木村千歌『ずるずるマイラブ』

 「他人の不幸は蜜の味」ということばの親せきみたいなもんで、他人の悪口を言うのが快感だという感情がある。ぼくの友人グループのなかである一人(Aとしよう)の悪口を言ったりすることがあって、Aがいかにダラしないやつか、それが倫理的にみていかに悪かということをみんな楽しそうにしゃべりまくる。ぼくもついその快楽に抗えずに同調めいたことを言ってしまうけど。

 

 


 彼の不快さを糾弾することで、人類としての優位性とか正統性を保障されたみたいな気分になるのだ。

不快さをのぞく快感

 木村千歌『ずるずるマイラブ』は、そういう不快なものを糾弾できる快楽を味わえる。
 1話30コマ(すべて均等のコマ面積)の4コママンガっぽい、どちらかといえば楽しげな雰囲気のなかで描かれている不倫モノ。(以下ネタバレあり)
 デザイン会社に働く主人公・りり子が、そこに客にきた若いサラリーマンの片桐(カタッチ)に恋をするが、片桐は妻子もち。不倫関係に陥って、やがて片桐の妻にバレて修羅場と亀裂をむかえ、最後にりり子が新しい恋人をつくって片桐を捨てるというストーリー。
 うーむ、こう描いただけで、片桐の身勝手さとりり子の残酷さが浮き彫りになるなあ。
 なのに、作者・木村がこれをほのぼのタッチと醜悪な「自己」弁護で描き切っているというところにこの作品のすごさがある。

自己弁解シーンの醜悪さ

 たとえば、倫理的な裏切りをやるシーンでは、それまでのおふざけタッチではなく、凛とした(笑)、あるいはリリカルな詩のようなことばが入り、そのシーンの「正当性」を粉飾しようとする。
 最初に不倫=姦通をするシーンでは「なにかそれはひどく自然なことのように思えた」というモノローグではじまり、ラストはベッドに入っている2人を描いてやはりモノローグをつけて、「それはひどく自然なことのように思えたのだ」などと書いている。このマンガのほかの部分では「ひどく」などという小説チックな言い回しはしない。「なにかそれは」などというアモルフな感情をしめす言い回しもしない。せいぜい「けっきょくセックスしちゃったのは、とっても自然な気がした」の言い回しをするのが「自然」だ。飾り立ててごまかしているのである。


 ほかにも、不倫前に片桐がりり子の部屋に「なぜか」来た時も「あたしがこれからどのにゆくのかだれか知っていたら教えてください。というか片桐さんがなぜ今ウチにいるのかだれか知っていたら教えてください」というモノローグを入れている。
 新しい男ができかけてからも「それでも木曜日がくると不思議とカタッチと会いたくなった。なんて自分はわがままなんだろう。愛じゃなくていい。ただぬくもりが欲しい」。カタッチを捨て、新しい男との恋愛を始めようとする全体のラストは「恋はいつ生まれそしてどんな時終わっていくんだろう。ね。始まりそうなマイラブ」となっている。「ね。」じゃねーだろ!

ほかの不倫マンガとの比較

 りり子の不快さは、実際には、主体的な決断をそのときどきにしっかりおこない、それによって不倫を開始し、片桐を捨て、新しい男を選びとっているのに、「恋愛感情とはどこからくるのか出所不明の、理解できない、自己制御不可能な感情である」という虚構をつくりあげて、“その不思議な感情とやらに私は流されて、すべて「自然なこと」「いつのまにか」「なぜこんなふうに」という状況に追い込まれているんですよ”、という自己弁護をしていることである。
 しかし、その自己弁護の不快ぶりのリアルさは、じつはこの作品のたまらない魅力なのである。
 不倫マンガは他にもいろいろあって、たとえば『スイート10』(こやまゆかり)などもやはりこういう自己弁護の嵐なのだが、それでももっと逡巡や犠牲にされているパートナーや家庭などの様子もきちんと描かれている。木村の『ずるずるマイラブ』はこの自己弁護が革命的に徹底されていて、それでいて自分をイイ子ちゃんでおさめようとしているという点では比類がない。
 片桐の妻を「悪口」のようにいうシーンは一度も出てこない。絵としても一度も登場しない。しかし、逆にそれゆえに無気味な存在として浮かび上がってしまい、りり子の家の玄関先に片桐用の荷物が届けられ控えめな手紙がとどけられていることを「客観的に」描写するだけで、片桐の妻の「こわれ」ぶりが出てしまっているのだ。『スイート10』が裏切られている夫の好人物ぶりをちゃんと描いているのにくらべると、この卑劣さは一級である。不倫とは莫大なものを犠牲にしているという現実を絶対に見ようとはしない。そして、自分を堂々と免罪するのだ。
 しかし、それゆえに、自己弁護の感情としてはこのうえもなくリアルに仕上がっている。

木村は天然か意識的か

 木村は『カンベンしてちょ!』という別の作品で、高校生のカップルを描いていて、その主人公格の男子高校生がただヤリたいだけの粗暴な男で、ときどきその粗暴なりの「やさしさ」をみせたりするのだが、しかしやっぱり全体的には性欲に盲従するバカな男子高校生にしかみえない、という人物を描いてる。その粗暴男子高校生に惚れ込む女子高生(主人公)の「健気さ」は見ていて、やはり非常に不快である。アホか、と思う。
 だが、『カンベンしてちょ!』にせよ、この『ずるずるマイラブ』にせよ、その醜悪さや不快さが、読む者にはたまらない快感だということもまた事実である。

 ぼくはいま「自己弁護」ということばを何度も使ったが、それはおそらく木村の自己体験が多分に反映されているだろうと思うからである。
 もし。もしも、これが木村の想像力の産物であり、キャラづくりの結果であるなら、それは驚くべき高水準の虚構だと考える。でもたぶんちがうだろうなあ。

 このマンガを「不倫」のときの切なさや難しさとして「共感」して読んでいる人もいるんだろうと思うけど、ええ加減にせえよと言っておく。