引用元書けばいいのかよ 議員の海外視察報告書騒動


 福岡市議会の市議会議員(民主・市政クラブ)の若手4人の海外視察レポートが、ウィキペディアや研究者の論文からのコピペだったというので、地元のマスコミなんかでにぎわいをみせておる。

 そのレポートはこれ。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/gikai/info/pdf/kaigai240129.pdf

 たとえば6ページの「リヴァプール市の概要」はほとんどがウィキペディアの「リヴァプール」からの丸写しである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%AB

 どれくらい丸写しかというのは、みてもらえばわかる(改行は省略)。

報告書 ウィキペディア
リヴァプールは、イギリス、イングランド北西部マージーサイド州の中心都市で、市域面積は111.84平方キロメートル、人口は約45万人。当初は小さな港で、16世紀中ごろの人口は600人程度であったが、17世紀末に近郊のチェスター港が泥の堆積によって衰退、チェスターに代わってイングランド北西部商業都市の代表格にのし上がり、郊外では製造業が成長し、アメリカおよび西インド諸島との貿易が増大するにしたがい町は繁栄した。植民地との貿易が盛んになった18世紀当時のイギリスは、ヨーロッパからアフリカへ日用品や火器を、新大陸からヨーロッパへ砂糖などを持ち込む大西洋三角貿易において、ほぼ独占的な地位を築いていた。リヴァプールは、この北アメリカ、西アフリカをむすぶ三角貿易の拠点として中心的な役割を果たし、おもに奴隷貿易で急速に発展したという負の歴史も存在する。三角貿易などを通じて資本蓄積を成し遂げたイギリスは、世界にさきがけて産業革命を進展させた。こうしたなか、1830年にはリヴァプールと内陸のマンチェスターを結ぶ鉄道が開通し、60年代には鉄道交通の要所となる。綿織物工業が発展していたマンチェスターから運ばれた商品は、この街の港から世界に輸出され、19世紀末にはロンドンに次ぐ「帝国第二の都市」とまで呼ばれるようになった。19世紀にはアメリカとの貿易および客船業務でイギリス第一の港へと成長した。最盛期は80万人近い人口を抱え、イギリス有数の工業都市・交易都市として栄えたリヴァプールだったが、第二次世界大戦時にドイツ軍の爆撃にさらされ、1940年代後半、綿貿易と繊維産業は急速に衰退した。さらに、1950年代以降イギリス全体が長期の不況に陥ったことと並行して急速に斜陽化し、次第にその地位を低下させていった。だが、60~70年代には大規模なスラム浄化と再建計画がはじまり、現在は港湾部の各種施設やビートルズゆかりの建物などを利用した観光に力を入れている。18世紀から19世紀の海港都市としての姿を残している一部の地区は「海商都リヴァプール」の名で、2004年にユネスコ世界遺産に登録された。リヴァプールにはリヴァプール大学、リヴァプールホープ大学、リヴァプールジョン・ムーア大学、エッジヒル大学などの教育機関があり、多くの学生が学んでいる。 また、市街の世界遺産を生かして芸術政策にも力を入れており、アルバート・ドックの一部を利用しているテート・リヴァプールとマージーサイド海事博物館、リヴァプール・ワールド・ミュージアムなど、多くの博物館・美術館がある。またビートルズの4人の出身地として世界的に知られ、現在も多くのファンが訪れる。彼らの以前・以後にも多くのミュージシャンを輩出し、「リヴァプールサウンド」の言葉も生まれた。 リヴァプール (Liverpool) は、イギリス、イングランド北西部マージーサイド州の中心都市。……市域面積は111.84平方キロメートル、2005年の人口は447,500人。2008年の欧州文化首都の一つ。……しばらくは小さな港で、16世紀中ごろの人口は600人程度であった。しかし17世紀末に近郊のチェスター港が泥の堆積によって衰退、チェスターに代わってイングランド北西部商業都市の代表格にのし上がり、郊外では製造業が成長し、アメリカおよび西インド諸島との貿易が増大するにしたがい町は繁栄した。 ……植民地との貿易が盛んになった18世紀当時のイギリスは、ヨーロッパからアフリカへ日用品や火器を、新大陸からヨーロッパへ砂糖などを持ち込む大西洋三角貿易において、ほぼ独占的な地位を築いていた。リヴァプールは、この北アメリカ、西アフリカをむすぶ三角貿易の拠点として中心的な役割を果たし、おもに奴隷貿易で急速に発展したという負の歴史も存在する。三角貿易などを通じて資本蓄積を成し遂げたイギリスは、世界にさきがけて産業革命を進展させた。 こうしたなか、1830年にはリヴァプールと内陸のマンチェスターを結ぶ鉄道が開通し、60年代には鉄道交通の要所となる。綿織物工業が発展していたマンチェスターから運ばれた商品は、この街の港から世界に輸出され、19世紀末にはロンドンに次ぐ「帝国第二の都市」とまで呼ばれるようになった。……19世紀にはアメリカとの貿易および客船業務でイギリス第一の港へと成長した。最盛期は80万人近い人口を抱え、イギリス有数の工業都市・交易都市として栄えたリヴァプールだったが、第二次世界大戦時にドイツ軍のはげしい爆撃にさらされ、1940年代後半、綿貿易と繊維産業は急速に衰退した。さらに、1950年代以降イギリス全体が長期の不況に陥るのと並行して急速に斜陽化し、次第にその地位を低下させていった。だが、60〜70年代には大規模なスラム浄化と再建計画がはじまり、現在は港湾部の各種施設やビートルズゆかりの建物などを利用した観光に力を入れている。18-19世紀の海港都市としての姿を残している一部の地区は「海商都リヴァプール」の名で、2004年にユネスコ世界遺産に登録された。……リヴァプールにはリヴァプール大学、リヴァプールホープ大学、リヴァプールジョン・ムーア大学、エッジヒル大学などの教育機関があり、多くの学生が学んでいる。 また、市街の世界遺産を生かして芸術政策にも力を入れており、アルバート・ドックの一部を利用しているテート・リバプールとマージーサイド海事博物館、リヴァプール・ワールド・ミュージアムなど、多くの博物館・美術館がある。またビートルズの4人の出身地として世界的に知られ、現在も多くのファンが訪れる。彼らの以前・以後にも多くのミュージシャンを輩出し、リバプールサウンドの言葉も生まれた。


 まあ……押しも押されもせぬ、本格的な丸写しザ・丸写しである。他にも何カ所かあるうえに、行ってない箇所に行ったかのように書いているレポートもある、と報道されている。


 さらに、共産党の独自調査で、他の市議会議員もやっていたことがわかった(大森哲也・藤本顕憲)。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/gikai/info/pdf/kaigai220628.pdf

 上が両議員の報告書、下がウィキペディアである。



 こっちはさらに悪質で、自分がヒアリングした中身にウィキペディアからの盗用をまぎれこませている。



 実はやはり共産党の告発で5年前ににも同じような事件が起きているんだが(公明党)、ほとんど反省もなくこういうコピペ事件が繰り返されているのである。

http://www.jcp-fukuoka.jp/special/gikaiKaikaku/070209.html

 反省しない原因はいろいろあるんだろうけど、「引用」というものが全然わかっていない、ということに、原因の一つが間違いなくある、ということなのだ。


 たとえば、今回の報道をみてもわかるけど、盗用をした市議たちは何と言って釈明しているか。

執筆を担当した田中慎介議員は「注釈に参考文献を記すことを失念していた。結果的に盗用ととられても仕方ない」として、近く報告書を修正する考えを示した。(強調は引用者)

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/301823


 自分のブログでもこう言っている。

報道でご指摘の件について、注釈にて引用元を明記することを失念しまった箇所があり、そのため自身の言葉のように読み取れる文章になっておりました。
しかし盗用の意図は全くなく、その他の引用部分については注釈にて引用元を明示しており、また市政への提言など報告書の大半は当然に私自身の言葉で記述しております。議長へは修正した報告書を再提出し、また追って報告書内の引用箇所、引用元が正確に分かる形で市民の皆様に改めてお示しする準備を進めております。(強調は引用者)

http://www.tanakashinsuke.jp/


 他の市議はどうか。
 共産の指摘で盗用がバレた藤本市議は、

結果的に参考文献を記しておらず、修正して提出することも検討する。
西日本新聞2012年5月19日付)

とのべている。
 「出典を書きゃいいんだろ」「注釈を書き忘れた単なるケアレスミスなんだよ! 大げさに書き立てやがって…」という態度がありありとうかがえる。


 んで、修正された民主・市民クラブの海外視察報告書はどう修正されて再提出されたかというと、本文はほとんど手直しなしで、なんとページの端に、小さなポイントで「リヴァプール市の概要については、Wikipedhiaをベースに筆者が編集。」という脚注を加えただけなのである。



 すごいね。
 これ、「編集」っていうんだ。
 

 引用とは何か。
 著作権法で認められた著作物の利用の一つの形である。
 しかしそれにはルールがある。有名な1980年の最高裁判決がその条件を示している。

 最高裁はこう述べました。「引用とは、紹介や論評などの目的で、自分の作品に他人の一部を収録することである。よって、引用といえるためには、(1)引用して利用する作品と、引用されて利用される作品とが明瞭に区別され、しかも、(2)両作品のあいだに主従の関係がなければならない」。実際はほかにも条件を挙げたのですが、以上が特に大事な部分です。
 たしかに、これは普通の意味の引用の場合にはかなり妥当な基準でしょう。通常、他人の作品を引用する際には、前述のように括弧でくくったりして区別がつくようにしますね。どこまでが他人の作品の引用なのか、わからないのでは具合が悪い。しかも、作品のほとんどが他人からの借り物というのでは引用とはいわないでしょうから、「引用される部分が従」という条件もわかります。(福井健策『著作権とは何か』集英社新書p.152-153)

 この基本的なことがわかっていないので、田中しんすけ市議は平然とこういう修正をしてドヤ顔をしていられるのである。田中は「その他の引用部分については注釈にて引用元を明示しており」などという書いているけども、この修正前レポートで「引用」に相当するものは本文1ページ目の

厚生労働省HP「平成23年人口動態統計の年間推移」より抜粋

というところだけで、あとは統計資料としての根拠の提示か、「参照」しかない。正確な意味での文献からの引用は見当たらないのだ。たぶん、田中は引用とこの二者との区別がぜんぜんわかっていないのだろう。


 こういう「修正」で一件落着したと心の底から、ピュアな気持ちで信じていられる市議会議員の水準は、出典とリスペクトの言葉を書けばpixivから画像を自由にもってこられると信じて疑わない小中学生と同じである。



 大森・藤本両市議にいたっては、どんな修正をしてくるのか見当もつかない。
 大森哲也市議(当時)はすでにこの3月で引退しているのだが、以下が大森がその前に海外視察にでかけたときのレポートである。


 中学生の感想文だろ、これ。
 しかも中身がひどい。
 ベトナムに気張って税金で海外視察に出かけておきながら、「ベトナム社会主義国家のため有意義な視察にならないので」って……。
 手書きでたどたどしく数行のレポートを必死で書いているおじいちゃん。たぶん、ワープロは使えない。むろん、インターネットなど使えそうもない(たぶん、「インターネット」はどこかの店で買える「モノ」だと思っている人種ではないか)。コピペなどという言葉にいたっては、聞いたことさえないだろう。


 では、このようなコピペという、現代の「イット」の最先端を駆使して編み出された高度かつ複雑きわまる技術を誰がやったというのだろうか。


 むろん、旅行代理店である

 今回いっしょにいった藤本市議が、新聞の取材に全力で告白している。

藤本市議は「現地の旅行会社社員からもらった資料を使ったが資料の出典は知らなかった」と説明。(西日本前掲)

藤本議員は「現地の旅行会社のスタッフからもらった参考資料を基に書いた。修正を検討したい」(毎日新聞同日付)

 実は、5年前の公明党のときも同じことが起きている。公明党の福岡市議は週刊誌の取材に次のように答えた。

引用につきましては、旅行代理店からの資料提供があり、ネットからの引用があったとは考えておりませんでした。(週刊ポスト2007年3月23日号)

 いやあ旅行代理店から渡された資料がまさかネットからだとは思わんかったなあ。出典が書いてないので、てっきり旅行代理店が独自につくった資料かと思いましたわい。……って、常識的に考えて、そんなわけないだろ
 そもそも、旅行代理店の資料を典拠も書かずに自分のレポートのようにしている時点で、どういう神経をしているのかと疑りたくなるくし、公明党にしても今回の大森・藤本の件にしても、その資料使って自分がやったヒアリングの中身みたいな体裁で書いているので、それだけで真っ黒黒助出ておいで、という具合だ。もし本人が本当に聞き取りをしているなら当然もつはずの違和感も抱かずに資料をそのまま写したというのだから、不自然きわまるというものである。

 
 まあ、フツーに考えて、旅行代理店にレポート書かせた、と疑うのが妥当だよね。
 福岡市議の海外視察の費用上限は5年前は1人100万円で、今は80万円に引き下げられている。その出費の多くは航空機のビジネスクラスを利用していることによるものだけど、いかにもこのビジネスクラスの原価なんて旅行代理店の方でどうにでもなりそうじゃないですか。そこにキックバックみたいな構造がないのかどうか、それが原資になって海外視察レポート代筆なんかも起きているんじゃないか、とか調べてほしいところである。