「鬼滅の刃」についてインタビューを受けました

 「しんぶん赤旗」日曜版2021年1月17日号の「『鬼滅』旋風どう見る」という『鬼滅の刃』特集でコメントしました。インタビューをまとめてもらったものです。

 

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

 この作品は、マンガがすでに完結しています。また、テレビでアニメとして放映されています。そして、今回テレビで放映された続きの部分の一部が映画になりました。

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 作品について語ってほしい、ということだったので、マンガを語るのか、テレビ版を語るのか、映画を語るのかが微妙なわけですが、「なぜこんなに大ヒットになったと思うか」を作品の内容に関わって論じるという角度からのご依頼でした。

 マンガがすでに人気があったのですが、社会現象として火がついたのはテレビ版、映画はそこからの延長、という認識があったので、「多くの人が動員されるきっかけとなったテレビ版を語る」という態になりました。テレビ版だけを見た人がどういう印象を受けるか、という角度になっています。

 

 ジェンダーや暴力の表現に関しては、質問があったので、記事に書いてある通りに述べたのですが、これは本作に限らず、虚構作品の多くに共通することではあります。

 

 昨年12月の初旬に西日本新聞には「鬼滅考」として連載で何人かの識者の『鬼滅』考察が載っていました。

 同月3日付は評論家・藤本由香里で「負け戦、世相とシンクロ」。傷つき寿命もある、厳しい限界性を持った人間個人がとうてい勝つことができないものに挑む姿から、コロナと格闘する世相とのシンクロを論じています。

 これ(個人の限界性)は、マンガ版全体と、映画の後半の上弦の鬼・猗窩座との戦いでは強く意識させられるテーマなのですが、逆にテレビ版だとあまり意識させられません。

 ゾンビ学・岡本健は「排除ではなく、優しさを」。恐ろしい他者として排除したい誘惑と戦い、自分がなりうる地続きの存在として「鬼」をとらえます。これはぼくの論考と重なります。

 エッセイスト・犬山紙子はキャラクター造形で「推し」ができやすい構造について語っているのですが、ぼくの「推し」も善逸です(笑)。善逸が常に弱気なのは犬山の言う通りですが、だからといって「男らしさの対極」にはいないと思います。なぜなら結局「かっこよく戦う」ことには違いがないのですから。普段と違いすぎる戦闘の姿――ぼくの中では「ギャップ萌え」なんだと思います。

 善逸が情けない日常の姿から「雷の呼吸」の使い手に変わる瞬間(テレビ版ではそこに至るまでの時間が本当に長い!)は、「待ってました!」と言いたくなるような、あたかもぼくが幼少期に見ていた「ウルトラマン」のごとく、ようやくハヤタが変身をする瞬間を見るような、そんな原初的なカタルシスがあります。

 文筆家・はらだ有彩は「“共助”で鬼に立ち向かう」。わざわざ今物議を醸しているタームでなくても「共同で」でいいやんと思ってしまうのはぼくがサヨクだからでしょうね。鬼舞辻の組織を論じ、幹部の無謬性から手下を粛清する様子はどこかのブラック企業のよう。鬼舞辻のパワハラを見て、「あーこの会社はダメだわ」と思いました。

 能楽師・林宗一郎は「伝統芸に通じる型と呼吸」。呼吸や瞑想を軸にこの作品に注目してみると、まあ『ジョジョの奇妙な冒険』を思い出してしまいますが、それよりも昨今の「マインドフルネス」ブームをすぐに想起しました。時の首相が国会で「全集中の呼吸」と言ったり、福岡市ではとうとう事業まで始めてしまったのですからね…。

mindful-leadership.jp

 西洋仏教における「瞑想」の隆盛にみられるように、個人が「手軽」にできる(ように見える)精神コントロールの技術として「マインドフルネス」、そして「呼吸」は、考えてみれば極めて現代的です。そして、子どもでもそれを「真似」することができます。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 マンガ版については、先ほども述べましたが鬼の無限性に対して、個人の限界というものがものすごく意識づけられます。逆に言えば人間が共同することの意義のようなものです。

 

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

鬼滅の刃 23 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

 これを「特攻隊」的なもの、つまり「悠久の大義に個人が身を委ねる」、個別の肉体は滅んでも民族としては続く的な欺瞞のように感じることもできますが、それは特殊に見過ぎ。マルクス主義的に、個々人は限界があるが分裂ではなく人間が共同し、自然や社会の難問にあたる的にとらえることもできるわけで、社会や自然の難問に対する個人の限界性についてはふだんぼくらが根底で感じていることなのだと言えます。

 とにかく個人にはいかに限界があるかということが叩き込まれます。

 そういう点では上述の藤本由香里の論点が重なると思います。

 

(追記)

 例えば、下記のブログは「集団戦バトル漫画としての傑作」という把握をしています。

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

1vs多で強大な一匹の的に立ち向かうという構図は、モンスターハンター的なおもしろさでもあり、同時に欠損表現をはじめとした、のちの戦線に復帰することが不可能な「不可逆のダメージ」描写がメインキャラクターに対して頻発するので、ファイアーエムブレムをプレイしている時のような「このあとの巨大な敵を倒すためには主力を残す必要があるから、そこまでの戦力ではない自分はここで捨て石になろう……」というゲーム・プレイヤー的な目線をすべての登場人物が持っているシミュレーションRPG的なおもしろさもあり、やっていることは王道ながらも各種演出には毎話驚かされ続けてきた。

 

 確かに「集団戦バトル」をやっているんですが、ぼくは『鬼滅』については上記で指摘されているような意味での「集団戦バトル」という印象は弱く、あくまで「個人の限界」という角度だけが強烈に浮かび上がるのです。

 上記ブログが指摘した「集団戦バトル」というのは、この記事のブックマークに寄せられたコメントにあるように、やはり葦原大介ワールドトリガー』のランク戦のような描写だと思うのです。