『資本論 まんがで読破』

 一読してなんだこれはと本をたたきつけたくなった。こんなものは『資本論』でも何でもない、ただのお話ではないか、と。

 

 


 『蟹工船』などで有名になったイースト・プレスの「まんがで読破」シリーズについに『資本論』が入ったと聞いて、発売されるやいなや買ってみたのだが、読むなり呆れたのである。

 しかし。

 しかし、もう一度冷静になって読み直してみると、どうもそうとだけはいえない、と思い直すようになった。現時点でのぼくのこの本への評価は、一言でいうなら「微妙」というものである。

 まず、この本の積極的な価値から考えてみよう。

 『資本論』のコミカライズとくれば、誰もが「学習漫画」形式の解説漫画を発想するところだ。ところがである。本書は全編これ物語なのだ。いわば「お話」によって『資本論』を理解させようという試みなのである。

 ある意味、これは画期的なことだ。

 ぼくも『資本論』を真にコミカライズするのであれば、先生と生徒にあたる人間が出てきて「言葉」で解説するようなものではなく、できるだけ「物語」にすべきだと考えていた。別段『資本論』だけでなく、解説漫画はそうあるべきだと思う。少なくとも先生と生徒という二人の話者がひたすら言葉だけをつむいで、結局漫画は「解説の挿絵」になってしまうことは避けたいと考えていた。結局それはコミカライズではなく、解説書を読むのと同じではないか、という考えからだ。
 しかし、どうしてもそれが避けられないものもある。あるいは、「先生と生徒」方式が絶対にダメなのではなく、やり方次第ではうまく解説できることもある。
 『資本論』の場合、ぼくはおそらく章やトピックごと(「価値」とか「貨幣」とか「絶対的剰余価値の生産」とか)に物語をつくって例示し、そこに「先生と生徒」が解説を加える、というやり方がベストではないかと考えている。しかし、これは膨大なページ数を擁するし、『資本論』の知識を生かしながら漫画を組み立てるには独特の能力が必要になる。まあ、当面は無理だろうというのがぼくの思いだった。

 ところが、イースト・プレスの『資本論』は、「先生と生徒」という対話による解説形式をとらずに、物語という形式をとった。しかも驚くべきことに、章やトピックごとに物語を作るのではなく、全体を180ページほどに凝縮したうえで、通貫する一つの物語として提示したのだ。

 出来不出来はともかくとして、これは驚嘆すべき事態だ。そこに挑んだ、というだけですでに歴史的な意味があるといってよい。
 本作は、父親とともにチーズ生産を小経営でおこなっていたロビンがダニエルという投資家=資本家と組むことで資本主義的経営へ乗り出す話だ。金をもうけるために労働者を無理に働かせたり、協業・分業を合理化したりする努力を重ねる。しかし、ロビンは労働力商品を搾取することに日々疑問を強くしていく……というストーリーである。
 こうしたストーリーに乗せて『資本論』第一部のエッセンスを挿入していく。ところどころの柱の部分に「使用価値」「抽象的人間労働」「貨幣の物神性」などといった「キーワード」がさしこまれている。それもほんとに簡単な1行なのだ。

 そう、「まんがで読破」というこのシリーズのコンセプトは、言い換えれば「どんなにアホでも読破してしまえる」ということなのだ。イースト・プレスの編集者・企画者に話を聞いたわけではないので、その心情を勝手に代弁することになるが「専門家の立場からみて、いかに正しい、いかに体系的で新しい理論的観点を盛り込んだとしても、読まれなければ、しかも読破されなければ、それは専門家のオナニーでしょ?」ということになる。じゃあちょっとレベルを落として平易にして……いやいやそんなことをやってもついてこれない人がいる。どんな人だって読破できなければいけない。それは多少不正確だろうが、結局『資本論』のエッセンスを十分に理解しなかろうが、読破させることがこのシリーズなのだ、と。

 そこまで開き直れば、このように物語にして、最低限のキーワードだけを挟み込むというやり方は実に画期的だといえる。

 そして、よく見ると、この漫画には『資本論』第一部の基本的論点が盛り込まれているのである。
 まず、物語にたいして、作者が意識的にもちこんだ学問的観点である「キーワード」は本文中に全部で7つある。「使用価値」「抽象的人間労働」「交換価値」「商品のメタモルフォーゼ」「剰余価値」「搾取」「貨幣の物神性」。
 この7つは作者の側が「物語の中で『資本論』の具体化として描いたつもりですよ」と宣言しているものである。

 たとえば、ロビンがダニエルに投資の話を持ちかけられた後、チーズ作りをしている父親のいる家に帰るシーンがある。そこにチーズを「買い」に老婆がやってくるが、代金を渡せず老婆の家でつくっているトマトを渡そうとする。ロビンは言いにくそうにお金で払ってほしいと言おうとするが、父親はそれを遮り〈奥さまのトマトは最高ですよ。手間暇をかけたのがわかります。料金はあるときで結構です〉とのべる。老婆が帰った後、父親はロビンにむかって〈ロビン、金が何でできているか知ってるか? 労働だよ 金は人の労働と手間暇からできてるんだ〉と教える。

 このシーンでは、最も素朴な労働価値説の基本点が教えられるとともに、お金も労働の対象化した商品の一つ、もしくは商品と互換可能な労働生産物の一つであるという貨幣論が展開されている。ある量のチーズと、別のある量のトマトは同じ「手間暇」をかけた労働生産物であり、交換が可能なものだ。しかし、人は一般的等価物である貨幣をほしがる、という問題が示されている。

 ロビンが工場経営をまかされ、その工程をどう合理化して品質とコストと効率をあげるか悩んでいるときに、ロビンは工場で働く子どもに出会う。ロビンがその子にどんな仕事をしているか、何をつくっているのかを聞くのだが、どちらも、

〈僕はこっちからきたものをガチャンってやって こっちに渡すものを作ってます!〉

とくり返すばかりだった。工場で働く子はロクな教育も受けてないからアホだという、ロビンの補佐役の人間が笑う。
 ロビンはサボってばかりで働かない労働者たちをどう規律正しく、精勤する労働者に仕立て上げるか、そしてそのためにどう作業工程を合理化するかに頭を悩ませている。
 このシークエンスには「キーワード」はないのだが、工程の単純化、児童労働の採用など、『資本論』でいえば相対的剰余価値の生産、分業・協業などにつながる問題が盛り込まれているのがわかる。

 物語のラスト付近でロビンは、ダニエルが溜め込んだ金塊を見せられる。その金塊を集めるために人間が支配し、悩まされ、殺し、裏切るという行為を犯していくことをダニエルに教えられる。そこに「キーワード」が配置されているように、そこでは「貨幣の物神性」を示したいらしい。
 ロビンは爾来「なんのために」という自問をくり返す。なんのために金を集めたかったのか、という問題だ。
 ここにあるのは、資本の生産の目的は、ぼくらの何らかの欲望を満たすためのものではなく、G—G’、つまり貨幣をより多くの貨幣にかえるという「価値の自己増殖」であることが示されている。

 そして、ラスト付近には、労働者は効率化で激しい労働強化に追い込まれ、それによって利潤がますますあがっていき、一方での富の蓄積と、他方での貧困の蓄積という、資本主義的生産の蓄積法則が示されている。

 交換価値と使用価値に始まり、資本主義的生産の蓄積法則まで——おお、実は『資本論」第一部の柱を物語の中にすっかりとりこんでいるのではないか! 〈このまんがは原書『資本論』の主に第一巻をベースにして物語化しています〉と編集部があとがきに書いているとおりなのだ。
 まとめてみると、

 


……いまぼくがかなり強引にこじつけたもののあるが、本書はこれだけの論点を網羅しているのである! これは『資本論』第一部の骨格そのものだ。

 とにかくどんな水準の読者であっても必ず読破させるために、いっさいの難解な概念を本編から排除し、だれでも読み通せる「物語」(そこには恋愛感情とか幼なじみといった「小芝居」ももりこんで!)にかえること、そしてそこには『資本論』(第一部)の基本的な概念を盛り込むこと——本書はこの要請を満たしているのである。
 この戦略そのもの、そしてそこに挑んだことは、ぼくは壮挙ではないかと思う。評価を考え直さざるをえない理由はこれだった。

 しかし、そうであってもなお手放しで肯定的な評価をできないのには、二つの理由がある。

 一つは、個々の命題の「解説」だ。

 エンゲルスマルクスの経済学説を解説して、その核心を剰余価値学説の成立、すなわち搾取の秘密の暴露に見た。〈この問題を解決したことが、マルクスの著作の最も画期的な功績である。……科学的社会主義は、この解決とともに始まり、この解決を中心として成立している〉(エンゲルス『反デューリング論』国民文庫版、下p.386〜387)。剰余価値(もうけ)は等価交換のルールをやぶらずにどうやって生まれるか、つまりなぜ資本家は労働者を搾取できるか、という命題は第一部において決定的ともいえる重要な命題である。

 本書ではどのように解説されているかというと、「キーワード」が配置され、そこでは、〈剰余価値……労働力の価値(賃金)を越えて生産する価値〉という定義づけがなされている。これは簡潔に本質を伝えている。
 しかし、その横に配置されている物語では、ダニエルがロビンに「錬金術」を指南するとしてこういう説明をしている。

〈我々は労働者から「労働力」という商品を買っていると… しかしこの商品は特殊だ 使い方によって価値が変動してしまう 商品が命を保つための最低額があるとはいえはっきりとした価値が定められていない そこで本来は金貨二枚分の商品を金貨一枚の契約で購入する 金貨一枚で金貨二枚分働いてもらうわけだ… すると… 我々は指一本動かすことなく金貨一枚を生み出せる〉

 これは「労働力を不当に買いたたくことでモウケが生まれる」という説明であり、「労働の価値」と「労働力の価値」を混同する典型である。労働力の価値と、その労働力が使われることで生み出される価値量との間には、量的に何の関係もない。
 労働力の価値は、労働力を再生産するために必要な衣食住商品の価値量によって規定されている。しかし、資本家がそれを使って途方もない価値量を作らせるか、それともホンの少しの価値量しか作らせないかは、労働力商品の購買者である資本家の権利である。馬がたべる馬草の量と、その馬がどれくらいの仕事をするかとは直接には関係がないのと同じだ。

 この「労働力と労働」を区別することによって、マルクスはそれまでの古典派の混乱から脱出でき、剰余価値学説を確立するにいたったとされている。それほどまでに重要な概念なのだが、ダニエルの説明は見事なまでに古典派の混乱を引き継いだものになってしまっている。
 労働力は不当安く買いたたかれなくても、つまりその価値どおり買われても、それでも搾取はなされている、というのがマルクスの説明なのだ(言い方をかえれば、どんなに高賃金であっても賃金分を超えて働かせる以上、必ずもうけが生じるのだ)。

 もっとも核心をなす命題の解説がこれでは、『資本論』解説書という看板が泣くというものである。

 そして、もう一つ、ぼくが本書を手放しで評価できない理由は、やはりこれで曲がりなりにも『資本論』を読んだということに果たしてなるのか、という疑問がぬぐえないからなのだ。

 たしかに『資本論』第一部の主要論点をカバーしている。
 しかし、物語で垂れ流しているだけでは、読者はただの「お金儲けを追求することで何かを見失ってしまう物語」としてだけ認識しないのではないか。
 いや、そんなことはない、と作者は言うかもしれない。「物語で垂れ流すだけでなく、登場人物の警句的なセリフで命題を意識させ(たとえば前述のロビンの父親が言った〈ロビン、金が何でできているか知ってるか? 労働だよ 金は人の労働と手間暇からできてるんだ〉というセリフ)、さらに『キーワード』によって補足している。そこにひっかかりができ、認識を深める結節点をつくることができる」などと(想像ですけど)。
 なるほどそれは一理ある。
 しかし、マルクスは自著を〈芸術的な全体をなす〉と評したことがあるように、それはロジックの堅牢な建物になっているのだ。それがまるでないのではないか。
 作者はまた反論するかもしれない。「いや、それはロジックというもので想定される範囲が狭い。この本は物語が一つの流れ、一つの連関を示しているのであって、それがロジックそのものなのだ。物語が論理なのだ。ほら、ヘーゲルは現実が論理的であると言っただろう?」(くり返しますが、この反論はぼくの想像ですよ)。

 口の減らない奴め。
 それでもどうもぼくは釈然としない。結果的にこれを読んだ後、『資本論』とはこういうものだという認識を漠然とでも読者が抱けるとは思えないのだ。
 またしても作者は反論する。「たとえば、あなたがおすすめしている嶋崇の『今こそ「資本論」』(朝日新書)という文字だけの解説書だって、それを読了したからといって、その人がただちに『「資本論」とはこれこれのことが書かれた本だ』などと要約できると思いますか? いや、『資本論』そのものを読んだ人の方がむしろまとまった印象を語れないんじゃないですか? あなたは第一部を読了した大学1年生のとき、そんなことを語れましたか? 雰囲気だけ味わっただけでしょう?」。

 うーん、なんだか想像上の反論を想定していくうちにうまく再反駁できなくなってしまった。でもこの本を読んで『資本論』を一部分でも読んだという気になれないという思いはどうしても残る。

 それはおそらく、たとえ解説書であっても『資本論』の内容にふれたとき、常識を覆してしまう爽快感があるんだけども、この本にはそれがない、とぼくは思うのだ。「常識を覆す爽快感」というのは、やはり搾取の秘密を暴露するところにその核心がある。
 等価交換という市場経済の約束を守りながら、搾取をおこなう、という、マルクスが『資本論』で〈手品は成功した〉と自分の発見を喜んでいるあの部分だ。
 本書を読んでもそういう感慨がわいてこない。
 日常の物語に添いすぎていて、読者は日常的な感覚を離れることがまったくないのだ。日常の感覚を科学的な視点から再把握させるところに社会科学書としての醍醐味があるのに、それが非常に薄い。だから、どうも釈然としないのだ。

 しかし、作者側はくり返しぼくにこう言って諭すだろう。
「そういう爽快感を得ることが社会科学書の解説本の役割だということは、どこでも合意になっていないことです。あなたの勝手な思い込みでしょ。それよりも、どんなレベルの読者にでも最後まで読み通させ、少しでも『資本論』の香りを嗅いでもらうことの方が大事ですよ。あなたの言っているのは自己満足にすぎません。あなたが爽快感を味わった解説書とやらは、いったいどれくらいの人が読破できたんですかね?」

 ああ……。どうも想像上の作者からの反論にはうまく反論しきれないなあ。