山名沢湖『つぶらら』

 「夕やけニャンニャン」が放送されていたときは、ぼくはテレビそのものを軽蔑し、ましてやそのような素人アイドル誕生的なバラエティなど地獄に堕ちろと思っていた時代だったので、まったく見ていなかった。「おニャン子クラブ」とか風紀を乱してけしからん的にみていたのである。『セーラー服を脱がさないで』とかもう許しがたかったわけですよ。そのくせセーラー服へのフェティッシュな関心を秘密裏に寄せていたにもかかわらず。

 だから、「夕やけニャンニャン」をみるために息せき切って帰る、などということにはまるで縁がなかった。

 しかし、「ローカルタレント」には強烈にハマった時代がある。
 愛知県が実家であったから、そりゃあもうCBC中部日本放送)のテレビとラジオに出てくる「ローカルタレント」にはかなり心を奪われたものである。

 まず、幼心に「天才クイズ」とか「どんぐり音楽会」でヤラれた。そもそもぼく自身が「天才クイズ」(男女各30人がクイズをクリアしてどれだけ残るかで勝敗を競う中京圏ローカルの番組)に出場し、2問目で出場者が全滅したために撮り直しになったのである。「どんぐり音楽会」(子どもが出場する点数型ののど自慢番組でこれも中京圏ローカル)にはクラスメイトが出場したりした。
 そこには、司会者として、中央から落ちぶれてここにたどりついた、高松しげおとか斎藤ゆう子とかマイク眞木が大きな顔をしていた。その人たちに憧れるとかそういうことはなかったが、やはり自分の幼少時代のなかではかなり大きな存在としてそれらの「ローカルタレント」はあった。

 そして、小学校高学年から中学校時代にかけては、ラジオですよ。
 いまの中高生はネットに時間を割くのであろうが、当時の中高生はラジオを聞きながら勉強するとか勉強しないとかいうのが圧倒的多数(当社調べ)。ぼくが聞いていたのは断然CBCラジオで「小堀勝啓のわ!Wide とにかく今夜がパラダイス」の虜になったものである。あるいは、つボイノリオ。「のりのりだあぽっぷん10分」などはもうアレだね、テープにとってくり返し聴き、翌朝クラスでキッチリと話題にしたものである。

 まあ、そんな80年代の中京圏ローカルタレントとローカル番組を山のように並べても全国の皆様&今の中京圏の若人には(゜Д゜) ハア? 状態だと思うので、ここらでやめるが、ローカルなタレントやローカルな番組の虜になる感覚というものを東京や関西の人はご理解いただけるだろうか。

 ぼくは、愛知を出た後、大学時代は部屋にテレビがない生活を送ったのでまったくテレビを見なかったのだが、その後は長く東京生活だったので、「ローカル」の感覚をテレビ画面から味わうことはほとんどなかった。

 ところが福岡に来て、テレビに「ローカルタレント」が出ているのを見るようになって久々にその感覚を思い出したのである。思うに、名古屋とか福岡とか札幌とか「東京や大阪には呑み込まれないほどの拠点」にこそローカル番組文化は花開く。これがもっと小さい県だと、東京・大阪の放送に呑み込まれてしまうか、独自の番組はあまりにちゃちくて人の心を奪うようなローカルタレント・番組が登場しえないのである。偏見ですか。

つぶらら (1) (アクションコミックス) さて、そんなしょうもない前置きのあとに、本作『つぶらら』である。

 本作の主人公・鈴置(すずおき)つぶらは、「富士岡県」の高校1年の女子であるが、友だちからは「クールビューティー」などと呼ばれて一目置かれている。ぼーっとしている本質が傍からみると「クール」に見え、間抜けさという本質は「不可解・不可思議さ」に見え、勝手に「ちょっとワイルドで不良」だと思われている。
 しかし、その実は、「キャラメル☆エンジェル」という、卒業システムを持つ5人のアイドルユニットの大ファンなのであった。彼女たちが出ている、夕方放送の「夕日に☆キャラメル」という番組を見たい一心のつぶら。そんなかわいいアイドルが大好きであるという素顔をなかなかさらせずに、ぎこちない友だちづきあいをするというそのスレちがいっぷりに本作の可笑しさの一つがある。

 ところが、そのつぶらが、まったくの偶然から地元ローカル番組のローカルタレント……というほどではないチョイ出の女子高生レポーターに抜擢され、全国的アイドルになる気まんまんの辻村つららとコンビを組まされるのである。それが「つぶらら」というコンビ名だ。本当にチョイ出で、地元の高校の部活紹介や野球チームなどをジャージを着ながらレポートする、といった地味さである。

 1巻においてはまだ辻村つららは登場せず、ローカル女子高生コンビ「つぶらら」さえも結成されない。
 なのに1巻をずいぶん面白く読んでしまったのは、上記に述べたような「スレちがい」が単純に可笑しかったからだ。
 1巻においてつぶらが「クールビューティー」などといわれているのは、別段クラスメイトに嫌われているわけではないけどもどことなく敬遠されているという人間関係の微妙な距離感のせいである。つぶらが唐突に「お金がほしい」と叫ぶと、友人たちがこれはひょっとしていま我々はカツアゲされている現場にいるのだろうか、ととぼけた調子でお金を出し合う、などといった光景に示されるように。
 その距離感は、高校入学後しばらくの間、クラスになかなかなじめずにぎこちなさが残っていた、何となくぼくの高校時代のはじめのころを思い出させた。
 1巻はその距離が解消されていくプロセスである。
 といっても、つぶら自身は特に何かそのために努力するわけではない。つぶらが努力するのは家で壊してしまったテレビデオを買い直すために必死でアルバイトをすることくらいなのだ(笑)。つぶらは人間関係に相変わらず戸惑ったままなのに、まわりの人間たちが絶大な勘違いをしながら、勝手に距離が埋まっていってしまうのである。
 「夕日に☆キャラメル」を見たいがために早く帰りたくてたまらないつぶらは、いつまでたっても体育祭の人選が決まらずだらだらと延びているHRに苛立ち、やみくもに次々立候補してそのHRを終わらせてしまう。そして気がつくとクラス応援の応援団長まで買って出ていた。
 クラスの人たちはそれをつぶらの「侠気」と勘違いするのだ。
 クラス応援歌が偶然にも「キャラメル☆エンジェル」の「無敵よ恋の応援団」という曲に決まったことも知らないつぶら。団長でありながらあまりに練習にこないつぶらに業を煮やしたクラスメイトたちが、つぶらの家に大挙しておしかけると、「キャラメル☆エンジェル」のビデオを熱心に見て、「無敵よ恋の応援団」をフリつきで踊っているつぶらを目撃してしまう。
 クールビューティの鈴置さんがここまで……とクラスメイトたちは勝手な勘違いをして、深く感動するのである。

 そして、その勘違いは修正されない。無修正のまま物語は暴走。体育祭の当日、雨が降ってしまう。せっかく練習したのにとがっかりするクラスメイトたちの横で「キャラメル☆エンジェル」を連日視聴できた楽しい日々を思い出し笑いしているつぶら。それを見たクラスメイトたちはまたしても勘違いをして、つぶらの「大きさ」を感じてしまうのである。
 そして、なぜか、雨の中、雨を止ませるためにつぶらとクラスメイトたちは「無敵よ恋の応援団」を踊り始めるのだった。
 そして見開きで、歌詞を大書して踊る彼女たちを描く!

 別につぶらは格別の努力をしたのでもないのに、そしてクラスメイトたちは勘違いしたままなのに、すっかり隔たりは消え、「雨の中をほぼ無意味に踊る」という熱狂的な一体感がなぜか1巻の巻末にはつくられているのである。
 読んでいるこっちは、なんだか愉快になってしまうのだ。
 「めでたしめでたし」とか言いたくなってしまう。
 本人の無努力と、偶然が重なって「めでたしめでたし」の結果になるという感じが「わらしべ長者」みたいだ。おとぎ話。
 
 これで終わるのかと思いきや、2巻で「つぶらら」というタイトルは、つぶらがローカル女子高生タレントとして偶然にもデビューする、そのコンビの名前であることが明らかになる。実はここからが本題だったのだ。

 2〜3巻は、「つぶらら」の地元タレントとしての地味な活動が重ねられていく。そして県内の夏の甲子園選抜で歌った応援歌がなぜかブレイクして県内全体で「つぶらら」ブームが起きていくのだ。
 このブームが県内というローカルな範囲にとどまり、県民たちがまるでクラスメイトや友人であるかのようにこの地元タレントに親しんでいく調子が、ぼくが体験した「おらがローカルタレント」的色彩が強く出ていて、印象深かった(「つぶらら」の歌をききながら踊っているおばあちゃんの小さいコマがとてもかわいかった)。

 全国ではなく、「富士岡県」(あきらかに静岡県を意識した県)内に限定してお祭り騒ぎになるというのは、基本は「おとぎ話」っぽいのに、どこかしらリアルなものとつながっている。「そうそう、ローカル番組やローカルタレントに慣れ親しむ感覚ってこういうのに似ている」と思いながら読んだ。

 ラストもふくめて、全体的に「おとぎ話」っぽかった。しかしそれは悪口じゃなくて、「おとぎ話」らしく、楽しい気持ちになれる感じの「おとぎ話」。
 作者が設定のすみずみや細部のリアルさにはまったく拘泥せずに、筆の暴走かと思えるほどに勢いで描いたようなリズムがいい効果を生んだ(いや、ひょっとしたら作者はものすごく苦しんで考え抜いてこの漫画を描いたのかもしれないけど、出来上がった作品はそうはとてもみえなかった)。それに加えて「ローカルタレント」というモチーフの選び方が、ぼくのなかでリアルなものと接続する回路になっていたのだろうと思った。