杉本亜未『ファンタジウム』

 「主人公に弱点をもたせると個性が出る」というキャラクター作りのイロハがある。才能を輝かせる主人公を描くとき、その秀才・天才ぶりを描くだけでは平板になってしまうので、弱点を何か加味することで途端に愛らしい、共感がもてる存在になる、というわけだ。
 斬鉄剣は万物を斬ることができるが、コンニャクだけは斬れない、みたいな(笑)。

ファンタジウム 1 (1) (モーニングKC) 本作の主人公、長見良は北條龍五郎という老マジシャンから薫陶をうけたマジックの天才であるが、難読症(発達性ディスレクシア)という障害をもつ少年だ。難読症は知的能力そのものには何ら問題はないのに、字を書くことや読むことのみができないという障害である。
 しかし、難読症は主人公にとって弱点という程度の「トッピング」ではない。

 南信長がこの作品について「カバーのイメージからして“天才少年が大人たちを相手にマジック勝負!”みたいなものを想像していたら、まるで違った」(朝日新聞07年7月1日付)と書いていたように、このテの作品を描くなら、「天才少年が大人たちを相手にマジック勝負」的基調にしたうえで、1回ごとの読み切りにして、毎回マジックの解説ウンチクをくわえ、主人公になんらかの「弱点」を加味して愛らしいキャラクターもつけました! というやり方があるだろう。そういう漫画は商業的には堅実な設定といえて、そこそこに読まれそうな気もするし、そういうタイプの漫画は漫画で面白いものもある。

 だが、本作はこの路線を採らない。
 
 主人公の良にとって難読症は、主人公における「陰」をつくりだす上での「道具」のように、作品上かんたんに通り過ぎていく設定の一つではない。マジックと同じくらい、いや実はマジックという要素をこえるほど、基本にすえて描かれる重要なテーマだ。
 こう書くと、「では難読症という障害について描いた社会派作品なのか?」と思う人もいるかもしれないが、それもまた失当である。
 やはり主人公のキャラクターづくりに大きな貢献をしている設定なのであるが、ここまで深々とこの設定とむきあうことによって、主人公の良にとってマジックが持つ意味がとてつもなく重いものとして読者に提示されるのだ。そもそも難読症はマジックをするうえでの「弱点」ではない。

 難読症であるがゆえに良は学校で不遇だった。いじめも受けてきた。
 家庭での良の扱いは微妙である。激しく良を愛する母親と、良を「人並みにしてやる」という気持ちで良に厳しくあたってしまう父親という環境で育ち、父親の働く金属加工工場を手伝うときも従業員たちから図面もロクに読めないとバカにされている。

 こうした抑圧の苛烈さが、知的能力の高い良をして過度の内省にいたらしめたのであろうと想像することは難くない。北條龍五郎の孫で今は会社員になっている北條英明は、良の「あしながおじさん」であるが、良は英明にその自分の気持ちを吐露したり、あるいは実際には語らずに内語的に語りかけたりする。
 そのときに良がしばしばみせる、中学2年とは思えぬ老成した言葉の数々に、正直萌える

「マジックを始めたのは
 不思議な事に興味があったからなんだけど……
 自分の才能が本物か若さからくる自信なのかはわからない」

「おじさんは……
 龍五郎さんが俺のために
 マジックを教えたと思っているけど
 多分それだけじゃなかったと思う
 何となくわかるんだ
 龍五郎さんは
 人生の結末を
 一人で迎えたくなかったんだ
 生涯かけて愛したマジックだけを支えに
 場末のキャバレーで老いながら
 取り残されて側にいてくれる人もいなかった

 まるで自由に生きた代償みたいに……」

ファンタジウム 2 (2) (モーニングKC) これ中2かよ! と一瞬思うけども、こうした大人びた言葉と態度を使えば使うほど、良が逆に見せる「幼さ」とのアンバラスがまた、たまらない。そのアンバランスを生きる姿にくわえて、この美少年的造形がもうぼくにはグッときてしまって…。さすがBL出身作家である。

 BL出身といえば、ある種のBLの絵柄にありがちな感じで、全体的に固い。動きがこわばっているように見える。それはマジックという柔軟な操作を描くうえでは致命的ではないかと思われるが意外にそうではない。
 マジックをとったら自分にはもう何も残らない、という演出が地道に重ねられ、ベースのところで説得力を増している。マジックシーンが実はそれほど多くないことが「待ってました」感を読者に強め、良の演技が始まるとともにまるで良自身になったかのような爽快感・解放感を読者は爆発させることができる。
 くわえて、マジックをする瞬間の良の目にとても力がある。1巻の最初、場末のキャバレーで正装に身を包んだ良が演技をする時、ずっと良に見つめられているような艶かしさを感じた。

「しかしこうして見ると
 ずっと幼い感じで
 意外ですねえ

 演技している映像だと
 堂々として

 まさに天性の何かが
 あるって感じだよ」

という作中の登場人物の一人の言葉は我が意を得たりというわけだが、同時に作者の術中にまんまとハメられているのである。

 自分の才能を理解してくれたかと思っていた大人が「中学生なのに……字も書けない」と蔑んでいたことを知った良が英明に向って「おじさんが謝ることじゃない」とまたもや大人びたエクスキューズをいれながら、それでも「ひとつだけ訊きたいんだけど」と顔をみせずにつぶやくように、「俺がかわいそうだから来てくれてる?」と英明に尋ねるシーンがある。

 ぼくは率直に言って「かわいそうだから」良に関心をもって読んでいる自分がいることを否定できない

 それはこの物語が究極には難読症というリアルを描くためのものではないからである。物語として堅牢に設計されているのだ。この障害を、キャラクターづくりの軽い「弱点」トッピングとして扱うでもなく、かといって難読症そのものをルポ的にテーマにしてしまうほど真正面に置くのでもない。深々と、実に深々とこの難読症という設定につきあいながら、あくまで物語の演出であることを放棄していないのである。
 主人公が難読症という障害をもっているという設定は、劇的効果が計算され、積み重ねられていくことによってぼくら読者に「かわいそう」という気持ちを絶対的に引き起こさせている。そんなことはない、とは言わせない。
 だからこそ「俺がかわいそうだから来てくれてる?」と良が尋ねる瞬間、どきりとしなかった読者はいないはずなのだ。
 そうに違いない。そうに決まった。