クロポトキン『相互扶助論』、平居謙『「ワンピース」に生きる力を学ぼう!』

『ワンピース』に生きる力を学ぼう! 平居謙『「ワンピース」に生きる力を学ぼう!』(データハウス)は、本としてはなかなかにひどい出来だと思うが、マンガ『ONE PIECE』をどうとらえるかということを示唆したという一点において、ぼくにとっては非常に刺激的な一冊だった。「生きる力」をテーゼ的というかドグマ的にバラバラにわけて解説した第一章・第二章は、ほとんど役に立たなかったのだが、 第三章の「『相互扶助』から『意識的疾走へ』」は、叙述の乱暴さは別として、クロポトキン『相互扶助論』と関連づけたという点で、刺激に満ちていた。

クローズアップ現代」の『ONE PIECE』論への違和感

 平居の同書にも書いてあるが、『ONE PIECE』のヒットをNHKクローズアップ現代」は特集し(2011年2月9日放映)、格差社会・「生きづらさ」を抱えた社会のなかで個人がバラバラにされ、絆・仲間が失われていることと関連づけて語った。


 馬場伸彦(甲南女子大教授)は、ネット社会での人とのつながりの希薄化し、就職氷河期での努力しても報われない、孤立のなかでの挫折と不安などを社会背景として説明した。過去に『ONE PIECE』の登場人物が挫折とトラウマなどを抱えていることを紹介し、『ONE PIECE』は、自己肯定を取り戻す過程だとして、海賊は社会の軌道から外れた存在として解説した。それらの挫折や傷が仲間によって支えられる、と。KY批判、コミュニケーション能力への過剰な期待、ホンネでモノが言えなくなる仲間が生まれづらい、というわけである。馬場は「ホンネと建前が乖離しない社会。本気で語った事を笑わない社会」を提言する。


 平居は、こうした解釈を、NHKスペシャルの「無縁社会*1的な演出とそっくりだとして(平居はこの番組にもとづく出版『無縁社会 無縁死三万二千人の衝撃』(文藝春秋)にもとづいて議論をすすめている)、

この本に良いところがないわけではありません。無縁死が拡がっている、という事象へのセンチメンタルな、或いはヒステリックな距離感を別にすれば、そこに列挙されている事実そのものは現実のものだからです。(平居p.130)


と認め、『ONE PIECE』と『無縁社会』を、

極めて強い共通点(平居p.131)


があるとまで言っている。そして、『ONE PIECE』の登場人物たちが、ひとりぼっちの境遇だったことをわざわざ例にまであげている。
 しかし、平居は『無縁社会』について、人間を弱いものとしてとらえすぎており、『ONE PIECE』の登場人物たちにそうした傷をなめあうかのような脆弱さはない、として厳しく批判する。

無縁社会 無縁死三万二千人の衝撃』が徹頭徹尾、マイナス思考によって成立しており読後感も後味の悪いものに終わっている。(平居p.136)

そもそも『無縁社会 無縁死三万二千人の衝撃』に書かれているような「現代の社会は無縁社会だ」「この可愛そうな人たち或いは私たちをどうにかして欲しい」という発想が間違っている。(同p.138)

人間社会にはもっと底力がある、いくら一時的には「無縁」に見えても結局は物凄い弾力である時期元に戻るのだという信頼を僕は持っています。その「引き戻す力として現れているのが一つには『ONE PIECE』であって、それだからこそ人々は吸いつけられるようにそれを求めるのだ、と。(同前)


 ぼくは『ONE PIECE』のヒットの背景説明としては、「クロ現」のような説明を一定理解する。しかし、登場人物のパワフルさや元気のような「強さ」「明るさ」を説明するものとしてはどうしても物足りないものを覚えた。その点では平居の批判もまたうなずける


 もともと「クロ現」では、『ONE PIECE』作者・尾田栄一郎が任侠ものが大好きであることをつきとめ、ジブリ鈴木敏夫の言葉を借りて、任侠=「人のために何かをする」と再定義している。
 これは(理想化された)任侠の一側面を表しているが、任侠がもつ、荒々しさ、強靭さ、ある種の暴力性がすべて失われてしまっている。そのような任侠の活力を表現するものが「クロ現」には出てこない。平居の不満もそこにある。


 平居が「クロ現」的解釈のかわりにもちだすのは、なんとクロポトキン『相互扶助論』、すなわち無政府主義である。

…革命家の書いた社会論〔クロポトキン『相互扶助論』のこと――引用者注〕←→現代のエンタメ漫画〔尾田栄一郎ONE PIECE』のこと――引用者注〕、という全くかけ離れたジャンルのために気がつかなかっただけで、本質のところでは同じ生き方を志向していた。(平居p.140)

アナキズムへのぼくの誤解

新版 相互扶助論
 ぼくは、この平居の本に導かれてクロポトキン『相互扶助論』を読んでみたのだが、そこに書かれていることは、ぼくの従来の無政府主義のイメージを大きく覆し、その思想がしめしている「人間本来の活力と共同」をぼくに教えた。『相互扶助論』が提起したようなエネルギーや活力こそ、無政府主義の根源であり、任侠へ人々が憧れる原点であろう。


 まず、本書『相互扶助論』がぼくのどのような無政府主義イメージを覆したかを最初に書いておこう。
 

 マルクス主義の伝統的な理論からいえば、革命によって階級支配をおわらせ、それよにって国家がひとりでに「死滅」するものなのに、人為的に国家を廃止しようとする無政府主義は、社会科学というもの(社会発展の自然史的過程)が全然わかっていない、ということになる。
 そして、全共闘世代をふくめて、これまで無政府主義を主張してきた人を外から眺めているだけだと、単に「権力が嫌い」というメンタリティで無政府主義者を名乗っているような印象があり、社会を運営していく能力に欠けていると思わざるをえない、という思いがぼくにはあった。


 こうした批判は、無政府主義の批判としてはある程度当たっているとしても、無政府主義が持っている積極的な側面というか、一定の人をとらえて離さない魅力がどこにあるのかがわからない。


 無政府主義の魅力というものを、本書を通じてぼくは初めて知った。


 そのエッセンスは次の一文にある。

近世社会は「各人は自己のために国家は総人のために」という原則の上に立つものと仮定されているが、近世社会はかつてこの原則の実現に成功したこともなく、また今後といえども決して成功することはないだろう。(本書p.19)

 もう少しこの言葉をわかりやすい例示でクロポトキンはいい直す。

…もしこの同じヨーロッパ人が蒙昧人の一人に向って、ヨーロッパでは、自分の子供には慈愛深いそして他人にはごく親切な、そして舞台の上で真似事の不幸事を見ても泣くほどに多感な人々が、ただ食物がないばかりに子供が死ぬ貧民窟から、石を投げれば届くほどの手近かに住まっていると語ったなら、その蒙昧人はこの言葉を理解することができないに違いない。(同p.126)

 本書の解説者・大窪一志はこうした事態を「近代の蹉跌」という言い方で批判する。

クロポトキンが書いているように、中世の同業組合の内部では、構成員は兄弟関係を結んで、一人が病気になればもう一人が看護するという掟があった。二人の男が喧嘩して殺し合おうとしているのを見ながら、手をこまねいていたら、殺人犯として裁判にかけられた。また、飢えている者がいれば、食事を分け合うのが掟であった。しかし近代世界においては、そうではない。これらはすべて、国家とその行政サービスを通じて処理される。病気になった同僚には「病院へ行け」といえばいいし、殺し合いが起こっているのを見たら警察に通報するだけでいい。他人がどんなに飢えていようが、遠慮なく食事をしてかまわない。(同p.314)

 飢えた人がいる横で平然とぜいたくな食事ができる近代は頭がおかしいよ、ということだ。

近代世界は、こうして国家と社会を分離させ、具体的で人格的な相互扶助を、抽象的で非人格的な制度に疎外してしまい、それによって相互扶助の生きた生命を窒息させようとするのである。(p.315)

クロポトキンのこの言をナイーヴだといって笑って済ませてしまう人たちは、近代の宿痾にかかったままだといわなければならない。クロポトキンがナイーヴなのではなく、近代世界がまったくナイーヴなところで蹉跌しているのである。近代世界は根本において分裂しているのだ。(p.316)


 自己の幸福の徹底追求という近代の原則は、国家の存在によって、他人(隣人)への無関心へとおきかわる。
 そして、そもそも人間とはそんな存在ではなく、相互扶助をすることを本能として求める存在なのだ、とクロポトキンは生物学的起源にまでさかのぼって証明しようとする。本書の第一章・第二章は「動物の相互扶助」というタイトルで、動物世界においては、個別の淘汰をめぐる生存のための競争と闘争ではなく、いかに相互扶助がみられるかということを「立証」する。社会ダーウィニズムを批判し、「ごく同情深い個体の最大多数を有する団体は、もっとも善く繁栄し、またもっとも多くの子孫を育成する」というダーウィンの言葉を引用している。


 生物レベルにとどまらず、人類社会の起源から古代、中世、近代にいたるまで人間は相互扶助の歴史があり、しぶとい底流をなしていることを、クロポトキンはうんざりするくらい「例証」をあげて証明するのだ。
 相互扶助は愛でも同情でも道徳でもない。人間にとって必需品の本能レベルのものなのだというわけである。


 このような動物的本能から社会生活の基礎にいたるまで、相互扶助は人間に本来そなわっているものだとクロポトキンは見る。ところが国家の出現によって、この人間本来の精神は抑圧され、妨げられ、眠り込まされているのだとクロポトキンは主張する。
 それゆえに、国家がない方のが人間本来の精神が発揮できるという。


 大窪の次の一文は、ぼくのアナキズムへの誤解とそれへの批判をもっともよく含んでいる。

アナキズムは、しばしば秩序の破壊、無秩序の礼賛と誤認されてきた。しかし、アナキズム──とりわけクロポトキンの思想──は、そのようなものではない。それは、権力がつくりだしたぎこちなく矛盾に引き裂かれた秩序を否定するものであるが、その否定は、そうした権力による秩序が、社会的な類的存在としての人間がその生命そのものの内に本来そなえている秩序形成力がつくりだす秩序を否定しているからなのであり、そうした本来の「もうひとつの秩序」を回復するための否定にほかならないのである。(p.318)

災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』(亜紀書房)を読んでいると、このクロポトキン『相互扶助論』はひんぱんに登場する。大災害に際して、政府の機能や日常の秩序が失われると、人々が平等で親密な共同体をつくりあげる「不思議」を描いている。それはまさにクロポトキンの主張を裏づけるかのようである。

 
 『相互扶助論』には、『ONE PIECE』・任侠ものを示唆するような荒々しさ、個人主義、そして共同性を「立証」する事例に満ちあふれている。


 たとえば中世の同業組合の描写。

どんな場合にでも、その組合員はお互いに兄弟または姉妹として取扱い、また、お互いに兄弟姉妹と呼び合い、そして同業組合の前にはすべて平等であった。彼等はまた、ある「有限不動産」(家畜、土地、建築物、礼拝所、もしくは「資本金」)を共同に共有していた。そしてお互いの上に争わないという義務を負わせることはなく、ただそのいかなる紛争も、お互いにいつまでも根を持っている確執や、または組合員自身の裁判所以外の法廷に持ち出すような訴訟事件にまで堕落させないということに合意した。もしまた一人の組合員がその組合外の人との紛争に捲き込まれた時には、その組合員等はそれを助けて、事件を平和に収めることに尽くさなければならない。ともかくも、その組合員の行為が暗打的侵害──この場合にはその男は仲間はずれとして取扱われる──でない限りは、組合員等はそれに左袒した。中世ではこの暗打的侵害だけが殺人犯として取扱われていた。そして白日公然の復讐は正義であった。(p.190)


 これがそのまま『ONE PIECE』というわけではない。
 しかし、その共同、自治、自主、暴力の空気は活力に満ちており、同業組合を抑圧する「王の禁令が死文に終わった」(p.190)ようなしたたかさ、

政府が人民の間のあらゆる団結の縁を断ち切る法律を緩めると、すぐにその縁が、数多い政治上や経済上や社会上の障害を打破って、再び結ばれる。しかもその縁は、生産方法の近代の要求にもっとも善く応ずるような様式の下に、再び結ばれる。そしてその将来の進歩がいかなる方向に、いかなる様式の下に、成就されなければならぬかということを教えている。(p.258)

というような強靭さこそ、指名手配をうけながらモノともしない「海賊」としての矜持に酷似している。

 あるいは、「野蛮人の相互扶助」として紹介される次のケース。

今なおコーカサスでは、確執が納まった時には、加害者は被害者家族の属する種族の最年長の婦人の胸に唇を触れて、その家族全員と「乳兄弟」となるのである。また、アフリカのある種族では、加害者は被害者家族の中の一人に自分の娘もしくは姉妹を与えて結婚させななければならない。また他の種族では、加害者はその夫を殺して寡婦とした女を娶る義務がある。それでこのいずれの場合にも、加害者は被害者家族の一員となり、またすでにその一員となった以上は、その意見は家族の重大事件についても重んぜられることになる。(p.154)

 敵が家族=味方=仲間となるのだ。

なすべきことは、敵をも、悪魔をも、また運命をも恐れずして、公然と男らしくせよ。……すべての行為に自由にしてかつ敢為なれ。その友と同族とには温和にして寛大なれ。敵(復讐法の下にあるもの)には厳粛にしてかつ毅然たれ。されどこの敵に対してもなおなすべきの義務を果たすべし。……休戦の約を破るもの、告げ口をするもの、または蔭口をつくるものとなるなかれ。その人の面を冒して言うを憚るがごときことは、何人に対しても言うなかれ。食物または宿泊を求むるものは、敵といえどもその門より返すなかれ。(p.155)

 これはクロポトキンが紹介している、古代スカンジナビア人=ノルマン人の性質の要約である。ここには、自立的な尊厳と、共同が調和した古代の共同体の有り様が描かれている。

 そして中世同業組合の船長の演説。

われわれは今神と浪との侭にある。われわれはすべて平等でなければならない。またわれわれは暴風と怒涛と海賊およびその他の種々なる危険に包まれている。したがってわれわれはは、われわれの航海を無事に果たすためには、厳格な秩序を保たなければならない。……船中で起ったことはすべてお互いに宥し合って。死んでしまったものと見做さなければならない。(p.186)

 海賊と敵対関係にある船の同業組合が海賊である『ONE PIECE』のルフィたちと共通しているというのも奇妙な話だが、平居謙もこの部分を自著で紹介している。危機に対処する一体感が共同体としての「暖かさ」を創りだすのだ、と。

アナキズムとしての『ONE PIECE』と任侠

 ここには、人間というものが、本来、強さ、尊厳、共同の精神をもった活力にあふれた存在であるというとらえ方がある。『ONE PIECE』・任侠ものが示す人間像とはこのような人間である。


 あえて次のような言い方をしてみる。
 国家のような権威に頼らずに、絆をもとめて、傷をなめあうような弱々しい存在ではなく、もっと誇りや強かさをもった存在だということである。たとえば、生活保護を受けるというのは、(本当はそうではないが)「国家」の助けを借りる「弱々しい存在」だというイメージがありはしないか。それを「国家への依存」だと見るような人間観もふくめて、人間の活力を信じる人間観である。


 「十年後の目標を立てる」「途中で諦めないと宣言する」「孤独を覚悟する」などといった具合に、平居が『「ワンピース」に生きる力を学ぼう!』の前半で「生きる力」についてあれこれと説教じみた教訓を『ONE PIECE』からくみとるとき、人間の強さというものを信じる人間観をぼくは見出す。
 平居が「無縁社会」的な把握を「癒し」ととらえ、それを批判して『ONE PIECE』を解釈するとき、平居の解釈は「強い生き方」(平居p.119)なのである。


 『相互扶助論』を読んでのアナキズムへのぼくの評価はあがった。それは、新自由主義が格差や貧困、分断を広げるなかで、コミュニティや中間団体の共同性の役割のようなものへぼくの注目や期待が高まっていて、実際に人々はこのようなコミュニティや居場所を求め、形成し、増殖させていく活力を持っているからである。
 アナキズムの思想と運動は、こうした草の根でのコミュニティ形成力への注目をうながすものだといえる。マルキストであったぼくは長年そうしたものへの軽視があった。それは社会を抜本的に改革しえない改良主義ではないか、と。「居場所づくり」なんていうのは、階級性を失ったしょうもない傷の舐め合いではないか、と。
 たとえば、組合や市民団体、政党の活動は「目的」を実現するためのものであって、そこでの居心地の良さとか親睦度の向上のような課題を、それ自体とりだして問題にするようなことは、目的と手段をはきちがえるものだとしか思えなかった。極端にいえば、目的遂行のためにクールにつどい、目的終了のために解散するのがこうした団体のよさだという考えである。
 その考えはまったく間違っているわけではないが、中間団体そのものがコミュニティとして大事な力を発揮するという視点はそれだけでは生まれてこない。アナキズムはそこへの注目をうながす役割をもっている。


 同時に、アナキズムは階級支配としての国家のみならず、社会保障制度のような、国家が国民の運動によってつくらざるをえなかった、過渡的な役割をもつ権力作用(ブルジョアジーに支出を強制する作用を持っている)さえも否定する。
 そのようなものが一切なくても人々は自立して「やっていける」ほどに強い存在なのだという人間観がそこにはある。
 全共闘世代にアナキズム志向(反権力志向)が強かったとぼくは思うのだが、それは「強い、自立した個人」という個人主義と結びついている。もちろん戦後民主主義も、「近代化による自立した個人による民主主義」を志向することで、似たような「強さ」を強調する役目を持っていたわけだが。
 こういう発想は、人間が弱さを抱え、極端にいえばだらしなささえ秘めているというリアルを排除してしまう危険性がある。容易に「自己責任」論へ陥りやすい。全共闘経験者があっさりと「ネオリベ」へと変質した理論的通路はそこにある。
 このような人間観は欲望ではあるが、幻想にすぎない。そうだったらいいなあという話だ。むろん、クロポトキンが「立証」している数々のものは、そのままストレートに信じるわけにはいかない。


 ぼくのアナキズムへの評価と批判はそのようなものであるが、にもかかわらず、人間が本来の強さや活力を備えた存在であるという人間観は「何としてもそうあってほしい」という願望・欲望として、ぼくらを捉えて離さない。アナキズム自体が社会運営理念としては重大な欠陥をかかえながら、一定の人々を魅了し続けるのはそのような理由からだし、『ONE PIECE』や任侠が様々な弱さをみせつけながらも、結局「強さ」を獲得・回復させる物語として運動し続けるのは、そのような人間観が魅力的な欲望・幻想であり続けるからだろう。

 と、ここまで書いてきたものの、これは『ONE PIECE』が支持される社会背景のぼくなりの解釈であって、依然として『ONE PIECE』が「出来のよい漫画作品としてどこが面白いのか」という疑問は解決されていないことを付け加えておこう。
 

*1:2010年4月3日放映。 http://www.nhk.or.jp/asupro/life/life_06.html コミュニティやつながりが解体していき生きづらくなっているという告発をした番組。