ドイッチャー『武力なき予言者・トロツキー』

 ドイッチャー『武力なき予言者・トロツキー』(新潮社)。1964年出版のもので、神田の古本屋で買って大昔に読んだままにしていた。

 ドイッチャーのトロツキー三部作のうち、この巻は、トロツキーソ連の権力から追い落とされ、国外に追放されるまでが描かれている。

 書評…じゃねーよなあ。

 ただの抜粋。そして簡単なメモ。

それというのも、レーニンは、何か問題が起るたびに、その説得力や手腕によってたいてい自分の提案に多数票を獲得していたからだった。レーニンの場合は、そのために政治局内になんらかの自分の派閥を作る必要はなかった。一九二二年十二月か、それとも、レーニンがついに政治局の仕事に参加できなくなった一九二三年一月に、起きた変化は、トロツキーが政治局内の多数を把握し、レーニンにとって代れるようになるのを防止することを唯一の目的にした、特殊な派閥が生まれたことだった。その派閥というのは、スターリンジノヴィエフカーメネフの三頭連盟であった。(ドイッチャー『武力なき予言者・トロツキー』新潮社、p.91)

三頭連盟の者たちは彼らの動きを協定し、一致して行動しようと誓っていた。彼らが一致して行動すれば自動的に政治局を支配できた。レーニンがいない場合、政治局は三頭連盟の者たちと、トロツキー、トムスキー、ブハーリンの六人で構成しているにすぎなかった。かりにトロツキーがトムスキーとブハーリンを味方につけたとしても、依然として票は半々に分れるだけのことだった。だが、トロツキーブハーリンとトムスキーがなんの派閥も作らず、それぞれが独自の考えで投票しているかぎりは、そのうちの一人が三頭連盟に賛成票を投じるなり棄権するなりしただけで、彼らは多数票が得られるわけだった。(同p.96)

 ついに四月半ばに第十二回党大会が開かれた時には、大会の開催がトロツキーに対する敬意を自然に吐露させるための機会を提供したかたちになった。通例どおりに、議長は全国の党細胞や、労働組合や、労働者や学生の集団から送られてきた挨拶を読み上げた。ほとんどどのメッセージにもレーニントロツキーへの讃辞が書きこまれていた。ただ時折ジノヴィエフカーメネフに言及した挨拶があっただけで、スターリンの名前にいたっては、ほとんど出てこなかった。メッセージの朗読は、幾つかの会議のあいだも引き続き行われ、かりにいま党が選択を求められた場合は、誰をレーニンの後継者に選ぶかは、疑問の余地がなさそうだった。

 三頭連盟の者たちは驚き、当惑した。(同p.109、強調は引用者)

 「政治局」という互選で選ばれた少数の幹部集団の中でこそ、派閥(分派)は形成しやすかったんだなあ。そして、党全体ではトロツキーの人気は圧倒的だったんだなあ。などと読んでいて思った次第。

 そりゃそうである。少数者なら話がつけやすい・工作がしやすいから。それは自明なほどに自明。