が大陸移動しなくても、薄い醤油顔だと思われていた人が、クールでワイルドな立ち位置に立たされるということがあるのだ。
もちろん、顔の要素の大陸移動と美醜の価値観の変化が組み合わさることもある。こうしたときはまことに劇的で、同窓会などでモテモテになること請け合いである。
ぼくの小学校・中学校時代の同級生で、小中学校時代は単なるオトボケ・いい人キャラでぼくと同じ顔面的負け組だったのだが、30代になって「いいお父さん」「優しい」「顔が平均値以上」ということに突如なって、独身の女性同窓生たちに突如人気が高まっていたことがあった。彼が何らかのセックスアピールを獲得するということ自体、小中学校時代からは想像もできなかった。逆に小中学校時代の勝ち組の無残さといったらない。
さらに、モテ期の特殊事情として、異性ばかりの境遇に放り込まれるというものがある。あからさまに女子ばかりの園に、というのではなくても、何となく妙齢の人との出会いが少ないというようなシチュエーションがそうである。
モテ期とはこのような要素が組み合わさることによって、一定のグループに引き起こされるものである。たとえば10人いたら5人に起きる(何の根拠もない数字。「たとえば」って何だ)。10人のうち5人が体験したら、もうアレではないか。「誰もでモテ期があるんだ」っていうことになるじゃないか。
ホラ、ユリ・ゲラーがテレビカメラの前で「テレビをごらんの皆さん、動かなくなった時計を握りしめてください」って視聴者に呼びかけたらそのうちの1%くらい、つまり1万人の時計が手の熱で油などが溶けて動き始め、そのうちのさらに1%、つまり100人がテレビ局に電話かけてきても「スゲエ」って話になる、あれと同じだ。
そこまでしょうもない考察を続けてきたものの、本書を読むにあたってそんなモテ期考察はクソの役にも立たない。つうか、1巻読んだ限りではあんましこのモテ期っていう設定生きてねえだろ。あえていえば、モテ期であると主人公が思い込むことによって果敢にアタックできるという点にのみ生きていると言える。あるいは、オビのとおり結局そいつは都市伝説なんだからモテ期なんてねーんだよという話なのか。
主人公の藤本幸世は29歳の男性派遣社員(デスクワーク系)。つまり非正規雇用という経済的貧困と、非モテであるという、「生きづらさ」の二大要素をかかえた形象なのだ。1巻では藤本に4人の女性がかかわるのだが(まあセックスを果たす超不細工な女性一人をふくめれば5人)、うち3人は「美女」という設定になっている。
冴えない男が突然美女にモテるという設定は、ぼくにしてみるとウマくやらないと面白くない。そういうことは非現実的としかいいようがないからだ。作中で中柴いつかが厳しく指摘しているように「男なんて結局ヤらせてくれそーなイメージが持てる女にしか怖くて行けねーんだろ?」というアレだ!
まるで「残念ながら事実なので認めざるをえない」と保身のために山本懸蔵をスターリンに売ったことを問いつめられた野坂参三のようなセリフをいわざるをえない。
これにたいして、あまりにも強いリアリティを獲得してしまうのが中柴いつかのエピソードだ。
数年前に友人たちの飲み会で出会うものの、「いつかちゃん処女なんだって!」と酒席でネタにされ、処女だから童貞の藤本はつきあっちゃえよと周りにハヤされ、お互いを悪態ついてケンカするという最悪のファーストコンタクトになった経歴をもつ。
しかし、爾来2人は性を意識しない「仲間」として漫画の交換や飲みなどに興じるのである。しかし、モテ期が来ていると思い込んでいる藤本はいつかを異性として強く意識してしまう。
仕事仲間として遠慮会釈のない口をききあい、まったく性を意識させあわない日常関係、服装にもコケティッシュさがみじんもない様子……などがぼくにとってあまりにもリアルである。べ、別にぼくの身近な異性の友人たちがどうだってことじゃないんだからね!
中柴いつかはグラフィック的にはもちろん不細工ではない。しかし、他の3人に比べると実に薄味の、日常味があふれている。服装もTシャツとジーンズ、キャップという構わない出で立ち。「現代の幼なじみ」とでもいうべき「馴染み合っているのに日常に性を意識させない」というグラフィックとして最適である(右上図参照)。
だれかいっしょに東北にクラゲラーメンを食いに行く旅行についてきてくれないかと無差別に誘った中でたまたま藤本がひっかかったというシチュエーションで出発する。もともと日帰りのつもりだったのだが、もっとおいしいものがあると地元の人から聞きつけ、旅館に泊まる決意をする。そのときから、藤本は俄然いつかとのセックスを強く意識してしまうのである。
その……、藤本が童貞かもしれないのにひょっとして旅行に誘っちゃって期待させちゃった? みたいな罪悪感から藤本の勇気をふりしぼった誘いに責任を感じて応えてしまうとか、そのあと、もし奥地に行って藤本が勧めるものがオイシかったら「ヤラせてほしい」という無茶で執拗な藤本の要請に「もうどうにでもなれ」とでもいうような調子で「まあ……もう……どうでもいいよ」と応じてしまうとか、そういうあたりがいかにも「手が届きそう」な形象に仕上がっていて玉乱わ。そして藤本の〈友達以上恋人未満の頼めばヤラせてくれそうな女の子ができた〉などと解説する身も蓋もなさも最高。
きわめつけは、結局藤本はフラれるものの、帰りの新幹線で3回もチューをしたり乳をもんだりするという、藤本の強引な攻勢になし崩し的に受けているあたりである。今そこに恋人ではなくただの友人として横にいる、なのに、きっぱりとした拒絶の感情をもっているのではなくて、猛烈に攻勢をかければそれに応じなくはない、という男性が妄想する最も好都合な性的身近さ、手の届きやすさがすばらしい筆致で描かれている(もちろんリアルでやったら大半はセクハラか強制猥褻になります。「エロネタのシチュじゃ好きだが現実はギブですっ」ってやつ)。
これぞ「イブニング」的えせ文系インテリ読者のオクテさに徹底的に忠実な妄想だといえよう。
はあ……またつまらぬ妄想を語ってしまった……。