戸田誠二『美咲ヶ丘ite』1巻

※ネタバレがありますが、まあ、あまり支障がないのでは。

 

 歌手になる夢を追う20代の女性の話、なんていうのは、ふるえあがるほどに手あかがつきそうなモチーフだ。まあ、長編ならいい。いくらでも加工のしようがあるだろう。一条ゆかり『プライド』だってある意味そうなんだし。
 しかし短編となると本当に難しい。吉住渉の比喩でいえば「ジャガイモとニンジン」というありふれた素材にくわえて、料理時間も限られているようなものだ。

 

 

 『美咲ヶ丘ite』1巻に収録された短編「スター!」はこの難しさをクリアした佳作である。

 主人公のクミは小さい頃から歌がうまい。そしてそのことに自信と誇りをもってきた。高校を卒業するや、プロダクションのオーディションに一発で合格。意気揚々と上京する。

 プロダクションの担当者も優しくて理解がある。レッスンも厳しさの中にあたたかさがあるコーチに恵まれる。アイドルではなく歌手になりたいと鼻っ柱の強いところをみせるクミ。その傲慢さも読んでいて決して不快ではなく、若さゆえの特権と、クミの担当者同様、微笑して許容したくなる。

 しかし、クミはレコード会社のオーディションを落ち続ける。
 ヘタクソ、というわけではないのだ。

「すごくうまいんだけどさー、
 なんかこう引っかかるものがないんだよねー。」

「キミはほっといてもそのうち出てきそうだから、
 もうちょとそのまんまやってみてよ。」

 ぼくがオーディション番組「歌スタ!!」をみてるときによく聴くセリフなので、これは体よくダメだしされているだけなのかとも思ってしまうが、この作品のなかではおそらく言葉どおりの評価なのだろう。
 クミはうまいのだ。
 しかし、うまいだけなのであろう。

 クミが安アパートで洗濯物を干しながらテレビをみると、すでにデビューした人が歌っている。その画面を横目で、しかし目が離せない様子で見つめるクミ。

(…別にうまいとは思わない。)
(…でもこの人にはデビューに値する何かがあったんだな、
 私にはない何かが…)

 画面を見つめ続けることに耐えきれず、スイッチを切ってしまうクミ。
 ぼくは田舎の中学ではいつも成績は一番か二番だった。それでいい気になって近くの中規模都市にある進学校に行ったら、たちまちその自信は根拠のないものだと思い知らされた。高校最初の「実力テスト」は忘れもしない「186位」。自分が井の中の蛙であると知った。秋葉原で連続殺人をおこした加藤智大も高校に進学したさいにそうした挫折を味わっていて、その報道を聴いたとき、ぼくは「あ」と思ったものである。
 クミの場合は、似ているが少し違う。
 ぼくのように「根拠の無い自信」ではない。歌がある程度うまい、という確実な基礎がある。しかしそれは東京=全国では通用しないレベルではないのか、ということを、好環境にもかかわらずオーディションを落ち続けるなかでじわじわと思い知らされていく。
 自分はうまいはずだという現実的な根拠をもちながら、それでも自信の根拠を次第に掘り崩されていく気持ちとは、想像するだにやりきれないものがある。

 前にも書いたが、ぼくも就職試験を落ちまくったことがある。それは全部マスコミだ。今はどうなっているかしらないが、当時は就職協定があって、事実上青田買いのセミナーに行って数次にわたる面接をクリアするシステムだった。筆記を通り、面接をクリアするたびに、家に帰ると留守電がチカチカしている。それは「次の面接がある」という証拠なのだった。
 逆に留守電が何も入っていない、すなわちランプが明滅していないと、心の底から落ち込んだ。それが何社も続けば、自分自身の価値を否定されたような錯覚にとらわれる。
 当時のマスコミの青田買い試験は、建前として就職試験ではなくセミナーであるので、連絡がなければ終りだった。「不採用」とか「今回はご縁がありませんでした」という通知はこない。
 これをもらったら、もっとショックは大きいだろう。
 あからさまにお前に価値は無い、と言われているように感じるからだ。

 クミにははっきりとオーデョション「不合格」の通知がくる。そのたびに自分の中にある自信が「べりっ」と音をたてて剥ぎ取られていくのだろうと想像することはそう難しいことではない。

 そして決定的な瞬間。
 クミが「私が認める数少ない人の一人」だなどとこれまた傲慢なモノ言いで憧れを表現したアーティスト・リョーコのナマの演奏を間近で聴かせてもらう機会を得る。クミのトレーナーはリョーコも手がけていたのだ。

 クミの前に現れたリョーコはトレーナーにあいさつした。クミはその瞬間、

(…わぁ。
 やっぱり何か存在感っていうか迫力あるなあ。
 テレビで観るより厳しい顔に見える。
 これが歌で食べてる人の顔か…)

 上京当時、ただの「憧れ」をいだいていただけだった対象=リョーコにたいし、クミは今やまったく別のものを感じ取っていた。歌の表面的な巧拙だけを見るのではなく、その歌手が持つ雰囲気や存在感まで嗅ぎ取ってしまうのだった。それはクミが苦労を重ねた結果、自然に身につけてしまったものなのだろうと推察できる。
 すでに圧倒されるクミを見越したかのように、トレーナーは演奏直前にクミにささやく。

「歌うともっとすごいわよ。」

 やがて演奏と歌が始まる。
 作者の戸田はリョーコの演奏とそれを聴くクミのコマを完全な無音で描く。何かがそこで炸裂したかのような閃光をあびる、というグラフィックでその衝撃を表す。
 やがて下をむいて震え出すクミ。

(…これを、
 …これを「歌」というなら、
 私に歌なんか歌えるんだろうか。)

 漫画で音楽をどのように描くかということにさまざまな技法がある、と前にのべたけども、これも一つの描き方であった。
 音楽を聴いた主人公がうける衝撃を、それまでのストーリーの展開をうけて、主人公の自信が壊滅的に剥ぎ取られていくその様を描くことでリョーコの音楽の存在感を十二分に伝えている。こういう描き方もあるのか、と思いながら読んだ。
 リョーコの歌は、同じ世界の土俵にあがってきて苦労を重ねてきたクミにとって、もはや単純な「憧れ」などではなく、自分を吹き飛ばしてしまうほどの煌めきをもつ圧倒的存在として映るようになっていた。

 自信を失ったクミは進退を考えるために「長めの帰省」をする。
 クミは自分の上京を心の底から喜んでくれた旧友のマリが所帯をもち、幸せそうに暮らしている姿を目の当たりにする。マリとクミは夜中に連れ立って星の見える野原に行く。田舎らしく、そこでは満天の星が見える。
 東京では星が見えないのだ、とクミはつぶやく。

「小さい星じゃ
 東京では見えないよ。
 …強く大きく、
 強く大きく輝く星じゃないと…
 東京では…」

 そのセリフに重なるように、大勢の聴衆の喝采をあびて爆発するように歌うリョーコの姿がページいっぱいを使って描かれる。リョーコに浴びせられたライトが、爆発を起こして輝く超新星のように明るく、大きく感じられる。

 不意にクミはマリに背中をむけて体をふるわせる。

「…クミちゃん?」
「…なんでもない なんでもないよ…」
「…つらいの 東京?」
「つらくない つらくないよ…
 お願い なんにも言わないで…」

 戸田はこのときのクミの顔を描かない。小さくふるえて向こうをむいているクミだけがぼくらからは見える。そして田舎では見える満天の星がページいっぱいに描かれるのだ。

 戸田という漫画家はアフォリズム的な作風を出そうとするあまり、話がきれいにまとまりすぎたり、クサかったりするきらいがある。この話もこうして絵をみせずにストーリーだけを追ってみればそう感じる人がいるかもしれない。
 しかし、ぼくはここでちょっと泣いた。
 ふるさとにもどり、安心できる旧友のもとに来た途端に、すべての自信を剥ぎ取られてみじめな姿をさらしている自分を、あるあたたかさのなかで思い知る瞬間がとてもよく描けている。星のメタファーは決して気取ったものではなく、田舎という場所にいったときにひきおこされる「心の解放」感を知っているぼくにとっては、すんなりと受け入れられた。同じ境遇なら、ぼくもクミのようにそこで泣いたに違いない。

 このシークエンスのあと、クミが再び上京し、粘り強くレッスンと、小さなライヴを東京でくり返していく様子が描かれ、ラストへと向っていく。

 結局クミは強かったのだろうか、と読み終えて考えてみる。今のまま歌手になることをあきらめるのでは「納得できない」と再上京するクミの姿を見れば、そう考えるのも自然な気がする。
 しかし、この作品が「クミの強さ」といったような乾いた調子を帯びないのは、クミをとりまく、トレーナー、プロダクション、親、旧友、そして少数のファンたちの存在があったからこそだと思った。
 たしかに直接的には、クミは誰かに励まされたりして再起したのではない。クミは一人で立ち直っている。しかし、クミをとりまくこれらの「溜め」がなければ、クミは再起できなかったであろう、ということをぼくらは自然に感じ取るだろう。

 クミが自立するためには、依存すべき人たちが必要だったというすばらしい弁証法が、この作品にはある。