加賀乙彦『死刑囚の記録』 郷田マモラ『モリのアサガオ』にもふれて

モリのアサガオ』のよさと不満点

 死刑を描いた漫画といえば郷田マモラモリのアサガオ』がある。文化庁メディア芸術祭の大賞を受賞している。

 

 

 ぼくは以前その作品について「しんぶん赤旗」のレビューでとりあげたことがある。そのとき書いたことなのだが、ぼくがこの作品を評価した最大の理由は、死刑執行をルポ的に描写したシーンがあったからである。当日の朝、刑務官が突如自分の房の前で足を止め、出るように促し、そのまま刑場へ連れて行かれる。その足音が止まることを毎朝毎朝ひたすら恐れる恐怖を描くとともに、死刑場の手前に簡素なつくりの宗教施設が設置されそこで最後のときをすごし、やがてカーテンが除かれて縄と落とし穴のフタが暴露される。そこから死亡を確認するまでの様子を、郷田は克明に、しかし簡潔に描いている。

 全編のなかで、この部分の描写は非常に抑制が効いている。郷田の漫画は「悩む」とか「苦悶する」という描写が実にストレートで大仰である。ゆえに、ぼくにはあくまでその「苦悩」が記号的にしか印象づけられず、物足りなさを感じるのだが、死刑のシークエンスはみぞおちにズンとくるような重い説得力があった。読者として、死刑にされることを「恐い」と感じられるようになっている。
 このシーン以外、とくに作品の主軸になっている、死刑囚と刑務官の心の交流と断絶については、正直いえばドラマチックすぎて成功していないと思う。作品に期待しているものが違うせいかもしれないのだが、ぼくは死刑囚が死刑になるまでどんな心情でいるのかが知りたかった。『モリのアサガオ』にはいくつかのパターンの死刑囚が登場する。ひたすら死を恐れるもの、真情として改心をし罪を悔いているもの、まったく何の反省もなく刹那的に享楽主義にふけるもの……ぼくは半面でこうした感情のさまざまなパターンについて学ばされたが、同時に、ストーリーの主軸にある「ドラマ性」がたえず読み手であるぼくの意識のなかに侵入してきて「これは『おはなし』にすぎないんだ」「ルポじゃないんだ」というささやきが消えなかった。現実のすぐれた拡大辞というよりも、「つくり話」「演出された苦悩」という気がどうしてもしたのだ。

 


ありえないほどの貴重な記録として

 郷田は現在、裁判員制度を題材にした『サマヨイザクラ』を描いている。文化庁メディア芸術祭の大賞を受賞した言葉のなかで郷田は〈連載を終えたいま、もっと別の描き方があったのでは……などと、失敗点ばかりが目につき、相も変わらず迷い続けています〉と述べている。その果たせなかったことを『サマヨイザクラ』で再挑戦しようとしているのかもしれない。
http://plaza.bunka.go.jp/festival/2007/manga/000835/

 

 ただ、郷田の思惑と別に、ぼくには「つくり話ではない、死刑囚の真情が知りたい」という気持ちが高まってきた。それにはルポや実録に頼る以外にはない。

 現在、ぼくが知っている限りで、死刑l確定囚または死刑レベルの求刑がされている被告が、ブログをしている例が二つある(厳密にいえば獄中の彼らの文章を第三者が公開しているのだが)。

死刑囚小田島獄中ブログ
http://knuckles.cocolog-nifty.com/blog/
真実 神田司 前略、名古屋拘置所より
http://blog.livedoor.jp/kanda_tsukasa/

 これらをていねいに読んで、読み解く作業をするというのもいいのだが、できればもう少し指針となるようなものを得てからそれらの文章も読むようにしたい、とぼくは思っていた。そんなときに、本屋で平積みになっていて偶然めぐりあったのが、加賀乙彦『死刑囚の記録』(中公新書)であった。

 

 


 作家であり精神科医である加賀は、東京拘置所の精神医官となり多くの死刑囚と接してきた。本書はそれを新書の形式でまとめたものである。初版は1980年に出されており、現在ぼくが手にしている版で36版を数えている。現代の古典なのである。

 なぜ本書が古典の仲間入りをするほどの名著なのか。
 それは実に貴重な記録だからである。
 なぜか。

 まず死刑囚に大量に接することができる人、というのがひどく限られているからである。そのうえ、鋭い観察眼をもっている人というのもまた限られている。さらに、それをすぐれた文章力で叙述できるという人もさらに限られている。本書にも死刑囚に多数接した研究書がいくつか紹介されているし、加賀自身も研究チームをつくって無期囚と死刑囚の比較の研究を世に問うているのだが、学術論文が叙述として、ひとの感性に訴えるように書かれているとは限らない、というかそうなっていることは稀だからである。

 いわば本書はありえない奇跡が幾重にも重なって生み出されたものだといえる。内容は著者が1950年代に会った死刑囚ばかりで「古い」といえば古いのだが、そのような記録がなかなか生み出しがたいがゆえに、たとえ半世紀前のものであろうと日本の死刑囚についての専門家の記録として果てしなく貴重なのだ(他にも作家が書いたものは大塚公子『57人の死刑囚』などがあるが)。

 本書は「第一章 ある殺人者との出会い」「第二章 東京拘置所ゼロ番区」「第三章 独房の現実と夢」「第四章 刹那主義の人びと」「第五章 冤罪を主張する人たち」「第六章 鉄窓の宗教者」「第七章 死刑囚と無期囚」という具合に構成されている。章タイトルからわかるように、さまざまなパターンの死刑囚の精神状態や対面して受ける印象、風格などが作家らしい筆致で記録されている。

 


典型的な死刑囚とは

 本書の2章において松田敏吉という死刑囚が登場するが、加賀は〈とにかく、松田敏吉を通じて、死刑囚のおちいっている状況が私には鮮やかに、感覚的に分かったのだ。彼を死刑囚の典型とみなす気持ちに今でも変りない〉(p.31)とのべている。どのように典型なのか。
〈彼において私は死刑囚の典型的なありようを見出す。
 まず、極端な精神の不安定である。あるときは笑い、あるときは泣き、喜びから絶望のどん底へと目まぐるしく移りいく、笑い泣きともいえる混合状態がある。
 つぎに、自分の裁判への強い関心である。そこに、無罪とまではいかなくても、何とか刑一等を減じたい、死刑から無期へと変わりたいという切なる願いがみられる。共犯者に罪をなすりつけたいという赤裸な気持ちも現れている。
 自分の陥った困難な状況から脱出するすべを彼は知らない。大石光雄〔第1章冒頭で登場する死刑囚〕のようなヒステリーへの逃避の方向に、今一歩で彼は踏みこんでしまう。ときどき、発言内容が理解できぬような興奮に入り、ただ目茶苦茶に叫ぶような状態がそれである。そのあいだ、自分の叫んだ言葉を彼はおぼえていなかった。
 これは、あとで問題にする事実だが、死刑囚一般にみられる、濃縮された時間も松田に見出される。彼がたえず忙しく話し動き作句し、一種軽躁状態ともいえるように、活動的に生きていたことに注目したい〉(p.30〜31)


 本書をつらぬく死刑囚に共通する特徴をしるせば〈拘禁ノイローゼ〉ということにつきる。
 その詳しい内容については本書を読んでほしいが、簡単に紹介しておくと、まず「爆発反応」というのがある。シロウト目で再要約して申し訳ないが、要するに生命の危険を感じて無茶苦茶に暴れ回る原始的な反応なのだ。
 そして「レッケの昏迷」。危険に遭遇したクモやカニの擬死反射のようにまったく動かなくなってしまうのである。これも生命の危機にさいしてあらわれる原始的な反応だ。
 「ガンゼル症状群」というものある。的外れな応答と道化じみた仕草をするのだ。
 そして「殺人の否認」。本書では本当に冤罪くさい人たちとの違いが比較して描かれているが、虚言や妄想とつながっている。
 「被害妄想」。看守や医官、裁判官などが自分に加害しているという妄想である。
 そのほか、「憂鬱な気分」「躁状態にみられるような極度の上機嫌」や記述しにくい不明確な様々な症状がおきる。これらをまとめて〈拘禁〉によってひきおこされるノイローゼ、つまり〈拘禁ノイローゼ〉と呼んでいる。

 


“濃縮された時間”“うすめられた時間”

 加賀はこのような拘禁ノイローゼがおきる基礎には、死刑囚たちの〈濃縮された時間〉があるという。
〈未来が、二十四時間から四十八時間に限定されている。ごく短時間に生の終わりを想定して日日生きねばならぬのが死刑囚の状況である。彼らの拘禁ノイローゼの、激烈で、動きの多い反応の基礎には、この限定された未来がある。ある死刑囚は言った。「死刑の執行が間近いと思うと、毎日毎日がとても貴重です。一日、一日と短い人生が過ぎていくのが、早すぎるように思えます。それにしても社会にいたとき、なぜもっと時間を大切にしなかったかと、くやまれてなりません。もういくらも時間が残っていない。だから急がねばなりません」〉(p.219〜220)

 おお、『イキガミ』である(笑)。というか、加賀が記しているように、それ自体はドストエフスキーの作品中で表現されたテーマであり、パスカルも『パンセ』のなかで死刑と人生をなぞらえている。

 これにたいして、無期囚は逆に〈うすめられた時間〉を体験する。一切の自発性が奪われた単調な灰色の時間が人生の大半を占めるために、反抗や自主性をあきらめその単調さと規律に服して毎日をすごしていくようになる。〈刑務所ぼけ〉(p.221)ともいうべき〈鈍重で生彩を欠いた拘禁ノイローゼにおちいっている〉(p.213)のだ。

 『モリのアサガオ』を読んだ時、たとえ自分の罪から目をそらすように身勝手で陽気に生きている死刑囚であってもその行為の根底には「死」への恐れがあることが見てとれた。加賀の記録はそのこととだいたい一致する。『モリのアサガオ』はそういう意味では決して情緒的なつくりではなく、記録などにもとづいて、きわめてロジカルにできていたのである。

 


死刑廃止派も存置派もどちらの論拠にもなる

 著者の立場を明らかにしておけば、〈私自身の結論だけは、はっきり書いておきたい。それは死刑が残虐な刑罰であり、このような刑罰は廃止すべきだということである〉(p.230)とあるように死刑廃止派だということだ。
 「なんだ死刑廃止派か。だったらどうせそういう角度から死刑囚をとらえているんだろ」と思うかもしれない。しかし、本書が死刑存廃の立場の違いをこえて名著であるのは、そのような立場をこえた説得力があるからである。

 というか、本書から得られる結論は、死刑存置派にとっても重要だと思われる。「それほどむごいのであれば、罪をつぐなうためにはやはり死刑は必要ではないか」ということだ。じっさい、死刑囚が自分の犯した罪や死(生命の尊さの裏返し)というものとむきあってもらううえでは、確かに必要かもしれないとぼくに思わしめたほどだから。
 ぼくは本書を読んで率直にいって、「自分の罪を見つめる時間をもつために」あるいは「自分の死という形で生命の重さを実感してもらうために」死刑という制度は必要ではないかとまず感じた。加賀はそれがあまりに残虐な反応を引き起こすがゆえに死刑を廃止すべきだというのだが、応報性を求める人や、ぼくのように反省を求める人には、同じ理由で存置をうながしてしまう(念のため言っておけば、ぼくは死刑存置派ではない。ほとんど存置派に傾きかけている、ひどく動揺している廃止派である)。

 裁判員制度が始まる前に本書はきっと役に立つ、とでも書きたいところだが、一つひとつの裁判でそんなことをシロウト国民が背負って判断しなければならないというのは、本当に荷が重い。重すぎる。最近、新聞の押し紙裁判の本を読んでいて次のようなくだりを見つけたので、我が意を得たりというところだった。

 

 

〈わたしたちが真に望んでいるのは、殺人事件の被告人が有罪か無罪か、死刑にするか無期懲役にするか、といったことを決める刑事裁判に国民が参加することではないと思います。
 そうではなく、水俣病の被害者、ハンセン病患者、薬害患者、生活保護者などの弱い立場に置かれている庶民が、大企業や国などを相手に、必死になって権利の救済を求めている民事裁判や行政裁判こそ、一般の健全な社会常識を反映させるための国民の司法参加が必要であると考えます〉(真村久三+江上武幸『新聞販売の闇と戦う』p.156)

 裁判員として毎回毎回の裁判の判断のためではなく、民主社会の構成員の一人として死刑の存廃を考えるために本書は必要なのだ。いずれにせよ、本書は死刑の存廃を考えるうえでは立場の違いをこえて必読の書だといえる。