逢坂みえこ『育児なし日記vs育児され日記』

 ぼくの娘はすでに立って歩くようになり、言葉も「マンマ」だけでなく「ばーば(祖母的な意味とバナナを指すときとがある)」「わんわん(犬だけでなく毛深いもの全般)」「こっこ(ニワトリ的な鳥)」「かぅわ(川)」「てってったー(行っちゃった。状況が終了したような場合)」「いやー(拒否)」「はいっ(返事ではなく要求)」「じぃじ(写真で祖父を指す時に使うのみ)」「にゃーにゃー(かなり的確にネコ)」「ぎゅーでゅー(非常に的確に牛乳)」「ずーずー(的確に象)」「ないない(片付け、もしくはモノを入れること)」など増えてきた。言葉にならなくても初歩的な言語コミュニケーションができるようになり、絵本でニンジンなどを見ると台所にいってニンジンのあるところを指したりする。

 「もう赤ちゃんじゃないね」とつれあいがしみじみと言うように、二足歩行を始め、言語の世界に足を踏み入れたのだから乳児期は終わり、幼児期に入ったのだと勝手にぼくは考えている。

 「もう赤ちゃんじゃないね」と言うわれわれ夫婦は、スーパーで「赤ちゃん(乳児)」を見るともうずいぶん小さいと思うようになった。つい最近までは自分の娘との比較をしていたものだったが、今では「昔、娘もあんなふうだった」的まなざしで見ているのである。
 つまり、「乳児育児期」をいくぶん客観的に見られるようになってきた余裕が出てきている。

 とくに乳児期に悩んだことや不安というものを、のどもとすぎれば何とかという具合に、涼しい顔をして考えていられるのである。

 

 

 さてそこで逢坂みえこの本書『育児なし日記vs育児され日記』である。逢坂を知らない人のために言っておけば、多くは女性誌にずっと描いてきた漫画家で、『ベル・エポック』『永遠の野原』『火消し屋小町』などが有名、現在落語家とその娘を描いた『たまちゃんハウス』を描いている40代女性だ。

 タイトルからわかるとおり、逢坂の育児エッセイコミックなのだが、「ひよこクラブ」に連載されていたこともあって、ぼくからみると少量であるが啓蒙的色彩がある作品である。
 つまり、「いろいろな育児の悩みや不安をどうやって乗り越えてきたか」という角度に重点があるような気がするのだ(もちろんそればかりではない)。育児エッセイコミックというのは経験を描いて読者と共有することで多かれ少なかれそういう効能があるだろう、というツッコミもあると思うが、最近の育児エッセイコミックは「わたし流いい加減子育て」的なものが増えていて(別に悪いと言うつもりはない)、面白いエピソードを並べることに主眼があるとぼくは感じている。本書(の「育児なし日記」=母親視点部分)はもっと目的意識的に乳児期の悩みや不安に応えようとしているのだと思う。

 どれでもいいのだが、たとえば「vol.11 保育所のおともだち」というエピソードは、「自慢じゃありませんが 私は友だち少ないです」から始まる。

「超人見知りのくせに
 我が強く協調性がナイ
 集団行動には最も不向きな性格です」

とつづき、

「公園ではもちろん
 既成グループには入ろうともせず
 母親に輪をかけて内気な息子と
 2人ちんまり遊んでいました」

ああ、これはある、とぼくは思った。ぼくの場合、それがさらに「異性」であるということもふくめて普通の母親は警戒して寄って来ない。育休時代、公園などにいくとママさんグループがいくつもできていて、軽い疎外感を抱いたものだった。
 しかし、逢坂はそのなかでどうやったら「子育て友だち」ができていったかというと「保育所」なのである。超ビビった状態から始まって、仲良しグループ(派閥)も形成されることがなく自然に人間関係が形成されるという保育所の様子を逢坂はうまく説明していて、そのなかで気の合う人が見つかってプライベートなつきあいにもなっていったというのである。

 ぼくはまだ娘を入所させて1年もたっていないが、行事に参加したり、帰りにお互いの状況をかわしあっているうちに確かに次第次第にお互いの状況がわかっていく。そして今文集委員を務めているが、たしかにこういう濃厚な作業を経ると自然に挨拶を交わすようになるなあと思った。
 ただ、プライベートで遊びにいくほどには親密な関係な家族はおらず、保育園が終わるころまでにそんな人間関係ができているかどうかは未知数なのだが、いずれにせよ、「自然と壁が崩れていく」という感覚は非常によくわかるものであった。

 そして、「vol.2 夜泣き」。
 まあ「夜泣き」というか、夜何度も起きて授乳、というのが非常につらく、ストレスになるというのは必ず多くの育児エッセイに出てくるモチーフだが、逢坂夫妻は幼児虐待をする気持ちがわかる、壁にぺちゃっと! とか裏の山に放つ、とか、川に流すとか、「あぶないジョーク」を夫婦で言い合いながら夜夫婦で起きてシノいだ、などと描いてある。

 うちの場合、ぼくは寝ていた。
 これは女性が一番ハラがたつことらしく、つれあいはもちろん、母乳育児経験者の場合は必ず夫のこの態度にハラを立て、ずっと言われ続けるのだ。いやだってさ、夜中くらいミルクにしようかと申し出ても「母乳でやる!」といったのはあんたじゃん。母乳でやる以上、おれが起きて二人とも疲労しても意味ねーだろ? 横で「フレーフレー」とか言ってほしいの? とか言ったら激怒していた。

 逢坂の結論は「明けない夜はない」ということ。つまり一生泣いているやつはいないということなのだ。ラストのコマに「ひとごとだと思ってー」とうらみがましくその声を聞く逢坂の友人の顔が描いてある。
 しかし、本当にそう言うしかない。
 終わってみての「他人事」なのかもしれないが、その期間中、特効薬というものがないのだ。夫婦であぶないジョークなどいいながら乗り切れというのが逢坂なりの「対処法」だったのかもしれない。
 今でも保育園にいくと、他の子たちの夜の様子が書いてある紙を見る機会がある。そうすると、みんなもう1歳前後になっているのだが、いまだに夜中に何度も授乳に起きている人がいたりして「うわーこれは大変だわ」と思わざるをえない。そういう人に「明けない夜はありませんよ」と言葉をかけるのは、やはり「他人事」っぽいからやれないけどね。

 ちなみに逢坂はあまりのストレスのために母乳が一時止まったそうであるが、夜中にミルクをつくる艱難辛苦を友人から聞かされて、必死で母乳を戻す努力をして戻ったそうである。
 しかしみなさん。
 最近は、いいモノがあるんですよ。これが。
TIGER マイコン電動ポット急速湯冷ましタイプ> ホワイト 2.0L PDL-G200W  実はつれあいの妹さんからお祝いに贈られた「調乳ポット」。我が家ではこれがものすごい威力を発揮したのだった。ミルクをつくるには、いったんお湯を沸騰させ、それをさまして使うという超めんどうな作業があり、夜中にこれをやることのクソ面倒さといったらないのである。真冬にこんなことやっていられないと思うのは無理もない。
 しかし調乳ポットはこの作業を勝手にやってくれて、しかも一晩中適温(ぼくの場合は60度だったが、現在では70度が推奨されているらしい)にしていてくれるのである。もちろん、ミルクをまぜるのはやらなきゃいけないが、寒い台所で湯冷ましをつくる、という作業がないので、もう本当に大助かりなのだ。
 まあ調乳ポット自身は最近のものでもないんだが、いまだにこの文明の利器をしらない人もいて、しなくてよい苦労をしている人も多い。強くおすすめする。

 さて、逢坂の作品に戻るが、惜しむらくは母親の目線で描いた「育児なし日記」と、子どもの目線を想像して描いた「育児され日記」が本の前半と後半に分離されてしまっていることだ。これは編集における重大な失敗ではないかとぼくは思う。

 実は、逢坂の本書を本屋で手にとってパラパラとめくったとき「つまらない」と感じたのである。それは後半の、子どもの目線を想像して描いた「育児され日記」の部分を読んだからなのだ。

 一つは、まずこれだけ独立させても、それほど面白味がない。大久保ヒロミの『あかちゃんのドレイ』のような「女王様目線」よりもパンチが弱い、という程度になってしまっていて、これだけが続くのかと思うとうんざりするのである。
 もう一つは、この後半部分「育児され日記」の多くは、母親の目線で描いた前半の「育児なし日記」の各部分に対応したエピソードになっていて、母親の目線でやっていることが子どもからみるとひょっとしてこんなことになっていたりして! という楽しさがあるのだが、それをセットにせずに、前半と後半でまとめてしまったために、その読みの楽しさがほとんど失われてしまっている。
 たとえば、離乳食を子どもが食べないという話(vol.6)。栄養士おすすめのメニューはどうやっても食べず、大人がおいしいと思うものを食べる、とか、おかゆやみそ汁単体では食べないが、混ぜると完食してしまう、とかいうエピソードが載っている。
 これは後半に「vol.35 食ったぜ」という赤ちゃん目線でのエピソードと対応しており、逢坂が自分勝手な都合から赤ちゃんに大量のまずい離乳食を押しつける様子が描けているのだが、もしvol.6のあとにすぐこのvol.35を置いたら、面白さが倍増したであろうに、と残念でならない。

 対応していないものもあるので、こういう編集にしてしまったのだろうが、まことに悔やまれる。