東村アキコ『ママはテンパリスト』 ――佐田静『いっとけ! 育児』にもふれて

東村「仕事の方が子育てより1000倍楽」

 最近、明らかにこのサイトの更新頻度が落ちている。
 仕事の内容が変わったこともあるが、それはどちらかというとささいなことで、子育てにエネルギーを吸い取られるからである。
 保育園に子どもを迎えにいくのはもっぱらぼくの仕事なので、5時には仕事を抜けて保育園に向う。今日の娘の様子を保育士さんにちょいと聞いてオムツを替えて、娘のヨチヨチ歩きにつきあって自転車に乗せるころにはすでに6時をこえている。そこから家に帰るまでに、娘を抱えながら晩ご飯の材料を買い、家につくと6時半とか7時になる。
 帰宅すると着替えるのだが、このとき、娘がぼくの部屋に入ってきて「はいっ! はいっ!」とぼくの座っている回転椅子にしがみつく。翻訳すると「You Tubeを見せろ」と要求しているのだが、そんなヒマは到底なく、その要求を無視して部屋を出ると、娘は前につっぷして大泣きする。
 娘が泣いている間、保育園の汚れ物を洗濯機にブチこみながら、汚れのものの数をホワイトボードに記入。ついで料理本などを見るも、超いい加減な料理をつくり始めるのだが、そのときも油断ならない。娘が絵本をとりだして「はいっ! はいっ! はいっ! はいっ!」とせがむ。ナベに火がかかっていると「ちょっと待ってね」などというのだが、そうするとギャン泣き。火を止めて膝に座らせて絵本を読み「はいっ、おしまい」というと次の本を持って来ようとする。際限がない。
 そのような1歳半の女児と格闘しながら、7時半とか8時前くらいにつれあいが帰ってきて、洗濯などの家事をやりつつ娘の面倒をみてくれる。実際にはそこからようやく本格的に料理ができるようになる。前の日に仕込んでおけばいいのだろうが、ズボラゆえにできない。メシさえ帰宅後に炊き始めるときもある。
 メシが済むと歯磨きなのだが、これもまた格闘である。大人のマネをして磨こうとするところまではいいのだが、ていねいに磨こうとして親が歯ブラシをとりあげるとこれまたイヤがるのだ。
 そしてフロに入れる。夫婦のいずれかが娘と一緒に入り、他方が受け取って寝かしつける。寝かしつけた場合が鬼門で、そのまま朝まで寝てしまうことが多い。
 娘が寝入るのは9時半ごろだ。10時頃にパソコンに向うことができても、書く内容が定まっておらず、しかも朝は7時起きなので夜更かしはできない。という具合である。これで保育園の文集委員の作業だの、メールの返信、依頼原稿の執筆などをしているとあっさり更新の時間は消えてしまう。

 休日はどうかというと、ぼくの場合土曜日は仕事に出かけ、その日の子どもの面倒はつれあいに押しつけている。だから、日曜日も子どもの面倒をつれあいにだけ押しつけているわけにはいかないのだ。
 1歳児というのは、0歳児とも違って、「たえず大人にかかわりを求める存在」なのだとつくづく感じた。朝7時に起床するやいなや、引き出しのものをあさり始め、親に「どうじょ」と渡す。ボールペンとか小さいポチ袋とか……。次に絵本を読めとせがむ。腹が減れば「まんま、まんま」と叫ぶ。動物の形をした積み木をもってきていちいち「じょう(象)」だの「ちった(チーター)」だの「くゎば(カバ)」だのと親に報告に来る。しかもちょっと目を離すと、コタツの上にのって、フィギュアスケートの真似をして転落し、大泣きしているのである。

 散歩に出れば出たで、すぐだっこをせがむので、腕が痛い。ベビーカーに乗せようとすると、最近はいやがって降りようとするので、持っていくと荷物になってしまう。人が多い公園だと、大きい子にハネとばされないように気をつけていないと大変である。
 「休日」というのは、こんな具合だ。なにが「休日」なものか。
 ぼくのやっている仕事というのは、いくらでも気をぬける瞬間がある。忙しいときであっても、それをどう時間配分するかは、自分でかなりコントロールすることができるのだ。仮に対人的な仕事であっても、大人なら「あ、ちょっと待って下さいね」といえばいい。
 しかし、1歳児はそうはいかない。低度の緊張がのぺーっと連続しており、ぼくのような人種はこれが1日続くとぐったりしてしまう。

 働く女性なら誰でもやっていることじゃないか、エラそうにグチるな、と言われるのを承知でグダグダ書いてみた。でも子育てって特に女性はやって当たり前としか評価されないから、専業主婦とか母子家庭の母親とかホントにツラいと思うわ。


 東村アキコ日経新聞(08年11月25日付夕刊)のインタビューに答えて、次のように言ったのは我が意を得たりというところだった。

▼……母親にとって子育ては喜び、と無条件に考える風潮には体験とともに反論する。
「赤ちゃんにきれいな服を着せ、ベビーカーで外出……などと美しく、楽しいシーンばかりを想像しがちだけれど、現実は違う。親は子の命を守るという役割を果たさなければならないのだから、きれいごとでは済まない。一時は食べ散らかした食事の片づけとおむつ換え、お風呂などで一日が終わっていたように思う。ギャグではないけれど、本当に子どもは王様で私はお付きの者か奴隷のよう。泣き叫んだら王様の欲しがっているものはなにかと、あれこれ考えなければならない」

 しかし、ぼくのような能無しとちがって、東村は週5〜6本の〆切を抱える多忙な漫画家である。しかも、エッセイを読むとダンナが育児にかかわる時間はきわめて少ない。にもかかわらず、東村は、

子育てに比べれば(仕事の方が)千倍は楽、というのが正直な感想だ

と述べるのである。「そうだそうだ!」などとぼくが言うのは東村の仕事の大変さからすれば恐縮至極なのでとても言えないのであるが。
 くわえて、東村の場合は、子育て以外のものへの向い方が、ぼくと真逆である。子育てにかかわって漫画を描くページが増えたというのである。

子どもの寝顔に励まされた、というわけではない。

 子育てに時間をとられることで、漫画を描く時間の貴重さや楽しさが再認識されたというのである。

だから、子どもが眠っているときや機嫌が良いときに、合間を縫って机に向うと、あー、漫画を描くことはこんなに楽しかったんだと、しみじみ思う。

 そんな東村の育児エッセイコミックだからこそ『ママはテンパリスト』というタイトルになるのだろう。

 

 

 しかし。

 一読してみて、普通にギャグ漫画として十分に完成されていると感じた。
 明らかに育児経験者以外が読んでも大笑いできる内容になっている。

 

佐田の『いっとけ! 育児』と比較する

 ちょっと他の育児エッセイコミックと比較してみたいんだが、たとえば佐田静『いっとけ! 育児』(集英社)。

 


 「金造」という男の子を妊娠してから、「金造」が3歳になるまでを4コマ漫画で描いている。
 妊娠から0歳児代を描くコミックは多いのだが、細かく0歳代の月齢を分けて載せているのと、1〜3歳というのをこれくらい細やかに描いているエッセイコミックは実はそれほど多くない。
 0歳のときには次の年齢(1歳や2歳)の様子など、少なくとも一人目は想像できないものである。ゆえに、そのときになってはじめて実感できるということが少なくない。
 『いっとけ! 育児』は、前述のとおり1歳代(他の年齢もだが)が細やかに、豊富なエピソードで描かれている。だから、「それってあるある」というシンプルな感動が実にたくさん味わえるのだ。

  • おもちゃの携帯電話には見向きもせず、大人の携帯を壊れる寸前まで愛玩する。
  • 「ライオン」を「ちくわ」といい、矯正しようとしても不可能。
  • 熱もないし、食べ物も熱くないのに、食事で大泣きしながら、しかし最後まで食べている。その真相は「口内炎」。
  • ペコペコとお願いできるようになり、その要求の様がとても人間らしく感じる。

 最近、娘がロタウィルス(ウィルス性腸炎の一つ。別名「仮性小児コレラ」)になって激しく嘔吐・下痢をした。そのとき、布団や服がどんどん汚れて替えがもうなくなってしまう危機に見舞われたのだが、これを経験したのが『いっとけ! 育児』を読んだ直後だった。
 『いっとけ! 育児』では、旅先の旅館で嘔吐・下痢を「金造」がくり返したために替えがなくなってしまうエピソードが出てくるのだが、読んだときは「ふーん」という程度だった。ところが、娘の下痢の後に読み返してみると、しみじみと共感できてしまうのである。
 遠くのコンビニにオムツを探しにいった父親、「金造」の世話をしていた母親、嘔吐と下痢をした「金造」本人——明け方に親子3人がヘトヘトになっている、という描写が染み入るように伝わってくる。
 体験がわずかにズレていただけでこれほど違うのである。
 いわば『いっとけ! 育児』は、本当にその年齢を通過してきた育児経験者にとっては、描写が豊富なだけに、その量においてすでに強い共感をかちとる力をもっているといえる。逆に言えば、それ以外の層にはピクリとも訴求しないのではないかということなのだ。

 たとえば、『いっとけ! 育児』p.61の「やっと」というエピソード。
 1コマ目。「小さくてかわいい新生児」。頭の長い新生児のイラスト。2コマ目。「かわいいと感じるヒマもなく過ぎた日々」。円グラフで95%くらい「大変だ」になっていて、残り数%が「かわいい」になっている。新生児を抱いて死にそうなお母さん。3コマ目。「1年が経った今」。立っちの練習をしている金造とお母さん。4コマ目。「本当に心から思います わが子はかわいい!!」。母親に倒れ込む金造。
 オチもなにもない。
 これだけ見れば正真正銘の親バカ漫画である。
 しかし、これは子どもが1歳になったときの実感なのだ。
 ぼくのつれあいももっとも不機嫌だったのが新生児の2カ月のころで、今はコミュニケーション力も飛躍的に大きくなった上に、一挙手一投足が「プレ人間」っぽくって本当にかわいらしく映じる。東村アキコも2〜3歳と比べてこの時代(1歳前後)が「赤ンボ語でそれはもう可愛らしくおしゃべりしておったわけで」とのべつつ、2〜3歳児になると生意気このうえない状況になることを描いているとおりである。

 このように、『いっとけ! 育児』は、「漫画読み」の人々を想定したとき、育児経験者には強くアピールするものの、それ以外の層にはかすりもしない、という構造を持っている。育児エッセイコミックとしてはそれが正しいあり方だが。

 

キャラクターなのにリアリズムを離れない

 ところが、『ママはテンパリスト』は前述のとおり、「育児エッセイコミック」という枠を超えた「ギャグ漫画」として高い水準を持っている。
 子どもの一つひとつの仕草を、大人から見た「悪意」に変換してしまう、という手法はすでに大久保ヒロミ『あかちゃんのドレイ』(講談社)で確立されているのだが、『ママはテンパリスト』はそれを革命的に徹底している。
 たとえばこうである。
 東村の息子「ごっちゃん」は、3歳になろうとしている。東村が洗濯をしている間、『ドラ○もん』を見ていてね、と言われ、ごっちゃんは「ハイハ〜イ」などとお気楽な返事をする。
 ところがいつもとちがって、ずいぶん静かに見ている。
 変だなと思っているが、東村が洗濯が終わって覗きにいくと……。

 ミルクココアの袋を破って舐めているごっちゃん。
 東村がリビングに入ってごっちゃんの姿を見るまで3コマを使い、口のまわりをミルクココアだらけにしたごっちゃんを比較的大ゴマで描くのである。ごっちゃんを発見する東村の顔もほんの少しシリアスなドラマのような驚愕の表情で描かれていて、馬鹿馬鹿しさを盛り上げている。
 大あわてでごっちゃんを追及する東村。
 そして、〈ねぎっしゃん(アシスタントの根岸さん)くれたの〉と白々しい顔でウソをつくごっちゃん。
 ごっちゃんの小芝居に乗ってロジカルな追及をする東村も可笑しい。
 さらに、鏡を見せておのれの姿を焼き付けさせると、ごっちゃんがくずおれて大泣きするのである。それを「火サス」あたりのラストシーンのような安い感じで、「断崖に追い詰められて、号泣しながら刑事に殺人を自白する女優」みたいな調子にもう読んでいる方は笑いが止まらない。
 ちなみに、子どもというのは、本当に大仰に泣くので、見ているだけでも笑えて仕方がない。ぼくの娘も、「You Tube」を見せて数分で「もう終わり」といってPCを閉じてしまうと、芝居(というか学芸会)で俳優が泣くように、数歩歩いていってそこでバタンと倒れて、まさにこの本のごっちゃんのように大げさに泣き伏せるのである。

 このように、子育てのエピソードの中からかなりよく観察したものをとりあげながらも、それを徹底的にデフォルメして、ごっちゃんが「悪意」をもったキャラクターであるかのように仕上げている。

 『いっとけ! 育児』の金造は、かわいらしく、1つの巻を通して読むうちに何かしらの愛着は確かにわいてくる。しかしそれは虚構がつくりだすキャラクターとしての存在感ではない

 赤ん坊をキャラクターに仕上げてしまうと、往々にしてウソくさくなったり、もしくはキャラクターとしては存在感が出るようになっても、もはや育児のエッセイ的な要素=リアリズムは消えてしまうものであるが、ごっちゃんの場合は違う。
 キャラクターとしての存在感は十分に備わりながらも、育児エッセイとしてのリアリズムは決して消えていない。このミルクココアのエピソードに限らず、『テンパリスト』全編どこを読んでも育児のリアリズムに満ちている。
 たとえば、風呂場で買ってきたおもちゃには見向きもせずに、ゴミのようなコンビニの空き容器で長時間遊ぶごっちゃんの姿は、キャラクターとしての存在感を十全に発揮しながらも、何もかもが昨日のぼくの家で起きているようなことばかりなのである。

 さっき〈『いっとけ! 育児』は、「漫画読み」の人々を想定したとき、育児経験者には強くアピールするものの、それ以外の層にはかすりもしない〉とぼくは述べた。『ママはテンパリスト』は「漫画読み」であれば誰でも笑い転げることができるに違いない。そういう普遍的な構造を持っている。

 〈「漫画読み」の人々を想定したとき〉という留保をつけたのは、もう少し範囲を広げて、高齢者などをふくめた一般人を想定すると、果たして東村の漫画の面白さが届くのかは疑問である。ぼくの親や、ふだんぼくがつきあっている、漫画と言えばまず『のらくろ』が出てくるようなお年寄りたちに読ませるとすれば、いやいやそこまでいかなくても保育園でおつきあいしている親御さんたちの中であまり普段は漫画を読まないような人を想定してみると、ぼくは『ママはテンパリスト』よりも『いっとけ! 育児』のほうがたぶん楽しんでもらえると思っているのだが。