山本直樹『ビリーバーズ』

『ビリーバーズ』はオウム事件を描いたものか


 新興宗教っぽい団体に入っている男2人、女1人の計3人が孤島で独特の修行をする顛末を描いた物語である。
 評論家の呉智英山本直樹『レッド』の書評で「テーマは連合赤軍事件である。既に七年前の『ビリーバーズ』(小学館)でオウム真理教事件を描き、次は連合赤軍事件だろうという予感はあったのだが、その期待に応えてくれたことになる」(「ダ・ヴィンチ」07年12月号)とのべた。

 

 

 ここでは呉は『ビリーバーズ』=オウム事件という把握をみせている。

 やはり漫画解説者である南信長も『ビリーバーズ』について「まあ、オウムとかそういう新興宗教的なものがモチーフとなっていましたよね」(「SIGHT」vol.23)と指摘している。

 だが、評論家の仲俣暁生が、『ビリーバーズ』は「言われるほどオウム事件の影は強くなくて、オウムの皮を被せて連合赤軍事件へのコンプレックスを描いたとしか思えない」と述べていることのほうが本質をとらえている、とぼくは思う。
http://www.big.or.jp/~solar/composite/composite15.html

 山本はあるインタビューで、オウム事件連合赤軍事件の二つがヒントになったことを述べている。だが、山本が語るところによれば、そのつながり方は次のようなものだった。

「一連のオウム騒動のあと、『似た騒ぎが昔あったな』と思い出して、連合赤軍関係の本を読んでみた。すると『これがおもしろかった』。
『閉鎖された環境のなかで観念だけがどんどん地面から浮き上がってきて、ついには暴走する。そういった怖さみたいなのを描いてみたいなと……』」(中野渡淳一『漫画家誕生』p.124)

 

 

 オウムをとっかかりにしたが、実際に山本が「おもしろさ」を感じたのは連合赤軍事件のほうなのだ。本作が描かれた2000年前後においてはまだ事件の記憶が生々しいオウム事件新興宗教の各種事件の体裁をとっているものの、描かれていることの内実は連合赤軍事件のイメージを中核にしているのである。

 ぼくにはその感覚がわかる。連合赤軍事件を新左翼運動の破産とみるぼくとは別に、「サブカルチャー」の視点から「おもしろさ」を感じるというぼくが、たしかにいるのである。

 


サブカルチャー的興味の対象としての連合赤軍事件


 連合赤軍事件を知らない人はいないと思うが、いちおう解説しておこう。
 全共闘運動の衰退後、赤軍派と革命左派という二つのセクトが連合して「連合赤軍」を結成し、群馬や長野山中を基地にして「銃による殲滅戦」という名の武装闘争を計画。その訓練過程で組織メンバーを「共産主義化」するためメンバーに「総括」という名の思想改造を迫り、総括しきれなかった者や反革命勢力だとみなされた者12人を死に追いやった。そして、警察は同派幹部の一部を逮捕するものの、残党があさま山荘に立てこもり銃撃戦を展開した。山岳基地にこもる以前にも2人が処刑されていたり、銀行強盗事件、猟銃店襲撃事件などをおこしていた。これら1972年前後におきた一連の事件を「連合赤軍事件」とよぶ。
 
 連合赤軍事件を奇妙な事件として、サブカルチャー的「おもしろさ」を感じていたのは、ぼくの兄だった。
 なぜか兄の大学時代の荷物の中には連合赤軍関係の本がたくさんあった。もちろん、兄は政治や左翼運動にはまったく興味のない人間で、「VOW」や「ビックリハウス」を面白がる「サブカルチャー」的嗜好があった。その観点から連合赤軍事件を「おもしろい事件」と感じていたのである。社会人になっても、年末などに実家に帰ってくると、みんなが紅白歌合戦をみているのとは別の部屋で「戦後事件史」のテレビドキュメントを熱心に見ており、あさま山荘事件の映像に釘付けになっていたのを今でも覚えている。
 ぼくはその嗜好を引き継いでいる。
 連合赤軍事件をジャーナリスティックに外部から書いたものはいくつかあるが、それらは事件を外側から描いたものにすぎない。そしてそれらはおそらくサブカルチャー的「おもしろさ」ではない。
死刑の理由 (新潮文庫)  いま手元には井上薫の『死刑の理由』といって、戦後の死刑事件の判決のみをえんえん載せている本があるのだが、このなかに連合赤軍事件もでてくる。しかし、この本のように、事件を外側から断罪しているものほど、サブカルチャー的「おもしろさ」、興味から縁遠いものはない。

「死刑となったQ1、Q10及びこれに準ずるQ13の3名を除く9名は、すべてロープで緊縛されたが、そのうちQ8、Q6、Q11、Q15、Q9の5名は手足を逆海老型に縛られ、中でもQ6のごときは両膝の裏に棒をあてがわれ、股を開いたまま縛られるという屈辱的姿勢をとらされた。そのうえで、最短でも2日間、長い者は10日間にわたり食事をほとんど与えられることなく、大小便たれ流しで厳冬の乙8、乙9山中に放置されて凍死した」(井上前掲書p.526)

 事件のむごたらしさはたしかに伝わってくる。
 だが、このような異常な空間がどのように出現したのか、そのときの生々しいやりとりの感覚はどのようなものだったのかは、ここでは一切捨象されている。
 それを伝えるのは、実は連合赤軍事件の被告たちの手記である。
 ぼくの兄も事件報道ではなく、彼・彼女らの手記を持っていた。永田洋子『十六の墓標』、坂口弘あさま山荘1972』、植垣康博『兵士たちの連合赤軍』などがそれである。
 この事件ほど被告人たちの手記が豊富に存在する死刑事件は他にないだろう。
あさま山荘1972〈上〉  山本直樹が「連合赤軍関係の本を読んでみた。すると『これがおもしろかった』」と感じたのは、おそらくこうした手記にちがいない。ぼくがさっき「ぼくにはその感覚がわかる」と書いたのは、まさにそれらの手記を読んだとき、ぼくがそう感じたからである。

 


『ビリーバーズ』は連合赤軍事件である


 『ビリーバーズ』の冒頭では3人が毎日会議を開いて、自分の考えていることを洗いざらい出し、透明化させる作業が登場する。そして、わずかにでも頭に浮かんだことや実際の言動を隠そうとすることを追及され、小さな言葉のいい間違いを重大な思想問題としてとりあげる。
「『いや「つらい」というのは「夢」の中で「先生」がおっしゃった言葉であって……』
『「オペレーター」さんは日頃から、この「孤島のプログラム」をつらく苦しいものだと感じていて… その「思い」が「夢」の中の「先生」の口を借りて出てきた、ということにはなりませんか?」(山本『ビリーバーズ』1巻p.17)

 これは連合赤軍の会議にそっくりである。

十六の墓標 上―炎と死の青春「森氏はこたつの所に戻って来て、おもしろそうな顔をして何かメモしていたが、急に思いついたように小嶋さんが『私のなかにブルジョア思想が入ってくる』といったことを取り上げて、
『何だこれは! こんなことをいっているようでは問題が全くわかっていない。革命戦士の言葉ではない!』
と軽蔑的に笑いながら批判した。何をいっているのかよくわからなかったので、聞き返すと、森氏は、
ブルジョア思想とは闘うべきなのに、自分のなかに入ってくるというのはこの闘いを放棄したものであり、合理化だ』
といった」(永田洋子『十六の墓標』下p.125〜126)

 

 

 『ビリーバーズ』では、一人の男が夢精をしてしまったことを自己批判し、自分で穴に半身を埋め、反省する作業をおこなう。あるいは、よこしまな夢を見たことを隠し立てしようとした女性が会議で厳しく追及され徹底的に自分の意識を告白させられ、やはり同じように半身埋められて反省をする作業を強要される。表面の言葉とは異なる本当の気持ちがあるのだが、それをひた隠しにし、同時に、自分も半ばその本当の気持ちを否定したいという思いがあるのだが、自分ではどうしようもできない、という状況が描かれる。
 これは連合赤軍がメンバーにたいして自己批判点を自白させ、その反省を徹底的に深めさせ、人間を「共産主義化」するという「総括」とよばれるものに、酷似している。
 以下は連合赤軍の幹部の森が、遠山という女性メンバーを縛り、総括を迫っている場面を、やはり幹部である永田が描写したものである。

「全体会議を始めると同時に、森氏は、遠山さんに、
『小嶋を埋めに行ったことについて総括しろ』
といった。遠山さんは、
『最初は恐かったし、重かったし、大変だったけど、とにかく自分の力で埋めました』
と答えた。……この時、遠山さんの様子に注目していた森氏が、指導部の者に、
『おかしい。遠山は死体を埋めたことをそんなに恐ろしがっていない。どういうことや』
といった。……
『知り合いの人の死に接したことがこれまであるの?』
と聞いた。遠山さんは、
『おばあさんの死に接しました』
と答えた。森氏は、
『それでわかった。だから、恐ろしがらなかったんだ』
と指導部の者にいったあと、遠山さんをさらに追及していった。
『どうした。もうそれで総括は終りか?』
『はじめは恐かったけど、運んでいる時は重かった。何でこんなに重いのかと思ったら、死体が憎くなった。何で私にこんなことをさせるんだと思うと、余計憎くなった。それで死体を殴った。死体を殴っているうちに、私はこんな死様はしないと思うようになった。私は絶対総括しきって生きぬくんだと思った。……』
……森氏は、もはやそれを総括と認めようとはせず、遠山さんが語っている最中にそれをさえぎるように、
『芝居をしているんじゃないのか』
と強い口調でいった。遠山さんは、驚ろママいて目を大きく見開き口をあんぐりとあけて黙ってしまった。再び重苦しい雰囲気になってきた。森氏は、さらに、
『そんなことを聞いているんじゃねえ。おまえが小嶋の死体を埋めることを通して、どう自分の問題を総括したのかを聞いているんだ』
と追及した。遠山さんは、高原氏との関係を中心に語り、
『私は、高原との関係をもっていくなかでしか赤軍派を見ることができなかった。その関係のなかでしか闘争にかかわってこなかった」
と総括した。しかし、森氏は、
『違う。それでは総括になんねえだろう。おまえは自分の問題を明らかにしようとしていない』
と批判し、総括をやり直させようとした。すると、まわりの被指導部の人たちが、
『何とかいえ!』
『いつまで黙っているんだ!』
などと激しくいいたてた。遠山さんの顔は次第に蒼白になっていった。森氏が低い調子で追及した。
『総括できるんか』
『判りません』
『総括できなきゃ、どういうことになるのか判ってんのか』
『……』
 森氏の口調はおだやかであったが、つきつけるような鋭いものであった。遠山さんは顔色をますます蒼白にし、黙ってうつむいてしまった。……
 遠山さんはワーッと泣き出し、
『なりたくない! なりたくない! 私は小嶋みたいになりたくない! やだもん、あんな恰好で死んでいくのは!……何を考えていいのかわからない。頭の中を死がぐるぐるまわっている!』
といった」(永田洋子『十六の墓標』下p.232〜234)

 『ビリーバーズ』において、穴に半身を埋められて死の寸前まで衰弱しながらも、自分のなかで反省を深められなかった自分を責めるくだりは、まさに連合赤軍の「総括」そのものである。

 そして、『ビリーバーズ』では、過酷な気象条件下で体を拘束されて反省を迫られている者が、尋問者の誘導にのって自分が「反逆者」的重大な裏切りを思想上してしまったことを告白しはじめるシーンがある。
 これは一見不可解なシーンである。
 しかし、半分は衰弱のために自暴自棄になりながら、半分は自分の「邪悪な気持ち」を清算したいという意図から、追及を受けている者はこのような告白をしてしまうのである。
 やはりこれとそっくりな「自白」シーンが連合赤軍事件でもあった。

「森氏は追及を再開した。
『組織を乗っ取ったら、どうするつもりだったんや』
『植垣君を使ってM作戦をやり、その金を取るつもりだった』
『M作戦をやっても金額はたかが知れてるぞ』
『商社から金を取るつもりだった』
『いくら取るつもりだった』
『数千万円取るつもりだった』……
『そんなに金をとってどうするつもりだったんや』
『宮殿をつくって、女を沢山はべらせて王様のような生活をするつもりだった』
『今まで女性同志にそうしたことがあるんか?』
『そうしたことはないが、いろいろな女性同志と寝ることを夢想する』
『誰と寝ることを夢想する?』
『大槻さんです』」(永田前掲書p.278〜279)

 「宮殿」などという言葉が出るにあたって、この問答が滅茶苦茶なものであることが伝わってくる。この自白をした赤軍兵士は連合赤軍によって「処刑」される。この会話を録した永田洋子はこう書いている。

「今から思えば、こうした追及自体が仮定のうえに行なわれたものであり、全くおかしかったのであるが、私たちは寺岡氏の発言に怒るのみであった。寺岡氏はこうした発言をやけくそではなく、沈痛な声でていねいに行っていた。寺岡氏は、共産主義化の闘いに応えようとして、空想しただけのことでも正直に答えていたのであろう」(永田前掲書p.278)

 もう十分だろう。
 『ビリーバーズ』はオウム事件ではなく、連合赤軍事件なのである。

 


現実の事件でおきなかった性的関係を展開する


 だが、山本直樹が別のインタビューで社会問題を扱うつもりで『ビリーバーズ』を描いたのか、と問われ、「あんまり意識しませんね。だから、社会問題を扱ったマンガを描いているつもりはないです」と答えているように、『ビリーバーズ』は社会問題としての連合赤軍事件を描いたものではない。
http://wiredvision.jp/archives/special/interview_visual_artists/199906080200.html

 「閉鎖された環境のなかで観念だけがどんどん地面から浮き上がってきて、ついには暴走する。そういった怖さみたいなのを描いてみたいなと……」と山本が述べた通り、あくまでサブカルチャー的「おもしろさ」の題材として連合赤軍事件をモチーフにしたのである。
 ぼくは『十六の墓標』や『兵士たちの連合赤軍』を読んでいて、たしかにこれを虚構としてふくらませたい、という欲求に駆られる気持ちがわかる。

 

 

 実は、「総括」を迫り死へと追いやるプロセスについていえば、山本が『ビリーバーズ』で描いた虚構は、実際の連合赤軍当事者の手記にはるかに及ばない。この部分は山本のちゃちな虚構を読むよりも、『十六の墓標』や『兵士たちの連合赤軍』を読む方が何百倍も心をえぐる。永田の原稿を受け取った瀬戸内寂聴が「幾度となく嘔吐をもよおし、気分が悪くなり、呼吸が息苦しくなってしまいました」(永田前掲書「編集者への手紙」)と書いているのはあながち誇張ではない。

 山本の本領が発揮されたのはその部分ではない。
 連合赤軍事件では、兵士たちの間にさまざまな「性的関係」が錯綜する。結婚する男女、離婚する男女、赤ん坊をつれてくる夫婦、女性兵士に「痴漢」をする男、強姦された女性、好意を抱き合うが一方が「総括」によって死ぬカップル……。だが、それは手記のなかではあまり詳しくは描かれないし、実際の問題としても幹部たちによって抑圧され展開されることはなかった。
 サブカルチャー的な関心で読むと、その性的関係を「妄想」することになる。そして、作家であればそれを大きくふくらませることができるであろう。

 永田洋子『十六の墓標』では、「性」は、強姦によって踏みにじられ、あるいは女性として生きることを否定した「中性の化け物」としての「人間一般」となった「性」であり、徹底して暗くとらえられている。
 他方で、男性被告の手記はある意味で屈託がない。
 『兵士たちの連合赤軍』を書いた植垣康博にはいくつもの性的関係が登場する。
 『レッド』の1巻で植垣は「岩木」という名ですでに登場しているが、同じように「月山」という女性活動家も登場している。「月山」は有馬という女性活動家のことで、植垣の手記のなかではモデルのように美しくスタイルのよい女性として描かれ、植垣は彼女と性的関係をもつのである。
 また、植垣が連合赤軍(正確にはこのときは革命左派)の女性メンバーたちの間で寝た時、女性たちの体をさわってしまい、のちに「痴漢行為」として女性メンバーたちから非難される。
 あるいは、「私は、大槻さんを最初に見た時、一体どこのかわい子ちゃんなんだ、来る場所をまちがえたんじゃないのかという印象を受けた」(植垣『兵士たちの連合赤軍』p.253)という大槻という女性メンバーと植垣は山岳ベースで恋仲になるのだが、やがて大槻は「総括」で命を落とし、植垣はその「総括」を要求していく側に回るのである。

 おそらく、こうした性的関係を、山本直樹は徹底したセックス妄想に改造した。そして本作の面目はほとんどここにあるといってよい。

 連合赤軍が山岳ベースにこもって訓練をしている間、夫婦や恋人ということは決して否定はされないものの、全体的には異様なまでに禁欲や抑圧の雰囲気が漂う。そのなかでわずかに花開こうとした性的関係は厳しい抑圧を受けるがゆえに、読む者の性的想像を逆にたくましくさせている。
 山本はこの空気に着目した。
 抑圧に抑圧を重ねた後、結局欲望にあらがえず、決壊するようにその禁忌を破ってゆく様のなんと欲望的なことか。山本が得意とするスレンダーで肌が美しそうな女性の造形がここでも用いられ、それが連合赤軍的な禁欲の空気によく合っている。『ビリーバーズ』の1巻後半で、岩陰に移動してセックスする男女の快楽的な描写。「そ……そんなに動かしたら…… 気持ちよすぎて変になっちゃいそう……」(山本『ビリーバーズ』1巻p.196)だけでぼくは何杯でも食べられる。
 前述のWIRED VISIONのインタビューで山本は「うまいこといけば、ラブコメのパロディになれるかなっていうことを考えてるんです。なんか、少年漫画青年漫画のラブコメって、すごい縛りがあるじゃないですか? なにかの信者みたいなくらい。おまえ、そこでヤっちゃえよ、っていう。ふつうはヤるよ、そこで、っていう(笑)。『大切にしたい』とかいって、やっぱりなんか信じてるよやつらは、っていう。だから、あの無人島の3人はラブコメの登場人物なんですよ」とのべているのはそのことと符合している。

 

 

『レッド』が生まれる必然性


 そして、本作のラストでは、死刑囚になった男が女と会ってボートで漕いでいること、やがて女は裸になる、という妄想をするシーンが出てくる。
 ぼくも、連合赤軍事件のさまざまな手記を読んだ後、ひとつの感傷にふけることがあった。
 死んだ恋人にたいしてはもう二度と会うこともセックスすることもできない。あるいは、恋人が死んでいなくても自分が死刑囚となればやはり二度とセックスや逢瀬はかなわない。死刑判決を下され、永遠に外に出ることがない人間は、過去をどのように「味わい」続け、妄想し続けるのだろうか。とくに、悪かった思い出ではなく良かった思い出をどうふりかえり続けるのだろうか——そういうことをぼくは思ったのだ。
 山本の本作のラストは、ぼくのこうした感傷をふくらませたものと同質のものである。
 本作のラストで、孤島で共同生活をした男の一人が逮捕をまぬかれ、外国でテロ事件をおこして、獄中にいる死刑囚の男(かつて孤島で共同生活をした)の釈放を求めるシーンがある。
 クアラルンプールで人質事件をおこした日本赤軍連合赤軍メンバーの釈放を要求したとき、同派の幹部で死刑判決を受けていた坂口弘は釈放されることを希望しなかった。
 本作のラストはこれと同じ展開をたどり、出獄を拒否する。
 だが、そこに山本が虚構としての味付けを行なっており、かつて恋仲でセックスまみれだった女性と裸でボートを漕ぐことを静かに拘置所のなかで妄想し続けるのである。

 このように、本作は連合赤軍事件の当事者たちの手記を「オカズ」にして、性的な妄想を最大限に広げ、ひとつの感傷的な叙情をもって結末とした作品である。

 本作を本当に味わおうと思えば、連合赤軍事件の当事者たちの手記を読むことが絶対不可欠のはずだとぼくは思う。創作は何かを読むことを前提にしてはいけないはずであろうが、これらの手記を読んでいるかどうかで印象がまるで違ってくる。
(余計なお世話だが、もしこれらを読む場合はまず植垣の著作から読むことをお勧めする。永田の『十六の墓標』は最も重要な文献だが党派関係や路線問題の記述が多く、疲れてしまう人もいるからだ)

 『ビリーバーズ』をすごいすごいともちあげる評はしばしば見かけるが、それらは一体何がすごいのかさっぱりわからないものばかりである。そして、事実、本作は決して手放しでほめられるような「すごい」作品ではない。本作は半ば成功し、半ば失敗しているのである。

 これまでのべてきたように、性的妄想をふくらませた部分は創作的成功をかちとっているけども、「総括」によって「敗北死」「処刑」にいたった状況は現実の事件の迫力にはるかに及ばない描写になってしまっている。「閉鎖された環境のなかで観念だけがどんどん地面から浮き上がってきて、ついには暴走する。そういった怖さみたいなのを描いてみたいなと……」という『ビリーバーズ』を描いたときの山本の宣言は果たされなかったのである。

 それを克服するには、事実を事実として描くしかない。虚構としてその部分を描いた『ビリーバーズ』は、ノンフィクションである当事者の手記に遠く及ばなかったのであるから。
 山本の『レッド』が連合赤軍事件の当事者たちの手記を忠実に起こしてスタートした必然性は、まさにここにある。