「隠れ教育費」を3つの部分に分けてその解消を考える

 前の記事を書いたことがきっかけとなり、2023年4月5日に「公立小中高の〝隠れ教育費〟を考える」というテーマで「ABEMA Prime」にオンラインで出演した。

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 ぼくとして話したことの振り返りはツイッターで行った。 

#アベプラ 「隠れ教育費」問題。出演終了。
ぼくの言いたいことが言えたか? という振り返り。

(1)まず、公立高校で入学時の3-4月に25万円準備しなければならないという事実、およびその非情さは理解してもらえたのでは。
(2)25万円のうち、内容も不明で自分が会員になることを同意すらしていないような「教育関係団体の会費」を保護者が負担する理不尽さも、参加者(そして視聴者の)共通認識になったのでは。
(3)「入学時に入学金等を言われた通りに払い込まないと合格=入学資格がなくなるかも」という強迫観念のもとで、任意性を一切説明されずに払わされる不条理も伝わったのでは。この費用部分を削除するか、適切な説明・同意を得るようにすることは「隠れ教育費」軽減の第一歩になる。
(4)「どこまでを無償化するか」問題。まず「教育の費用部分」といえる「授業料」「教科書代」「教材代」「給食代」を公費で完全カバーすれば、高校もかなり楽に。高校の教科書・教材費はクソ高い。「給食」を「教育」とみなす論理は現時点ではわかりやすさがある。
(5)「どこまでを無償化するか」問題の続き。服装・持ち物(制服・体操服・上履き・ランドセル・かばん・体操服)の指定品化・標準化をやめる。教育費用部分の完全公費化とこの「指定品解除」で、かなりラクになる。この(4)(5)は番組で、あわただしくだけど、一応訴えられた。
(6)まとめ発言。小中学校の授業料「金持ちは負担すべきだ」と誰も言わないのは受益者負担の呪縛がないから。だが他の教育費は受益者負担でつい考える。「子どもの教育のためにはお金を使うのがいい」という受益者負担マインドセットから解放される運動が必要という趣旨を述べた。
(7)言いたいことはなんとか言えたけど、前に出た「TVタックル」以上の「大脱線の大乱闘」で、慣れないと大変だなと思った。番組本来のテーマに戻して無償化や公費増額の意義を訴えるという必要な語りをするのに、福嶋尚子准教授も相当苦労されておられるようだった…。
(8)レギュラーの中では、安藤美姫さんのコメントが最も生活感があった。ぼくの意見に一旦同意して、「あ、でもランドセルはやっぱり必要では?」「子どもがすごく楽しみにしていて…」と思い直したり、逆にぼくの発言を聞いて「子どものためにお金をかける」論を見直したりしてくれた。 

 スタジオの状況については、こういうツイートもあった。

 ぼくが発言したことのうち、「どこまでを無償化するか」問題〔上記のツイートの(4)と(5)〕については、もう少し詳しく述べておく。

 

「教育費用」=授業料・教科書・教材・給食を無償に

 ぼくの考えは第一に、「市民からみて実感的にこれは『教育』と言える部分だろう」という「教育費用」部分を無償化することである。

 この「教育費用」にまず授業料が入ってくるのは疑いない。義務教育である小中学校の場合、現在の支配的な憲法学説でも無償化は「授業料」の部分とされている。つまりどういう立場の人でも授業料を無償化することは一致があるはずなのだ。高校でも実現したが、所得制限があるために完全には実現していない。大学にいたってはこれからである。高校も大学も国際人権規約で「漸次的無償化」が決められており、日本もようやく批准した。

 そして、教科書代。小中学校ではすでに無償であるが、高校は有償である。娘が高校に入ってその入学時に準備しなければならないお金の高さにぼくは驚いたわけであるが、そのかなりの部分を占めたのが、教科書代と教材費である。

 教科書無償の理念は、中等教育の無償をめざす条約を批准した今となっては、そのまま高校にも広げられる。

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 そして、給食費である。

 食育基本法の前文では

食育を、生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきものと位置付ける

とし、その第20条では

国及び地方公共団体は、学校、保育所等において魅力ある食育の推進に関する活動を効果的に促進することにより子どもの健全な食生活の実現及び健全な心身の成長が図られるよう、…学校、保育所等又は地域の特色を生かした学校給食等の実施…その他必要な施策を講ずるものとする。

と定めており、給食を単なる食の提供ではなく、教育の一環として扱っている。だから「家で食事はするでしょ」というようなホテルコストと同様に扱うわけにはいかないものである。

 現在行われている統一地方選挙でも大きな争点となり、野党間では国政での実施がほぼ一致ができ(逆に国が行わないもとで、地方での先行実施には温度差がある*1)、自民・公明政権でさえ「無償化へ向けた課題を整理する」と言わざるを得ないようになってきたから、学校給食無償化の社会合意はできつつあると言ってよい。*2

 この分野で一番遅れているのは、教材費であろう。しかし、教育をする上で不可欠だから教科書と教材を使うわけで、「ぜいたく品」であるなら使う必要はない。教科書を無償にした以上、教材も無償にするのがスジである。なんなら、無償供与ではなく貸与制や学校備品にしてもよい。

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 そして、細かい話なのだが、ぼくが費用負担させられた中に「生徒氏名ゴム印 50円」だの「体育祭応援スタンド代 1000円」「入学の手引き 800円」だのがあった。

 もちろんぼくは払える。だけど「払える」からいいというものではない。

 生徒氏名のゴム印って、明らかに学校の事務として使うものである。保護者や子どもが私的に利用したいわけではない。学校の経費で賄うのがスジだ。

 学校教育法第5条では次のように定められている。

学校の設置者は、その設置する学校を管理し、法令に特別の定のある場合を除いては、その学校の経費を負担する。

 経費はしっかり設置者(市町村や都道府県)が負担すべきだろう。法律通り。

 これは福嶋尚子が述べていたように、公費を増やすように教職員がリードして訴えつつ(「こんなところに隠れた私費負担がある」と告発する)、保護者や市民も公費化の世論を起こすべきだろうと思う。

 このような「経費」部分は、無償化というより、きちんと公費でカバーすべきなのである。

 

制服・学校指定かばんなどは廃止を

 第二に、制服・学校指定かばんなどの廃止である。

 制服・体操服・かばんなどは学校の校則で指定されていることが多い。特定の店でないと買えない「指定店」制度があるところも依然として多い。そして、教科書・教材費と並んで、この部分の費用はかなり大きな割合を占めている。

 この分の解消をどう進めるべきか。この分を公費でカバーすべきだろうか。ぼくはそうは思わない。*3

 制服は教育だろうか。

 娘の場合、小学校までは制服はなかった。

 中学校になったら制服が導入され、高校にもあった。「中学生らしい服装」「高校生らしい服装」を教えるのが「教育」というわけだ。「教育」? 生徒を並べて「膝上何センチ」などと定規で測って、やり直させるのが「教育」? 眉毛を型通りに剃らせて、反抗する生徒の眉毛を暴力的に反らせるのが「教育」?

 馬鹿も休み休みに言ってほしい。

 教育でもなんでもない。むしろ表現の自由を不当に規制し、人間の自由な精神を圧殺する飼育であり、反教育である。

 このようなものは直ちに廃止すべきだろう。

 もちろん安藤美姫が番組で残念そうに述べたとおり、ランドセルを背負いたい子どものために、ランドセルを買う自由は残すべきだ。それによって小学生になった誇らしさを謳歌することは、家庭の方針で認められていいものだと思う。

 その過渡として、指定品・指定店制度はなくす・大幅緩和すべきだろう。

 中学では制服が全市共通だったので、どこでも買えたし、自由競争があって価格が多少は安くなっていた。また、体操服や上履きなどは学校指定のものがなかったので、そこらの商店、ネットやスーパーで安いものをめいめいが買っていた。

 

会費などは十分に任意性を示す

 第三に、ぼくが一番驚いた教育関係諸団体の会費。

 県の体育連盟の負担金とか、地区の高校生徒指導協議会の会費、県の高校学校保健会の会費などである。なんだそれ。

 これはそもそも保護者が負担すべきものでないものもたくさんあるように思われる。そういうものの半強制的な負担はやめるべきだろう。

 番組では前半、かなりこれに時間を費やしてしまったのだが、無理もない。合格したその日に手続きに呼び出され、「言われた通りの入学料をキチンと振り込まないと入学の権利が取り消されてしまう!」というマインドセットがされている保護者に、無理やりなムードに持ち込んで払わせるべきではないものだ。

 打ち合わせをした番組の担当者が「マルチと同じですね」と言っていた。ぼくは、落語の「付き馬」で、吉原に上がって乱痴気騒ぎをした客が翌朝勘定を見て、店の者に「おい、何かい? こん中にゃあ、あの、途中で『こんちは!』『どうも!』とか言って訳のわからない奴がたくさん来ていたけど、ああいうのも全部この勘定の中に入ってんの!?」と質すシーンがあるけど、酔客からドサクサに紛れて金をむしり取っていく、アレを思い出した。

 この部分がクローズアップされたことは、社会問題として意義があった。

 あれは「入学料とセットにすることをやめる」べきだ。

 少なくとも任意であることを明示して、とっくりと選択できるようにすべきだ。もちろんそこにはPTAも含まれる。

 安全の保険とか共済掛金のようなものもあるのだが、それも任意であることをよく示した上で、加入を問うべきだろう。

 

 まとめると、

  1. 教育費用に関わる部分(授業料・教科書代・教材費・給食費)の無償化
  2. 制服や学校指定かばんの廃止・自由化
  3. 団体会費の任意の徹底

 この3つの部分に整理することが必要である。

 

 

*1:例えば福岡市政では国に対する給食無償化を求める意見書には自民党や令和会(維新を含む)は反対するが、公明党は賛成する。共産党や市民クラブ(立憲・社民など)はもちろん賛成である。ところが、福岡市に無償化実施を求める請願では、共産党は全員紹介議員になるが、市民クラブは一部しかならず、自民党公明党・令和会は誰も紹介議員にならない。

*2:福嶋尚子は給食を「教育」として扱うのではなく、そもそも生存権の立場から考えるべきだとしている。これはこれで重要な議論だとは思うが、現時点では社会合意を得る上では「給食は教育の一環である」というロジックの方がわかりやすいとは思う。

*3:もちろん当面はこの部分を就学援助のような形でカバーするは必要なことだとは思うが。

公立高校でこんなにお金がかかるのはおかしくないか

 娘が入学する高校の説明会に行った。

 お金を用意しろと言われて「けっこうかかるもんだな」と当惑した。

 もちろん、それらは事前情報をしっかり読みこんでいれば、身構えることができたものだろうけど。

 まず3月末までに8万9000円振り込めと言われた。

 入学料などである。「入学料は県の条例にもとづき、納入することが定められております」などといきなり書かれているので、「振り込まないと入学取り消しか!」とビビってしまう。

 確かに入学料は納入が義務なのだろうが、実はそれは5550円に過ぎない。他の費用が凄まじいのだ。PTA入会金1000円、同窓会終身会費1万7400円、学校教育活動費5万890円なのであった。最大のものは「学校教育活動費」である。

 「学校教育活動費」とは一体何か。

 字面からして、すごいではないか。学校の・教育活動の・費用なのである。

 「そんなもの不要ですよ」とは絶対に言えない雰囲気

 ただよう義務感。必須感。

 もしこれを払わなければ、まず入学は取り消されるだろう…という親の不安心理を的確に突いてくる、素晴らしいネーミングである。ChatGPTで考えてもらったに違いない。*1

 

学校保健会の会費をなぜ俺が負担するのだ

 「学校教育活動費」は23項目から成っていた。

 家庭クラブ連盟費、模試料金、スタディサプリ、体育的行事、生徒氏名ゴム印、入学の手引き(印刷製本費)、体育祭応援スタンド代、個人・クラス写真代、小論文模試、県高等学校保健会費、県体育連盟負担金、地区高等学校生徒指導協議会費…。

 ふむ。

 パッと見て、今ぼくが読んでいるこの「入学の手引き」というご大層な印刷物への負担に違和感。なぜ保護者負担なのか。釈然としない気持ちになる。「ウェブとかに載せればタダでは」。そこにアクセスできない人にはプリントアウトして配ればいいじゃないか。無料で。

 加えて「高校保健会」「体育連盟」「生徒指導協議会」。

 俺が…? 「生徒指導」…?

 「高等学校保健会」とはなんであろうか。横に簡単な説明がある。「生徒の健康に関する調査研究の指導機関 年会費」だそうである。150円。日本学校保健会のHPを見るとPTAは構成団体のようであるが、PTAに加入しない場合は、そのお金は払う必要があるのだろうか。謎に包まれたままだ。

 同様に「高等学校生徒指導協議会費」「体育連盟負担金」…こういうものを全部保護者がいきなり(ほぼ)何の説明もなく負担せねばならないのだろうか?

 さらにこれとは別に様々な費用負担が続いた。

 「指定品」である制服はブレザー、スラックス、スカート、シャツ、ネクタイ、ベストで6万円以上かかった。これと別に夏の服が1万5000円近く。

 トレーニングシャツ・パンツも「指定店」での「指定品」だ。いわゆるジャージだと思うのだが、個人名や校名が入り合計で8000円かかった。

 体操服(夏用)も個人名が入り、「指定店」で、半袖シャツ・ハーフパンツ・上靴を1つずつでこれまた8000円近く。

 体育館シューズも3400円。これもまた「指定店」である。

 当日は、教科書などの物品購入代が5万円程度。そして、それとは別に電子辞書が3〜4万円かかった。

 いやー、こんなにいきなりお金がかかったら、本当に大変じゃないの?

 うちは払える。払えない家もあろう。払えても大変な家もあるだろう。

 払えるからいい、というものでもない。

 電子辞書は特別な仕様のようであったが、どうしてもそれでないといけないのだろうか。「紙の辞書でもよい」的なことを書いていたが、いざ授業が始まって電子ペースでやられたら子どもはついていけるのか? などと不安に思うから言いなりになって買うしかないのである。

 かろうじてPTAの入会金だけは「保留させてほしい」と言ったが…。

 

 いきなり「払え」と言われた費用の中には、様々な種類のものが含まれている。

  • 入学料のように条例で支払うことが定められているもの。
  • 教科書のように必須のもの。
  • 助教材費。
  • 服など指定店での指定品であるもの。
  • 保護者が関わるが任意であるもの。
  • 保護者が参加しているのかどうかさえよくわからず、単なるATM扱いされている恐れのあるもの。

 PTAの入会金を「保留」できたということは、たぶんこうした諸経費も入学料以外は、申し出れば「保留」できた可能性はある。しかし「学校教育活動費」などと銘打たれて一括して要求され、初対面の高校の説明会で手を挙げて説明を延々と求めて「保留」する勇気のある保護者は、まずいまい。

 教育にお金がかかる、という問題もさることながら、まともな説明もなく、「それ、保護者が払うべきものですか?」と言いたくなるところを、ほとんど有無を言わさない形で最初にお金を取り立てるこのやり方に、大いに不信感を抱いた。

 

 

「前衛」の福嶋尚子インタビューを読んで

 義務教育は無償であることが憲法でうたわれているが、高校はどうなのか。

 日本は2012年に国際人権A規約(13条2項b、c)の適用の留保を撤回した。

種々の形態の中等教育(技術的及び職業的中等教育を含む。)は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること。

とある通り、中等教育(日本の高校を含む)は「無償教育の漸進的な導入」を目指すことがうたわれているのである。

 

 共産党の理論誌「前衛」2023年4月号に福嶋尚子「学校給食費の無償化と増大する教育費をどう考えるか」という一文が載っていた。

 福嶋尚子は現在千葉工業大学准教授のようであるが、2019年に栁澤靖明とともに『隠れ教育費』(太郎次郎社エディタス)を書いた人である。

 

 

 『隠れ教育費』には例えば次のような一文がある。

 授業のなかで本当に必要性があって、ひんぱんに個人で使うものであれば私費負担にすることもありえるが、それでも負担は極力、最小限にしなくてはならない。

 あまり一般には知られていないが、教科書以外の教材を授業で用いる場合、学校は、教育委員会へ事前に届け出たり、承認を得たりする必要がある(地方教育行政の組織及び運営に関する法律33条2項)。…「補助教材の購入に関して保護者等に経済的負担が生じる場合は、その負担が過重なものとならないよう留意すること」と文科省は述べている(文部科学省初等中等教育局長通知「学校における補助教材の適正な取扱いについて(通知)」2015年3月4日)。

 つまり、補助教材を用いる自由が教師にはあるが、それが必要だからといって、無制限に保護者に費用転嫁してはいけないのだ。…

 学校が編成する教育課程は文部科学省が告示した学習指導要領を基準としており、教育委員会が認めているものであるから、教育課程に必要な教材はすべて公費で用意するべきである——これが大前提だ。しかし現状との乖離は大きい。(『隠れ教育費』p.87-89、強調は引用者、以下同じ)

 

 学校指定品の購入・着用を義務づける校則は、じつは、学校教育の入り口で子どもたちをそこから排除する機能を果たす可能性が高い。…多種多様の指定品が存在し、それを着用していないと学校の校門をくぐることすらできない、という意味だ。

 入学前に大量の指定品を購入しなければ、わが子が入学できない。だから、無理をしてでも購入する——。中学校の制服購入のために借金したことがきっかけで多重債務におちいり、無理心中を図った悲劇が現にある。価格の側面のみならず、購入プレッシャーも相当強いことがわかる。

 ましてや、学校指定品のおおいなる謎のひとつであるが、その学校の校長も、子どもも、保護者も、だれも選んでいないのに、「それ」が絶対的な存在として君臨していることがままある。何十年もまえの顔も知らない人たちが定めた学校指定品を、異動してきた教員たちは「これがこの学校の制服か」と金額も見ずに受け入れ、粛々と一律購入させ、購入・着用をしていない子どもに指導をおこなう。また、子どもや保護者の側も、言われるがままに購入し、指導されるがままに着用する。「だれも『この制服がいい』と選んでいない」*2のに、である。(同前p.52)

 

 ところが、このようなことを問う機会がない。

 多くの場合、PTAがそのような場として機能しないのである(機能しているPTAが世の中にはあることも承知しているが)。個人として学校に請願を出しても、ほとんどあしらわれてしまう。運動にして突きつける必要がある、と改めて感じた。

 

 

 福嶋は「前衛」のインタビューで次のように述べている。

私の経験でも、自分の子どもの学校で、びっくりすることがいっぱいありました。書道道具を一人一個持つ必要があるのかと思っていたところに、当たり前のように、書き初めの道具を買わなければならないということがありました。学校で一年に一回、体育館でみんなで書くという書き初めのイベントをおこなうので、その行事のために筆と長い下敷きを購入する。そういうことが疑問に思われないでおこなわれているわけです。それが子どものため、教育の充実につながっているのかと疑問に思う人がいて、声に出しても、それこそ「うるさい親がいる」と言われる。(p.86)

 そうなのだ。「うるさい親」扱い。

 個人でモノを言うことの限界をつくづく感じたのが小学校・中学校の保護者時代だった。保育園の頃はむしろ保護者会として運動していて、その差は歴然としている。

 それは単に運動としての力の問題だけではない。

 親、そして教員の中にもある、つまり市民の中に深く巣食っている「受益者負担主義」の思考をあばきたて、それと対決していくことが必要になるのだ。

給食費も、制服代も、教材費も、子どもが食べるから、着るから、家に持って帰るから私費負担という当たり前を疑っていかないと、支払っている側はいつの間にかどんどん支払う額が増えていく。支払わせている学校の側も多くの場合無意識なのです。(p.86)

 この「前衛」の福嶋インタビューに出てくるが、ある研究では、公立小学校で学校運営にかけているお金の公費と私費の比率は1:5、中学校は1:10、高校では「私費の割合がもっと増えます」(福嶋)。確かに途方もなく膨らんでいく。憲法で義務教育が「無償」と規定された小中学校でさえこの有様なのだ。

 では、ぼくらはどのような無償・公費負担のあり方を目指すべきなのだろうか。

 いま統一地方選挙が闘われていて、学校給食の無償化が大いに争点になっている。

 福嶋は「前衛」でこのことについて書いているわけだが、福嶋の次の言葉を聞いたとき、ぼくはよく意味がわからなかった。

 どこに行っても、私は、「憲法二六条二項後段の無償制との関連で、義務教育の範疇に給食が入るから無償ですか?」と聞かれます。もちろん、その論点自体は成立すると思いますが、今は、その点よりも、そもそも無償化は当たり前だと考えた方がいいと考えています。つまり、給食が義務教育のなかに入っているかどうか、食育かどうかは横に置いても、子どもたちは、一日中学校にいるのだから、少なくともお昼ご飯ぐらいは無償で出すのが当たり前だということです。その時間その場にいなければいけないのであれば、当たり前のようにお昼時には食事が出され、トイレに行きたくなればトイレが使え、具合が悪くなれば保健室に行くことができる。私は「生存権保障」と言っていますが、子どもが当たり前に人間として学校のなかにいられる空間にするために、給食は無償で、どんな家庭の子も気にせず安心して食べられることが必要だと思っています。(p.84)

 いや、もちろん書いてあることはわかる。

 だけど、「憲法で『義務教育は無償』って書いてあるから、給食も教育・食育なのであり当然無償化だろう」という議論と別に「そもそも無償化は当たり前だ」というのは…一体? こう…なんとなく…ぼんやりとはわかるのだが…今ひとつクリアに理解できないのだ。

 しかし、後で、福嶋が教育費をめぐってどういう状態を理想とするかを述べている箇所を読み、ああそういうことなのかと合点がいった。

 給食費の無償化が典型なのですが、私は、学校に必要なものは基本的に揃っているのが理想だと思っています。子どもは手ぶらで学校に行って、学校に行ったら教材がある、机も椅子もある、先生が授業をしてくれる。お腹が空く時間になったら給食が出てきて、トイレに行きたくなったらトイレに行って、トイレットペーパーも気にせず使える。生理用ナプキンも置いてあって、女の子は個室に入ってそれを誰にもわからず安心して使える。具合が悪くなったら保健室に行って、当たり前だけれど保健室のベッド利用料などは取られない。(p.95)

 

教育費問題を自分の問題として取り組みたい

 ぼくはこのインタビューを読んで、自分の教育費問題でのスタンスが変わった。

 というのも、教育費問題はどうしても「ぼく(の家庭)は払えるから」「それほど困っていないから」という意識がどうしても先に来てしまっていたのだ。

 上記のようなことを書いても「高くないだろ」「私は払える」という感覚を覚える人はいるだろう。

 しかしそうではない。

 福島の言うように、「学校は〈子どもの権利が満たされる場所〉」(p.95)を目指す運動でなければならない。福嶋が述べているように、ギガスクール構想でタブレットやパソコンにのみ一時的に大量にお金が降り注いでいる「不条理」も、その観点から批判することができる。

 教育の無償化・公費化をすすめる運動を、前回のエントリであげた教育の中身を問い直す運動とともに自分自身が広げてみたい。まずは身近で同志を集めてみよう。

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*1:ちなみに「『このお金を絶対に払わないとその学校には入れないぞ』と思わせる費用の名前を考えてください」とChatGPTで聞いたら「そのような費用は、『入学手続き料』と呼ばれることがあります。また、『入学保証金』という名前で呼ばれることもあります。これらの名前は、学校が入学を保証するために必要な費用を意味しています。ただし、『入学保証金』は、返金可能な場合とそうでない場合がありますので、具体的な条件によって意味合いが異なる場合があります」と回答された。

*2:最近は生徒が決定に参加して制服を決めたりしているケースは増えてきたし、ジェンダーフリーの観点から制服を新デザインにする動きが大きくなってきた。うちの娘が通う高校も最近制服を新しくしたが、指定品・指定店制度は変わらない。

娘が中学校を卒業し、新しい進路に向かうけども

 娘が中学校を卒業し、新しい進路に向かう。

 中1が終わったときに次のような記事を書いたが、そこからここまでこられたこと自体が奇跡のようだ。2022年の1年間で自殺をした小中高生は512人と過去最悪になったという。

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 それにしたって、娘が死んだり壊れたりしなかったことを安堵するのは、親心として仕方がない気がするのだが、例えば戦災で多くの子どもが亡くなっているというのに「ああ、自分の子どもは死ななかった。よかったー!」という心情になるのはどうにもおかしなことだと思う。戦争の代わりに新自由主義という災厄がぼくらの社会にはある。その社会という枠組み自体が問われないといけないのに、個体が生存競争に勝ち抜いたかどうかだけにしか関心がいかないその思考方法に自分自身がハマっているのだと思うと暗澹たる気持ちになる。

 

 振り返ってみて、結局高校受験間際になって親として娘と話していたことは、「偏差値」であったし「効率的な受験勉強」のことばかりだった。地理の知識、歴史の知識、公民の知識、そういうものをぼくら生活している現実と全く切り離して暗記させることばかりやっていた。それって、「ノートの空白を埋めろ」とせっついた、中1の時の娘の担任とどこが違うのだろう。

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 そんな時、藤のよう『せんせいのお人形』を久々に読み返していたら、難関である編入試験に合格できそうもない主人公・スミカに対して、頭脳明晰な同級生の辺見類が勉強を教えるシーンがあった。それまでスミカについてきた家庭教師たちが効率のよい解法や受験勉強を教えようとして失敗してきたのに対して、辺見は数の不思議・数というものの面白さを示すところから話を始める。

 それをみていた保護者(照明)は「数学に興味を持たせるところからか…」と考える。

 ぼくもその部分を読んでいて、そんなことをしていてはおよそ間に合わないのではないだろうか、とじれったい気持ちになる。目の前の受験で悩んでいる人に、「勉強に興味を持つところから始めても…あんまりにも迂遠じゃないのか?」という白けた気持ちになるのだ。

 しかし、スミカはそこから照明との食事の際に会話の話題をして、古代ギリシアの哲学にたどり着く。

 スミカは「最近授業で聞いたことのない話ばっかり聞く…」と思う。

 そして教科書には何が書いてあって、何が書いてないのかという興味へ繋がれる。

 やがてスミカは教科書と事典から、数学と哲学がつながっていたことに気づき、神話や神を媒介しなければ世界を説明できなかった原始的な世界観から脱却するために数学が生み出されたことに気づくのである。

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 そんなにうまくいくわけないじゃないか!

 …と思う。

 これはつくり話だ。現実はそんなに甘くはない。

 しかし、である。

 しかし、これは大事な理想ではないのか。

 短期間でそこに到達できなかったとしても、自分は他の保護者や教師たち、住民たちと本当はそういうことを学んで、できうれば子どもたちもそこに巻き込んで行けるようなそういう運動が本当は必要ではなかったのか? とも思ったのだ。

 受験勉強という枠組みから脱出できない知の在りようを問い直して、学問が世界を解釈し生きていくために必要なことだと思えるような、そういう楽しさをまずは自分が、(大人である)自分たちが獲得していく、そういう運動や作業が本当はほしかった。とぼくは思い至った。

 だけど、そんなことにすら気付けないうちに中学生だった娘の保護者の期間は終わってしまった。

 PTAがそんな取り組みの枠組みになるような気が、全くしない。かといって、自分でその運動を起こしていくには時間も手段もなさすぎた。自分一人でそれを起こしていけばいいのだろうか?

 「しんぶん赤旗」の連載小説「立春大吉」は、愛知県の奥三河での地域医療をめぐる住民運動の物語であるが、その地域医療をめぐる運動が、実は戦前史、戦争、東日本大震災不登校など実に様々な問題とつながっていることを示していく形式、いわゆる多声性を持った小説になっている。

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 今ちょうどこの小説は、不登校の子どもたちが主人公の一人・雄介の主宰する作文教室に通うシークエンスを描いている。雄介が受講者の子どもの母親の一人に向かってこういうくだりがある。

「……言葉は不思議です。自分を行動に駆り立てたり、気持ちを表現できたりする。僕は、就職活動で何十社も落ちたけど、その悔しくて苦しい気持ちを日記に書くことで乗り越えられた気がします。ここでは読書と作文に慣れてもらいます。慣れないと苦行になっちゃう。で、作文の基礎は、やはり日記です。こんなこと、学校では教えてくれません。でも学校を出た後でも大丈夫です。読むことと書くことは、いつでもどこでも挑戦できることです。もちろん大人でも…」(「しんぶん赤旗」2023年3月25日付)

 辺見が教えスミカがたどり着いたこと、あるいは、雄介が作文教室で意図しようとしていたことは全然別のことのような気もするが、同じようなことにも思える

 生きていく上で人間は世界を解釈しなければならず、そのために学問があり、学校の知はそこと切り離されてはおらず、その一部を構成しているという体感を得ることが大切なのだ。

 学習参考書の会社で働く人たちを描いた佐原実波『ガクサン』の3巻には、主人公・茅野うるしの姉と娘が登場する。娘(うるしの姪・ゆかり)は小学校5年だが、勉強に興味が持てない。

 うるしはこれがいいのではという参考書を提示するのだが、ゆかりは興味を全く持ってくれない。もう一人の主人公であるうるしの同僚・福山は、「…興味うんぬん以前に 『読む』ための基礎ができていないのでは?」とうるしの姉にアドバイスする。

 読むことができない、つまり読むために細かに設けられたルールを知り、自覚的にそれを操れないために、大きな差が開いている。

 それは中学受験のためのお勉強ができないということではなく、生きていくための世界解釈ができないことを意味するのだという趣旨のことを福山が説く。

 画面を見るとわかるが、ここには個人の生存競争としての焦燥と、個人が共同して世界を構成していくさいの問題の提示が同時に行われている。あくまで前者にそれは偏っているのだが、ここには「競争社会の落ちこぼれになっている」という母親の焦燥が描かれると同時に、世界への接続が断たれているという普遍的な問題が描かれている。

佐原『ガクサン』講談社、3巻、p.32

同前p.33

  娘が中学生だった3年間にぼくは保護者として何も(社会的運動が)できなかった。だけどそれは課題を見つける3年間だったような気がする。だからと言ってこれからすぐに何かできるというわけではないが。しかし、別に娘が生徒や学生であるという「当事者性」の上に運動を築いていく必要は必ずしもないことを気づいた3年間でもあった。

 

 

本くらいの分量を与えられなければ自分の説は人に示せない

 ひとの考えは会議で変わるだろうか。

 間違いなく変わる。…ことがある。

 いつも変わるとは限らないが、変わることはあるよね。

 数分の発言であっても「ああ、なるほどそうだったのか」と思って、反対が賛成になったり、賛成が反対になったりする。

 しかしである。

 そうはいっても、数分の発言、数百字の短文でひとの考えを変える、認識を覆すのは難しい。至難だと言っていいだろう。

 キレのいい発言や文章なら、ごく短い言葉で認識の急所を突くことはできる。けれども、そんな芸当ができるのはこの世でほんの一握りの人ではないだろうか。

 従来広く行き渡っていた言説や認識を覆すには、体系的な展開が必要である。旧説を断片的に外から叩いたって、そんなものはあまり力にはならない。

批判とは、なにかものを外部からたたくというのではなく、いままで普遍的だとおもわれていたものが、じつはもっと普遍的なものの特殊なケースにすぎないことをあきらかにすることです。そのものを普遍的なものの一モメントにおとし、没落させる、これが批判ということです。(見田石介『ヘーゲル大論理学研究』)

体系を持たぬ哲学的思惟はなんら学問的ものではありえない。非体系的な哲学的思惟は、それ自身としてみれば、むしろ主観的な考え方にすぎないのみならず、その内容から言えば偶然的である。いかなる内容にせよ、全体のモメントとしてのみ価値を持つのであって、全体をはなれては根拠のない前提か、でなければ主観的な確信にすぎない。(ヘーゲル『小論理学』)

 だから、展開する必要がある。

 具体的には、「本」にしなければならない

 そうでなくても、「講義」とかのような体裁を必要とするだろう。

 だから、マルクスだって、経済学批判として『資本論』という大著を書いたのである。

 

 会議でいくら自由に発言ができても、それだけでは自由な議論ができる環境とは言えない。本を出せたり、人を集めて講演をしたり、そういう体系を示す機会が与えられて、初めてひとは自由な議論ができる環境が保障されるのではないだろうか。

 ましてや従来の説が圧倒的物量で展開される中で、自分は本すら書けず、数分の発言時間しか与えられないような条件であれば、その非対称性は明らかであり、およそ「自由な議論」たりえない。

 それは、一般社会であろうが、小さなコミュニティであろうが、共通の目的で結ばれた中ぐらいのゲゼルシャフトであろうが、変わらないだろう。*1

 

 言論の自由表現の自由の一部を構成する。

 表現の自由は単に「どういう言論でも自由に述べてくださいね=どんなことでも言える」という質的側面だけではなく、出版の自由、集会の自由のような量的な側面も含んでいる。自分以外の人に広く伝え、認識を交わし合い、豊かな議論をするためには、本を出したり、講演したり、自由に集まって争論をすることは欠かせないのではないだろうか。*2

*1:“階級社会であるがゆえに出版や集会のような自由は必要だが、同じ目的を持って集まったコミュニティでは会議によって十分意思疎通できる”という考えがあるかもしれないが…。

*2:ある人が本を出すときに、その一隅に入れらる「本書は著者の個人的見解であり、著者が属している組織・企業の意見を代表するものではありません」というエクスキューズは、結社と個人の自由を両立させる、一つの知恵なんだろうなと思っている。

ドイッチャー『武力なき予言者・トロツキー』

 ドイッチャー『武力なき予言者・トロツキー』(新潮社)。1964年出版のもので、神田の古本屋で買って大昔に読んだままにしていた。

 ドイッチャーのトロツキー三部作のうち、この巻は、トロツキーソ連の権力から追い落とされ、国外に追放されるまでが描かれている。

 書評…じゃねーよなあ。

 ただの抜粋。そして簡単なメモ。

それというのも、レーニンは、何か問題が起るたびに、その説得力や手腕によってたいてい自分の提案に多数票を獲得していたからだった。レーニンの場合は、そのために政治局内になんらかの自分の派閥を作る必要はなかった。一九二二年十二月か、それとも、レーニンがついに政治局の仕事に参加できなくなった一九二三年一月に、起きた変化は、トロツキーが政治局内の多数を把握し、レーニンにとって代れるようになるのを防止することを唯一の目的にした、特殊な派閥が生まれたことだった。その派閥というのは、スターリンジノヴィエフカーメネフの三頭連盟であった。(ドイッチャー『武力なき予言者・トロツキー』新潮社、p.91)

三頭連盟の者たちは彼らの動きを協定し、一致して行動しようと誓っていた。彼らが一致して行動すれば自動的に政治局を支配できた。レーニンがいない場合、政治局は三頭連盟の者たちと、トロツキー、トムスキー、ブハーリンの六人で構成しているにすぎなかった。かりにトロツキーがトムスキーとブハーリンを味方につけたとしても、依然として票は半々に分れるだけのことだった。だが、トロツキーブハーリンとトムスキーがなんの派閥も作らず、それぞれが独自の考えで投票しているかぎりは、そのうちの一人が三頭連盟に賛成票を投じるなり棄権するなりしただけで、彼らは多数票が得られるわけだった。(同p.96)

 ついに四月半ばに第十二回党大会が開かれた時には、大会の開催がトロツキーに対する敬意を自然に吐露させるための機会を提供したかたちになった。通例どおりに、議長は全国の党細胞や、労働組合や、労働者や学生の集団から送られてきた挨拶を読み上げた。ほとんどどのメッセージにもレーニントロツキーへの讃辞が書きこまれていた。ただ時折ジノヴィエフカーメネフに言及した挨拶があっただけで、スターリンの名前にいたっては、ほとんど出てこなかった。メッセージの朗読は、幾つかの会議のあいだも引き続き行われ、かりにいま党が選択を求められた場合は、誰をレーニンの後継者に選ぶかは、疑問の余地がなさそうだった。

 三頭連盟の者たちは驚き、当惑した。(同p.109、強調は引用者)

 「政治局」という互選で選ばれた少数の幹部集団の中でこそ、派閥(分派)は形成しやすかったんだなあ。そして、党全体ではトロツキーの人気は圧倒的だったんだなあ。などと読んでいて思った次第。

 そりゃそうである。少数者なら話がつけやすい・工作がしやすいから。それは自明なほどに自明。

ぽんとごたんだ『桐谷さん ちょっそれ食うんすか!? 』3巻

 まだ年賀状をやめていないのだが、おそらく受け取る方はすでに「年賀状仕舞い」をしているだろう人が多く、こちらが出した後に、ポツンと返ってくることがある。そういう場合、今年出した年賀状への“反応”などが書いてあって、それはそれで楽しみではある(そうでない人は1年越しにやり取りすることがある)。

 

 今年の年賀状で「コオロギを食べてみたい」という趣旨のことを書いたら、ヘタな近況報告よりもそれに反応する人が結構いて、興味深かった。

 

 昆虫食は話題になっているからぼくも食べてみたいと思いつつ、なかなか食べられない日々が続いていた。

 先日、無印良品で「コオロギせんべい」と「コオロギチョコ」をようやく手に入れて食べた。

 うんまあ、せんべいの方は完全に「エビせんべい」だよね。

 実際コオロギパウダーだけじゃなくて海老粉も入っているようだし。

 チョコの方はもうチョコの味しかしない。

 「これなら全然いけるじゃん」とは思うけど、果たして肉や魚の代わりになるのかという視点からタンパク源としての昆虫ということを考えると、いささか疑問は残った。

 具体的に考えてみればわかるけど、例えば「コオロギせんべい」を食べることでタンパク質摂取ができるのかと考える。

 コオロギせんべいの表示を見ると、1袋でタンパク質は5.5g。

 ぼくはタンパク質を1日60g以上取りたいので、3食のうち1食に20g前後取りたいと思っている。20g取れない時もあるので、まあ、おやつで補うために食べるのはいいんだけど、それで216kcalも消費するのはちょっと考えちゃうなと思う。

 コオロギチョコの場合はタンパク質が15.9gも入っていて素晴らしいのであるが、脂質が8.6gもあり、中性脂肪の値に気をつけているぼくとしてはこれはこれでまた悩んでしまう。

 そのまま食べられて、タンパク質が多くて、しかもうまくて、飼育などにあまりエネルギーを使わない、そんな食べ物として昆虫は考えられるのだろうか?

 

 なんでも食べる雑食…というか悪食マンガ、ぽんとごたんだ『桐谷さん ちょっそれ食うんすか!?』(双葉社)の3巻には、コオロギの佃煮が出てくる。

 この記事にもあるように、多くの人が昆虫食を避けたいと思っている。

www.j-cast.com

調査結果によれば、さまざまな食品に対する選択肢「絶対に避ける」「できれば避ける」をあわせた数字が最も多かったのは「昆虫食」(88.7%)だったという。  

 記事には「なぜ昆虫食に対して抵抗感を示す人が多いのか」という問いが立てられているものの、原因は分析するほどでもないだろう。ビジュアルとそことリンクした食感だ。

 ぽんとごたんだ『桐谷さん ちょっそれ食うんすか!? 』3巻に、コオロギの佃煮を食べる話が登場するけども、ビジュアルと食感をネタにしている。

ぽんとごたんだ『桐谷さん ちょっそれ食うんすか!? 』3、p.15、双葉社

 

前掲書、p.35

 嫌悪感をネタにしているわけだから、当然そこがポイントとなる。上記の通り「フニャッ」という半ナマの食感に激しく嫌悪感を抱いている先生に対して、桐谷さんが馬鹿げた食感レポをするのが可笑しい。

 『桐谷さん』がすごいのは、こうした取材マンガにありがちな衛生管理された養殖コオロギを食べるんじゃなくて、野生の日本のコオロギを食べていることだ。マンガにポイントが書いてあるが、そのまま食べると臭みがひどいそうなので下処理が必要になる。(その仕方は実際に読んでほしい。)

 

 ぼく自身は、イナゴの佃煮やハチノコなどを居酒屋で食べたりするので、見た目・食感などにそれほど嫌悪感は持っていない。

 いや、さすがに手塚治虫の『火の鳥』に出てくるゴキブリは、衛生管理されていてもちょっと嫌かな。手塚はまた、それをビジュアル的にすごく嫌そうに描くんだわ…。軽いトラウマ。

手塚治虫火の鳥・太陽編』p.287、KADOKAWA

 「ザラザラ」じゃねえwww

 コオロギせんべいに入っているコオロギパウダーってどうやって作るのか知らないけど、もしただコオロギを乾燥させてそれをマッシュしているだけなら、まあそれでいいわけである。問題はそれをどう美味しく食べるかということなのだが、海老せんべい的に食べると他の不要なカロリーを多く取らないといけないなと思った。チョコもまた然りである。

 例えばコオロギパウダーがエビのような味だけであるなら、そのまま味噌汁に入れて食べたいと思うんだけど、そういうふうな売り方はしていないのだろうか? あったら買いたい。

 自重筋トレはいまだに続いているのだが、やった後にプロテインを飲む。その時に、コオロギパウダーを使ったプロテインが飲めればいいんだけど、それは製品開発的に無理そうだな。

 

 ところで上述の記事の中で

昆虫食が受け入れられるためにはどのようなきっかけが必要になるのか。吉田氏によれば、(1)昆虫があくまでも嗜好品であると認知されること(2)美味しい昆虫が広く食べられること――が重要だという。

と識者(食用昆虫科学研究会の吉田誠)が指摘しているが、「昆虫があくまでも嗜好品である」という意味が少しわからない。もともとエネルギーをふんだんに使う肉などの代替品として考えられているわけだから、「嗜好品」=「栄養の摂取を目的としてではなく、好き好んで摂取する飲食物」ということではアカンのではないか。

吉田氏は、「昆虫は採捕にせよ養殖にせよ、安いタンパク源ではなく、高価な嗜好品です。タイではコンビニのお酒のおつまみコーナーで売られており、食べたい人が食べるものです」と説明した。

 しかし、吉田の話をあえて解釈してみると、

  • 昆虫は代用品として「イヤイヤ食べる」イメージがある
  • しかしそうではなく、美味しくて好き好んで食べるものと考えるべきだ

という意味になる。吉田が言いたいことのポイントは、「イヤイヤ食べるな。うまいんだ」「食べなきゃと思うから強制感が強くなる。そこをやめてほしい」ということを強調したかったのではなかろうか。

 そうであるとすれば、肉の代わりに(安く、環境負荷が小さく)タンパク質を摂取する役割はいささかも変わらない、と。

 でも、もしそうなら「嗜好品」という強調は、やはりおかしいと思う。

 

 

 

たらちねジョン『海が走るエンドロール』4

 村上春樹『女のいない男たち』も結局メモをアップしただけになったんだけど、マンガの感想も何かまとまらない。まとまらないうちに、熱量が下がっていって、アップする機会を失ってしまう。そういうのってもったいないと思う。

 断片でもいいから上げておこうと思った。

 もちろん、断片を煮詰めて形にすることは大切だから、むやみにアウトプットしないほうがいいという考えもある。

 どっちだかわかんない。

 わかんないので、今日のところは、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくってみようと思う。

 

 

 65歳の主人公が大学に入って映画を撮る話。

 主人公・うみ子と知り合った学生・海(カイ)が監督となって映画を撮るくだりで、海の余裕のなさゆえに撮影現場の空気がめちゃくちゃ悪くなる。

 俳優の稼業も始めている海は、後日、自分も出演する映画での、有名なプロの監督と会った際に、「監督に必要なことってなんだと思いますか」と尋ねる。

 監督は

めちゃくちゃ気を遣えること

と述べる。何か創作的な心構えや技術的なコツのようなものが来るのかと思いきや、実は海が一番欲しい答えを的確に返す。

まず 怖い監督の下で最高のパフォーマンス出せなくない?

俺が ダサいとか いい人だとか じゃないのよ

コスパが悪いでしょ 純粋に

 「なんか夢がないなあ」と監督のそばにいた人が笑いながらつぶやくのだが、海は「ありがとうございます」と頭をさげる。「響いたっぽいよ」と監督はにこやかに傍の人に言う。

 そして、海は翌日、自分が監督をしている撮影の現場で、スタッフたちに謝るのである。

 海が素直にこの言葉を受け取るのがいい。

 なんだろう。なぜ今俺の心にこれが響くのか。

 全体を仕切る人が「めちゃくちゃ気を遣え」て、スタッフの「最高のパフォーマンスを引き出す」って、うん、当たり前だけど大事なことだよねと思った。威圧したり、攻撃したりするような環境で働きたいとは思わない。怖い人のもとでは働きたくないんだよ。

 海がいつもは無表情で、少し笑ったりして、感情が出てくるのがかわいい。そのかわいさが、ぼくが他人に求めているし、今自分にない素直さなんだよ、とか思ったりしているんだ。

たらちねジョン『海が走るエンドロール』4、秋田書店、Kindle67/165

 「求められること以上のことを返す」、そういう人しかいない現場。それがプロの現場だと海は気付くけども、「求められること以上のことを返す」というパフォーマンスを引き出せるような「気の遣い」方をするのが監督ってことだよね。もちろん、個々のスタッフはそういう能力を持っていることが前提なのだろうけど、そこまでいかなくてもその人の最高のパフォーマンスを引き出せるようにすることが役割だ。

 スタッフは自分の思い通りに引き回す道具じゃないのである。

 そりゃあロジックで監督が描く通りの動きをしないとイライラするのかもしれない。だけど、別に映画のような創作に限らず、集団で物事をするということは、監督者の思惑さえ乗り越える、個々の力の合成力なのだから、全く予期せぬ力を引き出すために監督者は存在する。そういう弁証法を理解できなければ、監督者としては失格なのだろう。

 自分の思い通りに引き回そうとして怖いだけの監督者。困ったものである。

 

 うみ子が映画を撮ることを、いろんな人が応援したいなと思うシーンもある。

 そこでうみ子は

「物語」を人は応援したくなる

と感じる。

 これはマーケティングなどでよく聞かれる話だけども、最近リモート読書会のために読んでいる加藤陽子奥泉光『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』での次の一文を思い出す。

われわれは物語の枠組みなしに現実を捉えることができないという問題がある。たとえば、こうなってああなって、だからこうなってああなったんだ、といった因果性の物語からわれわれは逃れられない。物語ぬきに現実を捉えることができない。(奥泉・加藤『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』p.13、河出書房新社

 ぼくの振る舞いはどのような「物語」として把握されるのか、にいま関心がある。

 

 海が俳優をしていることについて、実家の両親(というか父親)に怒られ、それを説明しに実家に戻るシーンがある。そのとき、うみ子は衝動的に一緒に実家へ行く電車に乗ってしまう。

 夜中に海とともに神奈川の田舎駅に着いたうみ子は次のように感じる。

衝動は大事にすべきだ

 少し前までぼくはそういうことにあまり同意できなかった。今でも十分に同意はできないけども、衝動的に感じたことの中には確かに大事な成分が含まれている。そのことを押さえつけてしまっていいのか、取り出して向き合うべきなのか、今も定まらない。

 

 最後に、うみ子と海の関係。

 ぼくはすぐに脳内で性愛や恋愛の話にしたがる。

 しかし、この2人は、そこに行きそうで行かない。いや…そもそも行きそうにない。ぼくの頭の中だけで「そこに行くかも。行ってほしい」という願望があるだけなのだが、作品はそれを強く拒んでいる。

 セックスのようなものに還元したがるぼくの脳に強いブレーキをかけながら読まされているのである。

 恋愛や性愛に持ち込まない関係を描こうとする作家(特に女性作家)は少なくないように思うが、「そういう読みができるようにしてね」とたしなめられれているような気がする作品だ。