『関根くんの恋』『きょうは会社休みます。』


関根くんの恋(1) (エフコミックス)
 「世にも稀なる残念な男、関根圭一郎。三十路にして、遅咲きの恋。第3回an・anマンガ大賞!!!」というのが『関根くんの恋』(太田出版)のオビである。河内遙関根くんの恋』の主人公・関根は、メガネ男子の30歳、大手企業のキレ者サラリーマンである。
 切れ長の酷薄そうな顔にメガネをかけている、仕事のできるイケメンだが、仕事以外の対人スキルは低く、とりわけ恋愛には激しく疎いという設定になっている。合コンでも独りがちのモテよう。それどころか、ほか弁のお姉さんやおばちゃんが関根がやってきただけでぼーっとなるほどのイケメンぶりだという設定である。


「三十路でそういうイケメンってどうなのかねえ」


とお菓子をむさぼり、ネットショッピングをしながら、つれあいがつぶやく。人が買ってきたマンガを勝手に読んでいるのである。


 つれあいには、30歳のサラリーマンというものが、もはやイケメンというだけでそんなに人々をひきつけるだけだろうか、という疑念があるのだ。俳優じゃないんだから、と。スーツを着ている段階ですでに「サラリーマン」という記号を背負っているんだから、その男の評価はもはや仕事のできる・できないということと不可分のもののはずだ。顔だけイケメン、仕事能力は残念、ということが世の中十分ありうるから、その場合は、いっそう顔がイケメンでなかったとき以上の(不当な)落差を与えられて、より大きな「がっかり」感を生じさせる。木村拓哉がスーツを着ていたとしたら、それが木村でなければホストであることは疑いないし、松坂桃李のような男がスーツを着て目の前にいたとしても、「仕事の方はどうだろう」と絶対そういう思いがよぎってしまう。


 「いや、だから関根は仕事がデキるって設定だろ!」というかもしれないが、お弁当屋のおばちゃんや合コンであう女子はそういう関根の「仕事シーン」を知らないはずだから、スーツを着た関根の見た目からすべてを判断しているにちがいないのだ。


 つれあいの言いたかったことは、30歳になったら、もはや「見た目だけ株が上がるなんて言うことがあるのか」ということなのだ。そういう「見ただけで惚れそうになるイケメン」というのは、中学・高校の教室空間とか、せいぜい大学のサークル部屋くらいにしかないんじゃないのか、と。


 ハハハ、昨今の合コン事情もしらない人間の戯れ言だと思って下さい。俺も知らないけど。
 そんなところで引っかかって中に入って楽しめないマンガじゃないだろう、これは。
 うちのつれあいは、「おおかみこどもの雨と雪」でもそうだったが、物語世界に入っていくためのフォーカスのところにいる人物(「おおかみこども」においては、主人公格の母親であるハナ)に少しでもリアルさがないと虚構を堪能できないようである。ふびんな。


もっとぶっとんだアラサー恋愛の設定『きょうは会社休みます。

きょうは会社休みます。 1 (マーガレットコミックス) もっととんでもないアラサー恋愛ということでいえば、藤村真理きょうは会社休みます。』(集英社)の方がすごいと思うね。
 年齢がそのまま彼氏もいない歴になり、必然的に処女歴になっている33歳のOL青石花笑(あおいし・はなえ)が花笑の勤める会社にバイトにきていた21歳の大学生・田之倉悠斗(たのくら・ゆうと)と恋仲になってしまうんだから。んでもって、急に同世代の新興企業のCEOに気に入られちゃうとか、あらすじだけ書くとものすごい作品である。


 しかもだよ。つきあって間もないというのに、花笑が悠斗を実家に「あいさつ」に来させようとするんだぜ。花笑には「結婚にからめとろう」なんていう邪悪な意図はない……はずはなく、結婚を念頭に考えていることがちゃんと作中で明かされたうえで、家にきてあいさつしてほしいと悠斗に頼むのである。
 普通この展開は、あまりの飛躍ぶりに、作劇的に避けるところだと思うんだけど、あえてそれをやっているのがすごいところだ。


 悠斗は、一瞬だけ「……え」と驚くけど、花笑とその親の意図を察して、

うん
いいよ

と笑顔で快諾する。

どんな男とつき合ってるのか心配なんでしょ?
ヨユーで会うよ


 男前すぎるだろ、悠斗。
 あえてこの無謀な展開に突入することで、悠斗の度量の大きさを描いてしまうわけだ。

 たしかに、もし30前後の男性を相手に配したとすれば、たくさんの打算や妥協や駆け引きがここには生まれて、それはそれでリアリズムの作品になるのだろうけども、藤村はこの作品でそういう手法はとらない。ハタチをようやく超えたばかりの非社会人をそこに配置してみると、あら不思議。突き抜けすぎたほどに透明感のある理想の彼氏が出来上がるのである。


春夏秋冬Days(1) (BE LOVE KC) 30前後なのにピュアな感じにしてしまうと、藤末さくら『春夏秋冬Days』(講談社)に出てくる、浮世離れしたカメラマン・玉城(たまき)みたいになる。主人公の女性は夫も子どももいるのに、玉城から告白されてしまう。「うわーこれどうなるんじゃー」というべっとりとした展開のおぞましさ見たさに読んでいるわけだが。


 悠斗って存在は、花笑の実家に行ったときも、ソツのない、しかしそれでいて一生懸命でイヤミのない誠実な感じで対応するし、二人でいるときも明るすぎることもなく、暗すぎることもない、抑圧ゼロの、あまりに適正なコミュニケーションができる人間である。


 「そんな21いねーだろ!」というツッコミはぼくの心からは不思議と出てこない。


 リアルにしようという制御をこんなふうに外してみると、そういうツッコミをしようという気がなくなってしまうのだ。無抵抗。まるでぼくは、「こんな男のコが彼氏になってくれたらいいなー」という、花笑になったような気分で悠斗を眺めている。だから、2巻の終わりで何の妨害もなく、「溺れてしまいそう……」といいながら、それはもう幸せそうにセックスするシークエンスが、ぼくの中にするりと入ってくる。でもまあたぶんぼくの心の奥底では「非モテの女を操作して『溺れさせて』やるぜ」みたいな欲望をドライヴさせてこの作品を読んでいるだろうけどね。
 

 ぼくも30前後で結婚したんだけど、この年齢は現代の初婚の平均年齢ということもあり、「結婚」と「恋愛」がちょうど交代していく時期でもある。
 「結婚」をリアルのシンボルだとすれば、「恋愛」は理想とか妄想とかのシンボルということができ、この二つが奇妙な形で併存する人生時期だということができる。描き方が難しいといえば難しいけども、面白いということもできる。


関根くんの恋』において関根には興味が無いがサラにはある

 ところで最後に、『関根くんの恋』に戻る。
 この作品は「残念なイケメン」というやたらと堅牢な設定にしてしまっているので、関根のキャラクターが安定せずにブレたり矛盾したりするように見える。恋愛においては「不器用」なのかと思いきや、相手との距離感を測ることができたり、とかね。そういう設定の空隙がつれあいには気になって仕方がないのだろう。
 でも、ぼくにとってはそんなことはどうでもいいことなんだ。
 そんなブレは抑えつけて、放っといて読み進めればいいわけ。気にしない。3巻までを読んでみて、ぼく自身は関根の内面にはほとんど関心を示していないことが自分でもわかった。
 関根が恋心を抱いてしまうにいたる、手芸教室の如月サラが、関根にみせる表情や言動にぼくの気持ちが反応しているのに気づいた。
 関根が自分で編んでもってきたクマの人形(「コタロータ」)に

「……いい!
 すっごいコレ
 いいじゃないですか〜」
「あ じゃあコレ 関根さんオリジナル?
 なおさらいいじゃないですか
 あー
 私コレ震えるほど好きです」

と頬を紅潮させながら感動を吐露するシーンとか、関根のしぐさにドキドキしてしまうところとか、関根が二人っきりになろうとすると第三者がわさわさ集まってくるし、本人も関根の恋心にはあまり気づかず頓着がないところとか、そういうところでぼくの気持ちが動いているのだ。


 いくらマンガには複数のレヴェルの快楽があるとか、「誤読」の自由があるとか言ったって、「残念なイケメン」という巨大な設定がまったくぼくの心のなかで作動しないというのは、作品としていかがなものだろうか。ぼく自身が楽しんでるんだから、そんな野暮なことは言わなくていいかもしれないんだろうけどさ。