渡辺ペコ『キナコタイフーン』1巻

 なんかこの作品、ブログの評価が悪いなあ。
 もちろんホメているのもあるけども、概して悪い。

 

 

 この漫画は、「東京フィルムフェスティバル」という「ぴあフィルムフェスティバル」をもじったっぽい映画祭で21歳の女性・望月キナコが最優秀作品賞をとり、デビューまでスポンサーに全面支援されて映画を一本撮るがひどい出来で、そのあとキナコがAVの撮影現場に入っていくという物語である。

 冒頭に、この「新しい才能紹介」のために支援をうけてつくられる映画の製作現場シーンが入っているのだが、そこでのキナコの「芸術的こだわり」が読んでいてとてもイタい。思いどおりの映像がとれずにスタッフに無理難題を押しつけ、みるみる孤立していくその様子は、読んでいて実に可笑しい(ぼくにとってキホン的に他人事なので)。

「サンドイッチ イメージと違う
 やっぱりおにぎりにする
 コレ使わないところから撮る どかせて」
「イメージと違うって3回目ですよ 
 カントクさっきOK出したじゃないですか」
「出したけど
 やっぱちがうし」
「違う違うって作る度言われても困りますよ
 どうすればいいんですか」
「ん——
 あたしがつくる」

 ぶちきれる美術スタッフ。「あたしやめますこの現場」。
 自分の才能への過信、それに技量がともなわずに空転し続け、周囲に破滅的な迷惑がかかっているけども、それを気にしない。気にしないことが芸術的な固執と、自分に負けないことだと信じて歯をくいしばるという、逆方向への全力疾走がとてもよく描けている。

 AVの撮影現場に入っていったあとも、気持ち悪くなって吐いてしまったり、手際が悪い自分のことを「あー アタシ 監督しかやったことがないもんですから」と万年ADを前にして平然と言い訳する。


 倒れた監督のかわりにキナコが監督をつとめることになったときにみせる「こだわり」の暴走も、痛々しいばかりだ。
 出演者に無理無体な要求を汗だくになって迫るキナコ。「お前の表現欲なんかここじゃクソの価値もねえんだよ!!」と止めに入るADを「うるせえっ」と殴り倒す。

 「未熟だから愛らしい」とか「傍若無人な熱血ぶりが逆に好感」とかいうタイプじゃなくて、本気で無神経さや自分勝手さが目立ち、ぼくは可笑しかったのではあるが、ちょっとズラしてみると、マジで不快になる。
 そういうおさまりの悪さが、若さゆえの自己過信というものの、リアルなところじゃないかとぼくは思うのだが。

 作者の渡辺ペコは、主人公のキナコを徹頭徹尾、愛らしさやしおらしさを排除し、読者にとって癇に障る存在として描くつもりだろうか。

 どうもそうではない。
 たとえば1巻において、キナコはAV撮影の現場で吐いたあと、ビルの屋上で改悛する。

「そうか
 あたしが返したスタッフや
 出てっちゃった人たちは
 こういう気持ちだったんだ
 全然わからなかった
 知ろうとも思わなかった

 でも今はよくかわる
 みんながあたしから離れていった理由が」

 あるいは、1巻のラストでキナコの無茶を口実にヤクザにシメられたあと、キナコはADの笹路に質問する。映画をつくったときにいろんな思いが去来しても、無事に撮り終えられたらかかわったすべての人に感謝すべきだと人にいわれたが、「あたしはそんな風に思えたことないんです 笹路さんはどうですか?」と。

 こうした一連のシーンは、キナコが自分の未熟や粗暴、傲慢を乗り越えようとしていることをしめすものだ。だからこの漫画は傍若無人大魔王・望月キナコの不快さに眉をしかめたり、大笑いしたりするというのが作品の核心ではなく、キナコのビルドゥングスロマンであるはずである。すでに雑誌では連載が終わっているであろうから、そのあたりの結末は出ていると思うのだが。

 しかし、冒頭にのべたとおり、〈真剣さ故に過剰で、過剰さ故に空回りする人が、いつかしっくりしていくのを見ているのは嬉しく楽しいよな〉(gakka blog)〈応援したくなっちゃう〉(みんな教えてもらった)などという好評の反面で、ある種の読者には反感や失望を買っている。たとえばこうだ。


〈主人公(キナコ)が好きになれずに終わりました。 性格が最悪です。生意気だし、他人を思いやらないし、干されて当然って感じ。 本を買って後悔したのって、ほとんど初めて。 他の登場人物も、1冊目だからか、キャラが見えてこなくて、結局読み終わるまで、面白いと想いませんでした。 この話が、キナコが成長する話なら結末もなんとなく見えてくるし、2巻は買いません〉

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〈1巻を読み通してみたら、余り心に響きませんでした。主人公のキナコが、クリエイターとして青いとか社会人として若いとかのレベルではなく、「仕事をする人間として当たり前のところ」でコケちゃっているからだと思います。
 例えば、自分が司令塔になってモノを作るなら、自分が抱えているスタッフを大切にするのは普通のことです。
 例えば、商業主義でモノ作るなら、スケジュール倒しちゃいけないことも、自分の「好き」だけで制作できないことも、当たり前のことです。
 例えば、会社という組織下でモノを作る以上、オエライさんの横やりが入ったり色々な人の意見に企画が翻弄されたりすることも、ママあることです。
 ……中略……やっぱり自分が司令塔で、お客さんからお金貰ってモノを作る以上は、そういう自分の「表現することに対するヘンな凝り」って、何らかの形で折り合いをつけていかなければいけないと思うのです。会社とか観客に媚びるため、ではなくて、自分自身がきちんとプロの仕事をしてゆくために、です。「良い仕事」に近づくためならいくらでも凝っていいですけれど、「良い仕事」に繋がらないところで凝るのはただの自己満足でしょう(……と新人時代に先輩に叱られて反省したんですけどね、あたくし……)。〉

「流す」タイプもプロだと思うけど あたしはそういうタイプじゃないもんで プロってね いろんな形があるんだよ - きょうのひとことば
http://d.hatena.ne.jp/jami37/20080919/p1

 自分がキナコと仕事をするところを生々しく想像しすぎるきらいがあって、そういう人には総スカンをくっている感じだ。
 だけどそれって、リアリティがある、ってことじゃないんだろうか。
 予定調和的な不快さや未熟さであれば、こういう反応は引き出せなかったはずである。
 ぼくはキナコをみてそのイタい暴走ぶりに笑ったと書いたけども、やっぱり自分がいまキナコと仕事をすることを考えればいやな気持ちになる。
 しかしさらにふりかえって前述のブロガーがやっているように自分の仕事のしはじめとか、学生時代とか考えてみると、ぼく自身は「田舎の優等生」だったから何事も自分ひとりで何かができた/何かができなかった、と思い込みがちな人間だった。「自己責任」論人間みたいな感じだったわけだけど、どうも世の中そうじゃないんじゃないかと思ったのは、もう左翼を10年くらいやった後、結婚するまぎわくらいになってのことだった。

 そう考えると、やっぱりキナコの未熟さには自分に似たものを見て、恥ずかしさと愛おしさがこみあげてくる。
 まだ1巻以後を読んでいないので評価は定められないけど、1巻を読む限りでは、いい作品だと思うんだけどなあ。