山口かこ・にしかわたく『母親やめてもいいですか』


 週刊アスキー2013年5月7-14日合併号に、「私のハマった3冊」を書いた。
【私のハマった3冊】母親の孤独と暴走が重い 今年一番衝撃を受けた1冊 【私のハマった3冊】母親の孤独と暴走が重い 今年一番衝撃を受けた1冊


 その記事で「今年一番衝撃を受けた1冊」と4月早々に書いてしまった、その作品が本作、山口かこ・にしかわたく『母親やめてもいいですか』(かもがわ出版)である。まあ、5月以降もっとすごいのに出会う可能性はあるんだけどね。現時点ではベスト。


母親やめてもいいですか サブタイトルに「娘が発達障害と診断されて…」とある通り、文章を書いた山口かこが、娘が発達障害と診断され、それをどう受けとめたのか、あるいは受けとめられなかったのかを描いたコミックエッセイだ。
 「受けとめられなかった」と書いたが、作者・山口は、発達障害という診断におびえ、ストレスをためこみ、医者や施設を渡り歩き、ついにその重みに耐えかねて「不倫」をし、家庭をこわして、娘とも離ればなれになってしまうのである。

発達障害とは何か

 発達障害とは何か。
 ある意味ではまさにそれをこの本1冊を使って説明しているともいえるのだが、とりあえず、山口が娘を「診断された」そのときの医者のセリフを使って簡単に説明しておこう。


広汎性――発達障害ですね
「社会的な対人関係を築くのが難しい」
「コミュニケーションがとりづらい」
「興味の幅が狭くこだわりが強い」
…という3つの特性があらわれています
このあと知能検査と脳波検査を受けてもらいますが…
おそらく知的な遅れはないでしょう

 山口は、娘が将来自立できるのか尋ねる。医者の答えは、こうだった。

自立している人もいますけど
一生を通して「変わった人」という雰囲気は変わりません

発達障害はこんな人ばかりだと思ってほしくない」

 発達障害を描いたコミックエッセイには、たとえば、沖田×華『毎日やらかしてます アスペルガーで、漫画家で』(ぶんか社)や、野波ツナ『旦那(アキラ)さんはアスペルガー』(コスミック出版)などがある。

毎日やらかしてます。アスペルガーで、漫画家で 『毎日やらかしてます』のAmazonカスタマーズレビューをみると、低評価のレビューには特徴がある。

アスペルガーがこんな人ばかりだと思って欲しくないです。

障害だから〜、よくわかっていないから〜とは書いてますがここまで来るとその人本人の人格の問題だと思います。〔……〕この本を読んで、発達障害の女性はみんなこんな感じなんだ!と思う人が現れないことを望みます。

読んでいてそういう特徴があるのか、と納得がいくところと、「これは症状のせいなのだろうか?本人の性格や育ちとも関係するのでは?」と混乱してしまうところも多かったです。

 発達障害を個人の体験として論じたときに、そこにある歪みや偏りの大きさ、特殊性、はては障害とは関係のない事情がついてくることはやむを得ない。そういう特殊性をすべてひっくるめて、その人が成り立っているのだから。


 しかし、発達障害はセンシティブな話題である。
 露悪的な色付けをした作品に、「発達障害がこんな人ばかりと思われたら困る」と思う人がでるのも無理はない。


 そうした非難をあらかじめ避けようとすれば、医学的知見から外れないガイドブックのようなものを描きがちだ。「いやそんなことはない。戸部けいこ光とともに…』や逢坂みえこ『プロチチ』のような作品もあるではないか」*1という意見もあるだろう。
 この2作品がむろん「悪い」わけではなく、高く評価されてしかるべきであるが、それは科学的な正確さから外れないという前提にたったうえで、全体のトーンがポジティヴであり、正しいのである。


 発達障害と切り離せないその人の生き方の、悪さ、しみったれた程度、ダメさ、みじめさ、において描くことはできないのだろうか
 それなら、発達障害を本に冠するな。売りものにして歩くな。という批判もそれはそれで聞くべきものだろうが、発達障害であることが分ち難い人生の中心テーマであるなら、仕方ないではないか、とも思う。

カスタマーズレビューにおける賛否両論

 長い前置きになってしまったが、本書『母親やめてもいいですか』のAmazonカスタマーズレビューを見ると、低評価のものはなかなかむごい。

まず最初に述べておきたいんですがこれは「育児エッセイ」ではないです。
「生まれた子が発達障害だった事を言い訳に家庭を壊した女のエッセイ」です。
その辺は著者も自覚してるでしょうね。きっと。
そんな内容でも勿論いいと思いますけど、自業自得が多く含まれる不幸な身の上話を売り物にするのは個人的にムリです。


「子の発達障害に苦しむ母」への、実母や夫の無理解をさりげなく描いているけれど、家庭を壊した決定的な理由は著者の浮気です。
娘さんの障害とは、全く関係ないですよ。筋違いです。
”普通”の子供を持つ”普通”の家庭だって、夫と心がすれ違うことはあります。
「もし、たから(娘さん)が発達障害じゃなかったら、私たちはどんな夫婦になっていただろう?」
そんなこと言わないでください。
残酷で巧妙な論理のすり替えです。

こんなに読後感の悪い本はめったにないと思います。


成長の遅い子供が内容の対象なので、
子育て奮闘記になるのですが、
結局、筆者のエゴが苦しみを生み出している結果になり、
あげく、浮気したり、離婚したり、別れた旦那に子供を任せたり、
勝手すぎて、全然応援する気になりません。

 

はじめは無難な啓発本を目指したが……

 作者である山口は本書の「あとがき」で次のような事情を書いている。

発達障害関連のコミック企画がある」と、X氏より連絡をもらったのは、この日の数日前。
「いつか発達障害の人とご家族のために役立つ本を書きたい」と考えていた私にとっては、
飛び上がるほどうれしい知らせでした。
しかし、そのとき私がイメージしていたのは、ガイドブックやノウハウ本。
まさか「発達障害の子どもを持つ母親の体験コミックエッセイ」とは思っていなかったのです。


「……というわけで、私の体験談はこの本には相応しくないと思うんです。
できれば、他のお母さんを取材させていただき、明るくポジティブな体験談を……」


しかし、困惑する私をよそに、編集者さんとX氏は、なんだか盛り上がっています。
「だったら、ポジティブになれないお母さんのために書いてみたら?」


こうして自分の体験を書くことになったわけですが、
正直、自らの醜態をさらけ出すことに、まだ抵抗がありました。
そんな私の心を漫画家のにしかわさんは、見抜いたのでしょう。
最初の原作を読み、私に言いました。


「ありのままを書かなければ体験コミックエッセイじゃない。
いいことだけを書いていたら、それは『偽善の本』になってしまう」


偽善の本なんて、誰も読みたくない。
それなら、できるだけ事実に沿って正確に書き、
たとえ99人の人が読まなければ良かったと後悔しても、
1人のお母さんが何かを感じてくれるような本を目指そう――。

 本書には、この問題の権威である杉山登志郎のインタビューなどが載っているし、山口が娘の発達障害を認識するプロセスで得られていく知識の描写が、発達障害にたいする啓蒙の役割を果たしている。だから、この本がノウハウ本、ガイドブック本としての普遍的役割を果たしていないわけではないのだ。

前半は啓蒙書としての役割をきちんと果たしている

 だいたい、200ページちかくある本書のうち、半分の100ページくらいまでは、こうした啓発的内容といっていいだろう。「我が子の発達障害という現実を受けとめきれないお母さん」をかなりていねいに描けている。
 少しずつ「『普通の子』と違うのでは?」という違和感を抱くようになり、ある日インターネットで検索したことで、「触覚過敏」「感覚遊び」「自傷行為」などといったキーワードがすべて「広汎性発達障害」ということに結びつくことがわかる。
 その「気づき」は決して明るいものではなく、目の周りが暗くなって描かれているように、山口にとっては我が子の不安な将来を予想させる陰鬱な出来事として受けとめられたのである。
 とくに、「ちびまるこちゃんの丸尾くん」似の医者に出会い、療育の意義を説かれ、山口が啓示を受けたように目の前が開ける描写は、ここだけ見れば、発達障害を持った子どもとどう向き合うのかという簡単な指針を得た感覚を、読者は持てるはずだ(もちろんこれだけではないのだろうが)。
 娘が起こすパニックについての相談では、その「丸尾」似の先生はこう答える。


解決策としては主従関係を逆転させること
「大人のいうことをきいてほめられる」
というパターンをつくります


娘さんが絶対にできそうな指示を出して、
やってくれたらおおげさにほめる


これを繰り返します

 療育先でやっていることが、普通の保育園とあまりかわらないような気がして焦るばかりだった山口は、この先生の話を聞いているうちに、大事なことだったのだと思い直す。山口が目を輝かせながら、

めっちゃ理論的
かつ
具体的!!


名医に出会えたかも!!

wktkになっている様子は、前半の暗雲を吹き飛ばすかのようである。この「名医」に会ったあとに、山口母子は病院の作業療法を受けるようになる。「遊び」の体裁で施される療法をみていた女性の先生は、山口の娘・たからについて、山口に「頑張り屋さんですね」と高く評価する。広汎性発達障害の子どもが「重力不安」をもているので、何でもない高さを不安に感じるのに、たからはがんばってやりとげてしまうからだ。


 その言葉を聞いて、自分がしていた娘への「恐がり」という評価を、山口はあらためるのである。


 このように、スモールステップで進んでいく、発達障害の子どもの進歩に前向きに目を開かされる内容になっている。

山口が家庭崩壊にいたった理由のベース

 普通なら、この気づきによって「めでたしめでたし」……とまではいかなくても、発達障害とつきあっていく生活に見通しをつけて本を終わるところであろう。啓発のみを役割とした本であればそれでいいに違いない。
 ところが、本書はそうなっていない。それで終わるのは山口の体験の一部でしかないからだ。
 山口はその後不安をふくらませ、やがて我が子との心中まで考えるようになり、ネットにハマりこみ、やがて不倫、新興宗教、そして家庭崩壊へとすすんでいく。
 うむ。
 読んでいるぼくは、「丸尾」似の医者に出会って光が見えてきたところと、その後の家庭崩壊へのプロセスは、飛躍がある。明るい見通しをもったはずなのに、なぜ山口は家庭崩壊への道をすすんだのか。


 発達障害は「病気」ではないから、「治る」というものではない。努力や技術でパニックやトラブルは格段に減っていくけども、我が子の発達障害とはずっと向き合っていく他ないと山口は思い至る。
 そのことが山口の気持ちを再び重くさせてしまうのだ。


 ただ、そのことは大きな不安の背景をなしてはいるけども、決定打にはならない
 決定打は、「娘・たからが学校でいじめられ、深い傷を負わせないようにしたい」「将来自立できるようにさせたい」という、自分にかけた強いプレッシャーであった、とぼくは本書を読みながら感じた。マンガでは山口がネットサーフィンを続けながら、その不安と決意を増幅させていく様子が描かれている。
 もう一つは、娘のたからの「心」が見えなかったことである。
 動物園にやってきて「ぞうさんだよ ぞうさん!!」と山口が喜んで指差してみても、たからはまるで我関せず。「横目で見ながら回転」という、奇妙な行動をしているのだ。「ほら、ぞうさんおおきいね」「うん おっきい!!」という隣の母子のような会話がなぜできないのか。

たからはまるでひとりの世界にいるみたい

 「普通の子」のような親子の愛情のやりとりが見えずに、自分からの一方的なケアだけが注入されているように、山口には感じられていた。つまり子育てをする「甲斐」がない。だから、たからといっしょにいることは、疲労感を募らせるものでしかなく、たからが実家に引き取られている時間は心底ホッとしてしまう。そのことに罪悪感を抱くのである。

自己責任論の攻撃性

 文化社会学者の中西新太郎は、母親社会における「マイナス計算の眼鏡が私たちを苦しくする」として、次のように述べている。

 そういうなかでとにもかくにも子育てを続けていること、それだけでもたいしたことだと感じられてなりません。理想の子育てなど、特別に恵まれた状態でなければとうてい実現できない。でも、子どもとともに毎日生きている、それはすごいことと認めあう、感じあうことが大切ではないでしょうか。「どれだけしっかりやっているか」ではなく、「今日も無事でいっしょにいられる」ことを出発点に考えるということです。「どれだけ…」という出発点をおくと「できなかったこと」を数えるマイナス計算のサイクルにはまってしまいがちです。「いっしょにいるだけでOK」と考えられれば、テレビを観て親子で笑う一瞬があるだけでもプラス。プラスの目で子どもの毎日も家族の毎日もみてゆくことができるでしょう。〔……〕
 厄介なのは、「自分がこれだけ必死にがんばっているのに」という気持ちになっているときにこそ、マイナス点の目で周囲を見渡しがちだ、ということです。一生懸命やっていると思うから、そうできない、そうならない現実に「おかしい」といらだち、怒りがわいてきます。調子を合わせてくれない、いっしょに動いてくれない存在は目障りというだけではおさまらず、妨害しているようにさえ映ってしまいます。何事もなければ良いけれど、ちょっとした「事件」が起きたりすると、積もり積もったマイナス評価がいっぺんに爆発するということもあるのです。(中西「人が人のなかで生きてゆくこと」/「ちいさいなかま」2013年1月増刊号p.106-107)

 「しっかりやっている」は、「自己責任」という圧力を自己の中で変換して内面化させたものであり、それを攻撃性へと変えていく装置である。
 一般的な子育てにもこうした装置が作動しやすくなっているだけに、障害という分野では、うまくこの装置を解除するすべを身につけなければ(あるいは社会がそれを除去したり緩衝したりしなければ)、ほとんど凶器に等しい作用を及ぼすだろう。
 山口は「将来の我が子を自立させねば」という思いから、この装置を作動させ、蓄積された攻撃性を周囲ではなく、自分へとむけていってしまう。当時の山口にすれば「テレビを観て親子で笑う一瞬」さえもないのだ、と言いたいかもしれないが、「子どもとともに毎日生きている、それはすごいこと」という出発点からのプラスを見ることはできなかった。


 だから山口はダメだというのではなく、だから山口のその後の崩壊は、他人事とは思えないのである。ぼくは、この山口のケースを、自分とはまったくことなる、特殊な、ダメ親のケースとしては見ることはできなかった。
 ぼくは自分が娘の障害に苦しむという状況にはないので、その意味でのリアリティは確かに薄い。だけど、共通の光や影を見ることはできる。そのことは山口の本書での論理的な展開によって読者に気付きをもたらすように仕立てられている。


周囲はどうしていたのか?

 問題は、発達障害に限らず、親子や子育て一般をめぐってさえこういう圧力があるとすれば、「世の父親・母親はすべてそうなっているわけでもない。発達障害の子どもをもつ親もすべてそうなっているわけではない。だから、山口の堕落の責任は重い」という意見である。
 この問題を考える時に、山口の周囲はどうなっていたのだろう。
 主に登場するのは、夫、義母、実母、友人、医者である。
 特に夫の役割は大きい。本書の第7章は夫について特別にあてられている。
 山口は、夫を悪し様には書いていない。巻末に夫にむけて謝罪と感謝の手紙を載せているように、夫の役割を一定評価し、そしてむしろ自分のいたらなさの犠牲になった存在として描いているように見える。
 山口の夫への思いは、次のような論理構造をとっている。
 夫に対して、職業進路(音楽の道に進みたい)や家族設計(子どもをつくる)という点で、自分(山口)の夢(子どものいる家庭をもちたい)のためにそれらを犠牲にしてしまったので、育児で負担をこれ以上要求できない、というものだ。
 つまり、自分の負担を分かち合ったり、共有したりすることを、山口は「遠慮」していたというのである。

 ひとことでいって、山口は、一人で抱え込みすぎている。客観的にみて、山口の周囲にはかなり助けを求め、利用しうる資源が豊富に存在していた。しかし、それらの人を、うまく巻き込んでいく仕掛けをつくろうとした形跡はなく、助けを求められず自分で抱えてしまっている姿がうっすらと浮かんでくる。


 そして、恐ろしいことに、山口の持っている知性は、こうした「自己責任」の攻撃性を自分に向けていくために、逆に使われてしまっているという点だ。たとえばネットを徘徊して知識を漁ることは、不安を高めていくものにしかならなかった。あるいは、「友だちのことを気にしすぎ」という実母のアドバイスや実母の生き方に対しても、山口の知性は、それを否定的評価で塗り固めてしまうのに役立っているのだ。また、発達障害について学んだことも、「娘には『こだわり』しかなく、愛情がない」という娘理解を固定化させるのに貢献してしまっている。

 
 山口がネット徘徊→不倫→新興宗教→家庭崩壊への道をたどる様は、たとえば不倫相手にときめていく描写の細やかさなど、通り一遍ではなく、生々しい記録となっている。その実際に読んでみて確かめてほしい。確かめたくないかもしれないけど。
 この作品にはその点への批判が多いのだけども、そこで展開されているのは、すでに発達障害という狭い問題をこえて、「自己責任」の圧力を自分へと向けてしまい、助けを上手に求められず、家庭を崩壊させてしまうまでに至るという、時代の普遍的な病理そのものである。
 むしろ後半部分はこの普遍的テーマを、生々しく描き出している。だからこそ、ぼくはこの後半部分をもって、「今年一番の衝撃」と書いたのである。


にしかわたくの絵について

 絵についてもふれておきたい。
 山口の体験を絵に作り直しているのは、にしかわたくである。ぼくの本書へののめり込みは、山口の論理的とも言える体験整理がもちろん根底にはあるんだけども、やはりにしかわの絵の力によるところが少なくない。
法廷ライター まーこと裁判所へいこう! にしかわは『まーこと裁判所へ行こう!』などでもわかるとおり、やや皮肉めいたトーンを得意としているように思っていた。ところが本書ではそういうアイロニカルな感覚が薄い。びっくりするくらい(失礼)幅広い感情を搭載できるグラフィックのトーンなのだ。
 たとえば、作業療法をする先生の顔がものすごく誠実に描けていると思う。
 夫の顔も、本書における中立的、どちらかといえば誠実な感じを上手く出せている。
 主人公の顔も、独善や露悪に陥らず、そのときどきの正しさや間違いの役割を、正当に表現できている。
 そして、娘のたからが……ぼくの娘によく似たグラフィックなのである。まあ、それは特殊事情なんだけどさ。
 つれあいなんかは、そこが感情移入の最大のポイントになったみたい。ちなみに、つれあいはいつもそういうふうにまず読むようだが、「どうしたらこの主人公は悲劇をまぬかれたか」というポイントとして、「9歳ごろに他者を反映した心の形成が始まる」という「心の理論」を早くに知っていれば、山口の娘への向き合い方はもっと変わったのではないか、ということだった。


 全体に暗いトーンの話ではあるが、何度も読み返している。おすすめする。

*1:光とともに…』は自閉症を描いたものなので、分けて考えられるべきだという意見は念頭にある。