たらちねジョン『海が走るエンドロール』4

 村上春樹『女のいない男たち』も結局メモをアップしただけになったんだけど、マンガの感想も何かまとまらない。まとまらないうちに、熱量が下がっていって、アップする機会を失ってしまう。そういうのってもったいないと思う。

 断片でもいいから上げておこうと思った。

 もちろん、断片を煮詰めて形にすることは大切だから、むやみにアウトプットしないほうがいいという考えもある。

 どっちだかわかんない。

 わかんないので、今日のところは、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくってみようと思う。

 

 

 65歳の主人公が大学に入って映画を撮る話。

 主人公・うみ子と知り合った学生・海(カイ)が監督となって映画を撮るくだりで、海の余裕のなさゆえに撮影現場の空気がめちゃくちゃ悪くなる。

 俳優の稼業も始めている海は、後日、自分も出演する映画での、有名なプロの監督と会った際に、「監督に必要なことってなんだと思いますか」と尋ねる。

 監督は

めちゃくちゃ気を遣えること

と述べる。何か創作的な心構えや技術的なコツのようなものが来るのかと思いきや、実は海が一番欲しい答えを的確に返す。

まず 怖い監督の下で最高のパフォーマンス出せなくない?

俺が ダサいとか いい人だとか じゃないのよ

コスパが悪いでしょ 純粋に

 「なんか夢がないなあ」と監督のそばにいた人が笑いながらつぶやくのだが、海は「ありがとうございます」と頭をさげる。「響いたっぽいよ」と監督はにこやかに傍の人に言う。

 そして、海は翌日、自分が監督をしている撮影の現場で、スタッフたちに謝るのである。

 海が素直にこの言葉を受け取るのがいい。

 なんだろう。なぜ今俺の心にこれが響くのか。

 全体を仕切る人が「めちゃくちゃ気を遣え」て、スタッフの「最高のパフォーマンスを引き出す」って、うん、当たり前だけど大事なことだよねと思った。威圧したり、攻撃したりするような環境で働きたいとは思わない。怖い人のもとでは働きたくないんだよ。

 海がいつもは無表情で、少し笑ったりして、感情が出てくるのがかわいい。そのかわいさが、ぼくが他人に求めているし、今自分にない素直さなんだよ、とか思ったりしているんだ。

たらちねジョン『海が走るエンドロール』4、秋田書店、Kindle67/165

 「求められること以上のことを返す」、そういう人しかいない現場。それがプロの現場だと海は気付くけども、「求められること以上のことを返す」というパフォーマンスを引き出せるような「気の遣い」方をするのが監督ってことだよね。もちろん、個々のスタッフはそういう能力を持っていることが前提なのだろうけど、そこまでいかなくてもその人の最高のパフォーマンスを引き出せるようにすることが役割だ。

 スタッフは自分の思い通りに引き回す道具じゃないのである。

 そりゃあロジックで監督が描く通りの動きをしないとイライラするのかもしれない。だけど、別に映画のような創作に限らず、集団で物事をするということは、監督者の思惑さえ乗り越える、個々の力の合成力なのだから、全く予期せぬ力を引き出すために監督者は存在する。そういう弁証法を理解できなければ、監督者としては失格なのだろう。

 自分の思い通りに引き回そうとして怖いだけの監督者。困ったものである。

 

 うみ子が映画を撮ることを、いろんな人が応援したいなと思うシーンもある。

 そこでうみ子は

「物語」を人は応援したくなる

と感じる。

 これはマーケティングなどでよく聞かれる話だけども、最近リモート読書会のために読んでいる加藤陽子奥泉光『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』での次の一文を思い出す。

われわれは物語の枠組みなしに現実を捉えることができないという問題がある。たとえば、こうなってああなって、だからこうなってああなったんだ、といった因果性の物語からわれわれは逃れられない。物語ぬきに現実を捉えることができない。(奥泉・加藤『この国の戦争 太平洋戦争をどう読むか』p.13、河出書房新社

 ぼくの振る舞いはどのような「物語」として把握されるのか、にいま関心がある。

 

 海が俳優をしていることについて、実家の両親(というか父親)に怒られ、それを説明しに実家に戻るシーンがある。そのとき、うみ子は衝動的に一緒に実家へ行く電車に乗ってしまう。

 夜中に海とともに神奈川の田舎駅に着いたうみ子は次のように感じる。

衝動は大事にすべきだ

 少し前までぼくはそういうことにあまり同意できなかった。今でも十分に同意はできないけども、衝動的に感じたことの中には確かに大事な成分が含まれている。そのことを押さえつけてしまっていいのか、取り出して向き合うべきなのか、今も定まらない。

 

 最後に、うみ子と海の関係。

 ぼくはすぐに脳内で性愛や恋愛の話にしたがる。

 しかし、この2人は、そこに行きそうで行かない。いや…そもそも行きそうにない。ぼくの頭の中だけで「そこに行くかも。行ってほしい」という願望があるだけなのだが、作品はそれを強く拒んでいる。

 セックスのようなものに還元したがるぼくの脳に強いブレーキをかけながら読まされているのである。

 恋愛や性愛に持ち込まない関係を描こうとする作家(特に女性作家)は少なくないように思うが、「そういう読みができるようにしてね」とたしなめられれているような気がする作品だ。