「星灯」No.9で「ドリン・ドリン!」という小説を書きました

 同人誌「星灯」No.9(2022年4月号)で「ドリン・ドリン!」という小説を書きました。

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 えっ、紙屋が小説とかwww

 って呵々大笑の貴兄。

 そうじゃないんです。いや、小説なんですけど…。

 

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 左翼組織の今後のあり方、もっと言えば「ビジネスモデル」「マネタイズ」とか考えていたら、キャラクーが出てきてなんか考えたり、つぶやいたりした方がやりやすいな、と思ったのでそうなったまでなんです。

 まさに「思想の道具としての小説」です。

 カテゴリーが、ヒトの着ぐるみ着ているような、そういうやつです。

 

 日刊紙って紙でなく完全電子にして大幅値下げしたらどうか。

 とか。

 地区組織を大幅に縮小してリモート活用したらどうか。

 とか。

 地区の人員・不動産を全部都道府県に集めたらどうか。

 とか。

 

 そんなことを実験的に考えたものです。

 あるレベルの収入を維持するためにヒトやモノの資源を莫大に投入しているわけですが、コストそのものを縮小して、もっと小さな財政規模で回すことも、「プランB」として考えてみてはどうか。

 あるレベルの収入維持が活動の中心になってしまうと、活動の魅力や面白さが失われてしまうと思うのです。

 その面白さを「ドリン・ドリン!」という言葉に託しました。

 そして、昔の活動家の記録(遺稿)をたまたま読む機会があって、そこにある全体性や、生き生きとした様子などに思いをいたして、この一文を書いたのです。

 

 題名は、愛読書はメカ沢新一先生 私もチベット修行につれてっての中沢新一先生の『はじまりのレーニン』で紹介されたトロツキーによるレーニン評の一節に由来しています。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 お読みになりたい方はメールください。3部まで900円+送料180円でお分けできます。cbl03270(アットマーク)pop06.odn.ne.jpまでどうぞ。

 完売いたしました。ありがとうございます。

 

日本共産党の自衛隊論を整理する

 この記事。

news.yahoo.co.jp

 

 ついている「はてブ」のブコメが、まあなんと言おうか…。

b.hatena.ne.jp

 なーんて冷笑している場合じゃない。こういうブコメがつくのも、共産党が国民に広く自分の立場をこれまで知らせてこなかったという「問題」でもあるのだろう。知らないのは、国民のせいではなく、当該政党の努力の問題じゃ、ということ。

 

共産党自衛隊に対する方針(ざっくり簡単に)

 日本共産党自衛隊への態度とはつまるところ、こういうことだ。

  1. 自衛隊違憲であり、将来的には憲法9条は完全実施(自衛隊の解消)されるべきである。
  2. しかし、それは将来、アジアの国際環境がよくなり、国民が「もういいじゃない?」と合意してのちであって、それまでは自衛隊は存在するし、活用する。専守防衛の部隊として侵略者と戦うのである。
  3. 共産党が参加する政権ができたときも同じ。党としては違憲という考えを持ち続けるが、国民合意ができるまでは、共産党参加政権であっても「自衛隊=合憲」として扱う。

 

その根拠(共産党は本当にそんな方針なのかという根拠)

 根拠を見てみよう。

 1.と2.は共産党の基本方針である「綱領」に明記されている。

自衛隊については、海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる。

 2.の後半は、今から20年以上前(2000年)第22回党大会で決めている。

自衛隊問題の段階的解決というこの方針は、憲法九条の完全実施への接近の過程では、自衛隊憲法違反の存在であるという認識には変わりがないが、これが一定の期間存在することはさけられないという立場にたつことである。……そうした過渡的な時期に、急迫不正の主権侵害、大規模災害など、必要にせまられた場合には、存在している自衛隊を国民の安全のために活用する。国民の生活と生存、基本的人権、国の主権と独立など、憲法が立脚している原理を守るために、可能なあらゆる手段を用いることは、政治の当然の責務である。

 今でも共産党が全住民向けに配布しているリーフレットなどで繰り返し語られている。

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 3.は野党共闘が発展する中で、新たに対応を迫られて明らかにした問題である*1。例えば2020年に志位和夫は次のように表明している。

自衛隊についても、われわれは憲法違反という立場ですけれども、一致しませんから、政権として自衛隊は合憲という立場で対応する。

 ちなみに、もう少し詳しく言えばこうなっている。

野党連合政権にのぞむ日本共産党の基本的立場――政治的相違点にどう対応するか/幹部会委員長 志位和夫

 

違憲」のものと共産党はどう付き合うのか

 「違憲のものと共存する」という考えをどう見たらいいのだろうか。

 共産党が「違憲」と思うものはたくさんある。たとえばこういうものだ。

  • 政党助成金。国民の思想信条の自由を侵す強制献金だ。
  • 生活保護の現在の水準。とうてい「健康で文化的な最低限度の生活」は満たさない。
  • 大学の高学費。教育を受ける権利、機会均等を破壊している。
  • 公務員のストライキ権剥奪。「勤労者の団結する権利」を奪っている。

などなどである。キリがない。

 共産党はそもそも綱領で革命(民主主義革命)の目標を「憲法の完全実施」においているくらいだから、今の日本社会は「違憲だらけ」という現状認識がある。

 「憲法どおりに政治をしろ!」というのが革命のめざすところだというわけだ。

 ところが、現在の自民・公明政権は現状が「憲法違反」だなどとは微塵も思っていない。当たり前である。政権が「憲法違反」だと思って運営していたら訴えられてしまうからだ。

 つまり今の政府は森羅万象一切のものを「合憲」として運用しているが、共産党としてみれば「違憲」である現実は無数にある。これが共産党にとっては革命によって改革されるべき課題そのものだ。

 

 しかし、これらの違憲の現実は、共産党が参加する政権ができたからといってすぐに解消されるわけではない。

 例えば政党助成金

 仮に立憲民主党と組んだ政権ができたとしよう。

 立憲民主党政党助成金を受け取っている。

 助成金廃止の合意など簡単にはできない。

 だとすれば、共産党としては「違憲」だと思っている政党助成金を出す政権が長く続くのである。共産党はそこに閣僚として参加せねばならず、国会で認識を問われれば「合憲です」と答弁せざるを得ないのだ。

 連立政権とはそういうものである。

 そして、共産党はどこまでいっても単独政権はめざさないことを基本方針にしているから(必ず連立・連合政権)*2、こういう「自分は違憲だと思うけど、他の党や国民はまだそんなふうには思っていないもの」がたくさんある。

 この「たくさんある違憲のもの」と共産党は長く「共存」し、付き合っていかないといけないのだ。それは選挙のたびに「これを変えたいのですが…」と公約し、一つ一つ、国民と他党の合意を取っていくしかないのである。

 粘り強いおつきあいが必要なのである。

 

 本論はここまで。

 あとは余談である。

 

日本共産党にとっての自衛隊とは

 日本共産党にとっては、アメリカへの従属は日本にとって緊急に改革すべき危険なものである。なぜなら、日本とは関係のない戦争に巻き込まれる危険が大きいからであって、朝鮮有事や台湾有事はまさにその危険をはらんでいる。

 アメリカとの軍事同盟は、アメリカがもし先制攻撃戦略によって先制攻撃をやってしまえば、日本自体が「侵略国家側」に身をおくことになる。そして米軍の出撃拠点として核やミサイルの標的になるのである。

 自衛隊はそのようなアメリカの従属部隊として活動してしまえば、これほど危険なことはない。だから、日本共産党アメリカへの従属の解消、そのポイントとなる日米軍事同盟=日米安保条約の解消は革命における重要な目標である。

 他方で、自衛隊アメリカの従属部隊として活動しないのであれば、つまりたんに武力一般として存在しているのであれば、それは大した問題ではない。とっくりと国民に思案してもらい、自衛隊が存在している間、必要なら防衛のために使えばいいのである。文字通り「専守防衛」のための部隊であれば、ほとんど問題はないといっていい。

 そして、東アジアの安全保障環境がもし良好になり、「ああ、もう不要かな」と国民が判断したらその時に初めて自衛隊の解消(9条の完全実施)をすればいいのである。それまでは長い間、自衛隊との「共存」が続く。

 アメリカへの従属や海外での戦争に出かけていくような自衛隊のあり方には反対し、専守防衛の部隊として改革するというのが、自衛隊との「共存」期間中の日本共産党自衛隊政策である。

 ぼくからみた「不満」は、日本共産党にとって、この「共存」期間が長いのだから、共産党はもっと積極的な「専守防衛」政策を打ち出すべきなのである。そこの努力がもっと求められるとぼくなどは思う。

 

日本共産党の安全保障政策

 ここまで見てくればわかるが、日本共産党の防衛政策・安全保障政策は、自衛隊を「抑止」(相手より強い武力を蓄えて相手に思いとどまらせる)に使わず、防衛のために使うという方向である。

 これは「攻められた時に、必要最小限の防衛力をどう使うのか」というレベルの話。

 問題はそこではない

 一番大事な安全保障政策の本体は、「軍事同盟か、非同盟中立か」、もう少し言えば、「軍事同盟(集団的自衛権)か、集団的安全保障か」という選択肢だ。

 日本共産党は後者を取る。

 世界規模で見ればこれは国連であるが、地域規模の平和協力機構が育ちつつある。日本共産党がこの間なんども「お手本」に挙げているのがASEANである。

 軍事同盟は同じ価値観の国で同盟し、「敵」を排除していく。このやり方は東ヨーロッパ・旧ソ連でとられてきたが1988年以降、ナゴルノ・カラバフ戦争、チェチェン紛争、クリミア併合、そして今回のウクライナ侵略と、正規軍がぶつかり合う大規模な武力衝突が10以上繰り返されている。

 軍事同盟は「抑止」の発想に立っていて、様々な弱点がある。

 今回のことでもそれが露呈した。

 例えば、抑止であるから、相手より武力が上回らないといけない。今アメリカは軍事力において中国よりも「上」と考えられているが、それは本当にそうなのか。もし、中国が「上」となったらどうなるのか。果てしのない軍拡競争がそこには待ち受けている。

 あるいは、本当に抑止として機能するのか。いざとなったら第三次世界対戦を恐れて介入できないのではないか。あるいは、「相手側の同盟軍は介入しない」という「合理的判断」のもとに侵略が起きるのではないか、という不安である。

 そして、これが最大のものだが、いったん戦争が始まれば、核戦争までいく危険があるということだ。そのような戦争に巻き込まれてしまうのである。

 

 他方で、集団的安全保障は軍事同盟とは逆の発想である。

 価値観の異なる国をもメンバーにして、それらの中で調整をはかって紛争を抑え込んでいく。インクルーシブなやり方である。(国連はこれに軍事制裁機能がついているが、地域協力の枠組みにはこの機能はない。)

 ASEANでは1988年における中越南沙諸島海戦以降は、大規模な武力衝突はない。東南アジアはかつてSEATOという軍事同盟が存在し、ベトナム戦争をはじめ戦争と紛争の常襲地帯であった。様変わりである。

 もちろん中国による南シナ海での横暴に直面し、人工島や軍事施設の建設などが止められていないが、ASEANは中国を排除するのではなく、中国やそれと対立する米国を巻き込んでここでの紛争の平和解決を進めている。

 フィリピンによる国連海洋法条約(中国も参加)の常設仲裁裁判所でのたたかいにより、同裁判所から“中国の人工島建設は国際法条の根拠がなく、国際法に違反する”という判断が下された。

中国も参加する海洋法条約をたたかいの土俵としたのは、ひとつの知恵でした。(川田忠明「憲法9条を生かした安全保障を考える」/「前衛」2022年3月号)

 “ASEAN型の地域協力の枠組みさえつくれば何もかもうまくいく”のではない。それでも軍事同盟依存型よりははるかに安全である。根気のいる、粘り強い努力が必要なのだ。日本共産党平和運動局長である川田忠明は、じわじわと体質を改善し、ゆっくり効いてくるこの種の地域的協力の枠組みの努力を、「漢方薬」になぞらえている。

 

軍事同盟と絶対に両立しないのか

 「軍事同盟も集団的安全保障も、どっちもやればいいではないか」という意見もあろう。

 それは一理ある

 日本共産党としては、台湾や朝鮮の紛争をかかえるもとで、日米軍事同盟の廃棄は日本の切実な改革だとは思っているようだが、先に挙げた日本共産党平和運動局長の川田は、ASEANなどの地域の平和協力の枠組みを日本でも取り組むべきだという戦略を述べた後で、こう語っている。

ここまで述べてきたように、「憲法の平和原則をいかした安全保障」とは、安全保障政策において、軍事が優先される状況から、外交など非軍事的対応を優先し、その比率を飛躍的に高めることです。それは、今ある法律や国際合意の改定や廃止などを必要としません自衛隊日米安保条約の存在を前提にしたものであり、政権にその意思があればすぐにでも実行可能なものです。(川田前掲)

 ここでいう「政権」とは自民・公明政権も含むことは言うまでもない。

 川田は、同じようにASEANに参加しながら、アメリカと軍事同盟を結んでいるフィリピンについて次のようにのべる。

ASEANの中にも、中国の動きもにらんで軍事費を増額し、アメリカとの軍事交流、協力を進めている国もあります。フィリピンはアメリカとの軍事同盟(米比相互防衛条約、一九五一年)を結んでおり、定期的に共同演習を行なっています。しかし重要なことは、軍事力を保持するが、安全保障政策の基軸は、あくまで外交においているということです。(前掲)

 軍事同盟を結びながら、とりあえずASEANのような枠組みに努力するということは十分あり得ると共産党は考えているわけである。

 

憲法を変える「必要」はあるのか

 「じゃあ、憲法を変えて自衛隊を書き込んでもいいのでは?」と思うかもしれない。

 しかし例えば自民党憲法草案はどうなっているか。

 自民党案では戦争を禁じた現行の9条1項に

前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない

という新しい第2項を加える。

 一見何の問題もないように見える。

 しかし、「自衛権」は個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権も含まれることになる。

 じっさい、自民党のパンフレットには、

自衛権の行使には、何らの制約もないように規定しました

と書かれている。

https://jimin.jp-east-2.storage.api.nifcloud.com/pdf/pamphlet/kenpou_qa.pdf

 

 自国が攻められてもいないのに同盟国の戦争に巻き込まれる、まさに危険なシステムである。共産党として、そういう改悪に付き合うわけにはいかないのである。

 自衛隊は現状でも政府解釈で「合憲」である。

 それをわざわざなぜ変えるのかといえば、アメリカとともに海外で戦争する国=集団的自衛権のフルスペックに踏み込みたいからである。アメリカは攻められてもいないのに相手に攻撃を仕掛ける「先制攻撃戦略」を持っている。それは国連憲章違反であり、侵略である。

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 それにお供をして戦争をすることになれば、それはまさに「ウラジミール、君と同じ未来」を見てしまうことになるだろう。

 

 2015年まで日本政府は、集団的自衛権行使を許されない「必要最小限度の実力」として自衛隊を扱い、そのような政府解釈をしてきた。半世紀にわたって国民が選び、使ってきた、その実績ある条文と解釈に立ち戻ればいいのである。

 

 

 

おまけ・余談の余談

 さっき、4月15日発売予定の志位和夫の『新・綱領教室』が手に入って読んだんだけど、もしすっかり条件が整って、「自衛隊を解消していいよ」という国民合意ができた場合に、共産党が参加している政府として憲法判断を変えるかどうか問題まで書いているな(下、p.73)。すごい念の入りよう。

 

 

 実は2017年の党首討論では、志位はその場合、「政府として『違憲』判断へ切り替える」と言ってたんだが、ぼくは「そりゃ、無理なんじゃない?」と思っていた。↓

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 んで今回、志位はその判断を意固地なものにしなくなった。

 今回の本では、2017年にぼくが書いた記事のように「憲法解釈は変えずに、政策判断で自衛隊をなくす」という選択肢も入れるようになって“その時、国民が決めればいい”と柔軟になったのである。

 よかったよかった。ようやく、一緒になりましたね!(笑)

 

 当然だと思う。

 これは他の問題でも起きうる。

 例えば学校給食の無償化。

 憲法には「義務教育は、これを無償とする」(26条)とうたわれている。

 共産党としては「学校給食は教育の一環であり、有償なのは憲法違反だ」と言いたいところだろう。ぼくもそれはそう思う。

 しかし、「無償というのは授業料のみ」というのが政府の解釈であり、判例であり、多数学説であるのだ。(有力ではあるが、非多数派の学説として、「修学にかかる一切の費用が無償」という見解がある。また、せいぜい「無償とすることが26条の精神にいっそうかなう」(宮沢俊義)というほどのものである。)

 共産党が参加する政権になったら、その解釈をひっくり返して「学校給食有償は憲法違反」という政府解釈をするのは、立憲主義から言ってもあまりうまくない。

 共産党が考えている「違憲の現実」について、何から何までぜんぶ憲法解釈を変えていったら大変なことになってしまう。

 政策判断として学校給食を無償にすれば十分なのである。

*1:「この問題に答えを出したのが2017年でした」(志位和夫『新・綱領教室 下』新日本出版社、p.68)。

*2:「現綱領の土台をなすのは、1961年の第8回党大会で採択された綱領です。現在の綱領との関係では、三つの点で現綱領に引き継がれる画期的内容が、すでに61年の綱領で確立されていることを強調したいと思います。……第三は、社会の発展のすべての段階で、統一戦線と連合政府の立場を貫いているということです。つまり、日本共産党だけで社会変革をおこなう、日本共産党の単独政権をめざすというのは、最初からわが党綱領とは無縁のものです」(志位和夫『新・綱領教室』上、p.27-28)。しかし1980年に社会党が社公合意をしてこのパートナーから消えて以降、20015年までは、政党としては連合相手は空席のまま、「革新懇」を開いて「相方」政党の登場をひたすら待つという路線で共産党はやってきたから、信じられない人もいるだろうね……。

シーニア「最後の1時間」を理解する

 『資本論』を若い人たちと読むことを続けている。

 先日も合宿で読んだ。再び、高速道路のサービスエリア・パーキングエリアごとに止まってその場で30分〜1時間読み合わせするという狂気のやり方。

 いよいよ次は第1部8章である。

 その前は、もちろん第7章であった。その第三節は有名なシーニアの「最後の1時間」が登場する。このマルクスの説明がどうにも長ったらしくてわかりにくい。不破哲三でさえ、

ただ、マルクスが第三節でやっている反論は、あまり分かりやすいものではありません。テレビ討論会で、こんな調子の議論をやったら勝ち目はなさそうな気がします(爆笑)。(不破『「資本論」全三部を読む 第二冊』新日本出版社、2003年、p.88-89)

と述べるほどだ。

 ぼくは、再構成を担当させてもらった門井文雄『理論劇画 マルクス資本論』(かもがわ出版)において、この部分を紹介したとき、要は“いま労働して作り上げている価値(価値生産物)は可変資本分と剰余価値分しかないのだが、その中に機械や原料などの価値=不変資本部分も含めてしまっている”ということでざっくり済ませてしまった。不破の『全三部を読む』も基本的にはその解説なのだ(というか、ぼくが不破の解説に啓発され、大いに参考にさせてもらったのだが)。

 

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門井前掲、p.112-113

 

 しかし、実際に『資本論』を読むと、マルクスはかなりいろんな数字を出してくる。その理屈がわかりにくいのである。学習会でもファシリテーターであるぼくはうまく説明できなかった。そこでリベンジを兼ねて以下に記す。

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 これは、第一節にある

この総価値は二〇重量ポンドの糸という総生産物で表されているのであるから、そのさまざまな価値要素もまた当然、生産物の比率適所部分で表されうるはずである。(『新版 資本論 2』新日本出版社、p.380)

ということの理解が必要である。

 生産物価値(生産物として作られた全体の価値)はc=原料・道具9.5万ポンド、v=労賃1万ポンド、m=剰余価値1万ポンドとなる。紡績労働の現場で加えられた価値生産物(価値として新たに生産されたもの)はvとmしかないが、出来上がった商品の価値総額(生産物価値)は移転されたcも含め11.5万ポンドとなる。

 工場主(経営者・資本家)は、はじめの9.5時間の労働が終わると、c分の製品が生産でき(さらに売れ)れば、「c分は回収できた」と考える。次の1時間で「v分が回収できた」、最後の1時間で「m分が回収できた」と思考する。マルクスは、まあここまでは「正しい」というのである。しかしそれを紡績労働の労働時間に「換算(翻訳)」してしまうと「間違う」とマルクスは言う。(マルクスは「無知な観念」と罵る)

 

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 というわけである。

 ところで、不破哲三の『全三部を読む』はこの理解のために本当に役に立ったのだが、他方で、

シーニアは、生産物の構成部分についての先の表式を、労働時間に翻訳して、次のようにつくり直したのです。

1時間の労働時間=不変資本の補填分+可変資本の補填分+剰余価値

12時間  =  9時間3/5    +  1時間1/5     +  1時間1/5

(不破前掲p.88)

という計算例に戸惑ってしまった。

 ぼくは、この時間計算の例を見たとき、「えっ? シーニアってこんな計算例を出してたっけ?」となんども探してしまったのである。

 しかし、この「12時間」の計算例は、実は第二節でマルクスが持ち出した例であって、シーニアが出した労働時間ではない。三節では、マルクスはシーニアの計算例を11.5時間という数字を使ってやっているので、この「12時間」という計算を「シーニア」のものだというのは厳密に言えば間違いである。不破は新版でも訂正していないので、勘違いしているのではないか。

 まあ、あえて言えば、「第二節の計算例をシーニア風に直せばこうなる」というわけであって、もし不破がそう言いたかったのであれば、そのように書いてくれないとわかりにくい。探しちゃったじゃん。 

 

 え? お前が再構成したマンガでも、そんな断りなく「12時間」をシーニアの例で出してるって? う……。

 いいんだよ、俺は!

 だって、「10億円」とか明らかに日本の通貨単位が使ってあって、シーニアが出している例じゃないんだから! な?

 

 

磯谷友紀『ながたんと青と』

 最近よく読むマンガは、磯谷友紀『ながたんと青と いちかの料理帖』であろうか。

 戦争から6年たった、日本の「独立」のころの京都の老舗料亭の話……と書くだけで、実はげんなりしてしまう。往々にして時代設定、京都という土地、料理などといった「小道具」を雰囲気で描くことに重点がおかれ、というか作者が酔ってしまい、肝心の物語のドライブがないために、読む方はまことにつらい……そういう作品が想起されてしまうからである。

 しかし、本作は全くそんなことはなかった

 料亭の料理長が新しい経営方針を認めずに立ち去り、婿の実家は料亭の乗っ取りを企図するという危機の中で、どういう立て直しを図るか、というビジネスの論理が物語の主軸に座る。もう一つ、34歳の主人公・いち日(いちか)と19歳の周(あまね)との結婚は、当初政略とも偽装とも言える「形だけ」の夫婦として出発しながらそれがどう本物の恋愛へと発展していくのか(それともしないのか)という軸が座る。どちらの軸も、読ませる。骨太の作品である。

 いち日は、周から「ぼくのこと どう思ってますか」と問い詰められ、「か かわいい」と言ってしまう。その言葉に周はショックを受けるのである。

 いち日は周の仕草をいちいち「かわいい」と内語する。

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磯谷前掲4巻、講談社、p.157

 ぼくはこの4巻の、いち日の(内心の)つぶやきのコマがとても好きで、いち日が漫符的な表現を一切纏わずに、純粋な内語として、表情を動かさずに、「かわいい」という感想を述べる描写が、心底周のこの仕草を、いち日が「かわいい」と思っているんだなとぼくに思わせてしまう。

 

 

 この場合の「かわいい」には、おかしみがある。

 シェリー酒という洋風で洒脱なものを、才気走った若者が生真面目な顔で、なぜか半纏というどっぷり和風な、どちらかと言えばややだらしないほどに生活感のあるものを着ながら出すというアンバランスが「かわいい」のである。

 

 連合赤軍事件で、大塚英志は「かわいい」という言葉の使い方が、男性指導者たちのそれと、女性活動家のそれでは根本的に対立し、その対立こそが「連合赤軍事件」というものの深層だったのだと指摘する。

 

 

 リーダーである森恒夫をはじめとする男性指導者たち(植垣ら。その陣営に属する永田洋子も)は、「かわいい女」「かわい子ちゃん」のような、男性支配から見た従順さにこと寄せた使い方をする。そしてそれに抗えない女性たち(小嶋・大槻)。他方で、一人の女性活動家(金子みちよ)はその意味を逆転させてしまう。

 

 このように女たちが男たちの「かわいい」という視線に従順だったのに対し、ただ一人、この視線を男たちに投げ返した女性がいる。妊娠八カ月の身重であり、女性として四人めの犠牲者となる金子みちよである。

 例によって森のねちっこい女性批判が始まりその矛先が金子に向けられる。森の批判は彼女が自分に色目をつかっている、というものだった。永田の『十六の墓標』から引用してみよう。

 森の発言があまりにおかしいと思った私は、わけのわからない怒りがわきそれを否定しようとして、金子さんに、

「森さんをどう思う?」

と聞いた。金子さんは、少しとまどっていたが笑いながら、

目が可愛いと思う・・・・・・・・

といった。(傍点筆者)

 金子は女たちを「かわいい女」として抑圧してきた森に対し逆に「かわいい」の語を投げつけるのである。男女間の支配関係の語としてのみ作用していた「かわいい」を最高指導者である森に投げ返した彼女の発言はそれこそ革命的、なものだったとぼくは思う。

 この金子の「かわいい」の語法は重要である。何故なら、この「かわいい」はそれまでの「かわい子ちゃん」—「かわいい女」という男女の支配関係を肯定する語として連合赤軍内部で使われてきた「かわいい」とは決定的に異なるからだ。(中略)

 ちょうどこの連合赤軍事件の前後の時期を境にして「かわいい」という語法に大きな変化が起きる。植垣が「かわい子ちゃん」と言ったときその「かわいい」は男性の側から発せられ男女の支配関係に収斂していく。小嶋や大槻の「かわいい」私は、男女間の支配関係に抗すことができない。しかし、金子の「かわいい」は明らかに、森と金子との間の関係を転倒しているのだ。この新たな「かわいい」の語法は女性たちの口から発せられた瞬間逆に眼前のあらゆる事象をこの「かわいい」の一言で包括してしまうものとして現れる。女性を支配することばとしてあった「かわいい」が、逆に女性たちが彼女たちをとりまく世界を「かわいい」の一言で支配し直してしまうことばへと変容していったのである。(大塚英志『「彼女」たちの連合赤軍 サブカルチャー戦後民主主義』角川文庫、p.25-26)

 

 いち日と周の生きている時代は、日本の占領の終結、「独立」の時期であり1950年代初頭だ。だからこの用法はあり得ない。が、これはフィクションである。磯谷が1950年代の歴史上の人物の内面を必ずしも精確に描出しようとしているとは思えない。

 むしろこの時代に仮託して「現代」を描こうとしているように思える。

 周は男権主義的ではない。むしろ、当時はタブーに近かった、料亭の料理長に女性であるいち日をすえるなど、ジェンダーを乗り越えている。

 さらに、いち日と周は一種の「仮面夫婦」なのであるが、ある明確な利害で一致した、ビジネスライクな「契約としての夫婦」というものは、『逃げ恥』でもそうであったが、現代の男女関係あるいはパートナーシップにおける、かなり質の高い関係ではないのだろうか? なぜなら、関係の目的性が非常に明確であり、両者は対等平等であるということが明確だからである。ゲマインシャフトではなくゲゼルシャフトとしての夫婦。

 

 

 だからといって、完璧に「理想」なわけではない。

 確かに料亭「桑乃木」は事業体である。いち日と周はその事業体のメンバーである。しかしその事業体は家産制事業体である。すなわち純粋な会社ではなく、二人は純粋な社員ではない。家庭であり、夫婦であるという前提での関係は、愛情=心情という問題をどうするのかという問題・矛盾を残してしまう。

 むしろ政治や経済のような生硬な言葉・関係としてではなく、そうかといっていきなり直接に恋愛ではないところから、相手への真情を始める必要がある。

 それが「かわいい」なのである。

 周を「かわいい」と思うのは、ビジネスの思惑でもなく、恋愛感情でもなく、いち日の心に自然に湧出した気持ちである。それこそが、周を理解し「愛おしい」と思えるようになる、第一歩なのだ。

 

 別の言い方をすれば、ビジネスとしての関係を被っている周・いち日の関係をいったん破壊する力を持っているのがこの「かわいい」なのである。その意味では、男女関係の支配的言説に抗した金子の「かわいい」に似た作用をここでは及ぼしている。

 

 

英語で「宣伝」は何というのか

 前にも書いたが、英語の勉強のために、手帳(手書き)にスケジュールを書くとき、一部の予定を英語で記すようにしている。

 さて、予定の一つとして「宣伝」と書きたいことがある。

 「宣伝」というのは左翼政党や労組などの独特の用語で、駅頭・街頭でマイクでスピーチをしながらビラをまくとかいうような取り組みのことである。

 こういう感じ↓のやつ。

www.youtube.com

 

 いわば「街頭宣伝」なんだよね。

 「あした宣伝やろうよ」などと左翼の仲間内で使ったりする。

 はじめ、和英辞典で「宣伝」を訳してみると、

advertisement

と出るのだが、これじゃあ企業が出すような「広告」だよな、と思う。

publicity

というのがあるが、うーん、これも「広報」という感じかなあと思った。

propaganda

は「(国家などが組識的に行なう主義・教義などの)宣伝」とあって、「あっ、これじゃね?」と思ったが、すぐ「いやいやいやいやいやいや、『プロパガンダ』っていくらなんでも…」と考え直した。「その通りじゃんww」とか皮肉られそう。

 

 

 ぼくが参考にしているのは「Japan Press Weekly」なのだが、試しにこのサイトで「propaganda」を検索すると、

anti-communist propaganda(反共宣伝)

とか

As the reason for this decision, the organizers explained that the “Kyokujitsu-ki” flag is widely used in Japan and that the display of this flag does not constitute political propaganda.(この決定をした理由として、組織委員会は「旭日旗」は日本では広く使われており、この旗を表示することは政治的宣伝を構成するものではないと説明した。)

など、否定的な意味しか出てこない。

 

 「Street Speech」ではないかと思っただが、これは「街頭演説」であって、街頭宣伝の一部分の要素しか表していないような気がする。

 「Japan Press Weekly」で「Street」を検索してはどうだろうかと思ってやってみた。

 「street actions」「street speech rally」

 だいぶ近いけどちょっと違うなあ…。

 すると「street campaign」が出てきた。

 あ、これじゃね?

The Japanese Communist Party together with young eco-activists held a street campaign near Shibuya Station in Tokyo on September 23 as part of the “Global Climate Strike”, a worldwide movement appealing for the need to take immediate action to tackle the climate crisis.(日本共産党は若い環境活動家たちと一緒に9月23日、東京・渋谷駅近くで、気候危機を打開するための緊急行動を起こす必要を訴える世界規模の運動、「グローバル気候マーチ」の一部として街頭宣伝を行なった。)

https://www.japan-press.co.jp/s/news/index.php?id=13771

 

というわけで、街頭宣伝は「street campaign」だと思うのだが、どうであろうか。

〘名〙 (campaign) 何らかの主張、あるいは宣伝のために、組織的、継続的に広く社会や大衆に訴える活動。広告・啓蒙・普及活動などにみられる。(精選版 日本国語大辞典

 

 

追記:

 ブコメ欄。

id:BUNTEN

愛用のぐぐる翻訳に街頭宣伝を食わせたら「Street promotion」と出た。合ってるかどうかは見当も付かない。

 確かに自動翻訳だとこれが出る。

 ぼくのイメージでは「promotion」というのは、もともと「促進」であり、販売促進の戦略というか、例えばある化粧品を売るために、広告を打つだけでなくて、試供品として使ってもらうとか、一緒に買うとポイントが増えるとか、そういう戦略全体を指すような気がする。

 

 

 

 

『オーイ! とんぼ』37

 『オーイ! とんぼ』37巻は、プロゴルファーである有働二子女(にこめ)が停滞し鳴かず飛ばずの現状を打破し、殻を破るために、これまでの自分のスタイルを崩して…というかある意味破壊・否定し、新しいスタイルを確立しようと悪戦苦闘する巻である。

 

 

 幼い時から父に躾けられて体に染み付いてきたゴルフのスイングを破壊するのは至難である。自分の否定であり、自分を形作ってきた父の否定であるから。

 

 破壊を続け、創造のプロセスを歩んでいる間は、成果が出ない。

 スポーツでもビジネスでもそうだろうが、残酷な順位となって「成果」が示されるから、周囲は騒ぐ。本人は動揺する。

 

やっぱりオレは反対だ

ゴルフが壊れちまう

ゴルフのスウィングとは完成された豪華客船みたいなもので

インディアンのカヌーみたいなものとは違うんだ

壊れた後で元に戻そうとしてももう戻らないんだ

 

 兄であるハジメは二子女の挑戦に否定的である。

 この道でいいのだろうか? いいのだ、と言い聞かせて進むしかない。なにせ途中なのだから。

 

ばってん いままでと同じやり方を続けていても

きっと同じ結果しか得られない

なにか違うことを試さなきゃ

試してダメだったら 壊れちゃったら

もうそれでいい

 

私はそれまでの選手だったんだって

そう覚悟を決めてるの

そして違うやり方っていうのが

いまの打ち方なの

お父さんが教えてくれたゴルフを

アップデートするんじゃなくて

パソコンごと新しくする覚悟なの

 

お父さんと作ってきた

骨格に肉付けするんじゃなくて

もう丸ごと取り替えるつもりなの

お父さんを捨てるつもりなの

 

 この物語はいまぼくの心を打つ。

 なぜかといえば、それは左翼組織になぞらえてこれを読んでいるからである。

 組織のあり方や政策の方向を、これまでの経験の延長ではなく、大胆に変えなければ再生産ができないのではないか、生き残れないのではないか、という二子女と同じような問題意識があるからだ。

 これまでの成功体験にすがろうという気持ち。

 改革の途上で「成果」が出ないことへの周囲の喧騒。

 これまでの方法への「否定」=侮辱として受け取られる改革。

 もちろん、これは「お話」である。比喩がそのまま政治組織の方法に当てはまるものでもない。しかし、やはりこの巻が心を揺さぶるのは、まさに今「ぼくの物語」として読まれるからなのである。

 

 

今年度の中学英語が大変になっている可能性はないのか

 中2の娘の定期テストの結果を見る。

 英語の最下位クラス(0〜29点/100点満点)にかなりの人数がたまっている。他の教科と比べても段違いだ。1学期・2学期・3学期とこの傾向は変わらない。

 グラフにしてみた。

 

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 この学校だけ、英語の授業が悪いのだろうか?

 そういう可能性もある。

 しかし、今年から中学校の英語が変わった、と前に記事で書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 そのエントリで紹介した、日経新聞2021年9月28日付の「受験考」欄記事「ついていけず悩む生徒」を一部引用する。

 学校の授業の流れはまず英語の歌を歌い、英単語ビンゴをする。そしてチャット(2人1組で決まったフレーズを言い合うが、細かな発音指導などはしない)。さらに教科書本文の音声を聞き、簡単な和訳を教師が言う。これで授業終了。
 教科書本文はおろか受動態や現在完了形といった文法の丁寧な解説はない。しかも授業自体が英語で行われるので、A子はついていけなくなった。

 昨年の10月22日付「しんぶん赤旗」でもそのように書かれていた。

blog.goo.ne.jp

 

 

 娘に話を聞いてみると、娘が受けている授業は決して「英語で全部話している」わけではなく、日本人の先生がふつうに日本語で話しかけてくる授業だということである。娘は英語の授業に不満があるのだが、その不満の中身を聞くと、「文法だけ教えるみたいな…」と、赤旗や日経の記事とは逆のことを述べている。

 テスト結果に保護者が何か書いて担任に返す通信があるのだが、そこで「どうして学年全体でこんなに英語の出来が悪くなってしまっているんですか」と疑問を書いたのだが、担任から返事はなかった。

 

 このことについて、共産党の福岡市議である山口湧人議員が3月10日の福岡市議会(条例予算特別委員会の教育こども分科会)で質問していた。

 

山口(湧) 中学校の英語教育について、複数の保護者からほかの教科と比べて英語の成績が悪いという相談を受けた。学習指導要領が改訂されたことに伴い、令和3年度から英語の授業内容はどのように変更されたのか。

教育委員会 聞くこと、読むことは、話すこと、書くこと、言語活動を通して簡単な情報や考え方を理解し、表現し、コミュニケーションを図ることを目標とし、特にコミュニケーションを行う目的、場面、状況などに応じて日常的な話題、社会的な課題について考えたり、理解したりすることなどに重点を置いている。

 コミュニケーション重視になった→文法などが軽んじられているのでは?

 というような疑念が湧いたがどうであろうか。

山口(湧) 令和2年度から小学校5、6年生は英語が必修科目となり、単語を600〜700語学び、中学校では1600〜1800語学ぶこととなった。中学校で学ぶ単語は従来よりも大幅に増えており、また、文法についても増えているため、中学校の英語教育は難易度が高くなったと思うがどうか。

教育委員会 学習内容は大きく変わっていないが、学習する単語及び文法が増えていることは事実である。

 ここでの教育委員会の認識は、日経のそれとは違う。赤旗の指摘とは重なっている。

山口(湧) コミュニケーション能力を重視する学習内容に変わったことにより、文法の基礎を学ぶ機会が減っているが、定期テストでは文法や単語の問題が出題されるため、矛盾していると言われている。そのような状況についてどのように認識しているのか。

教育委員会 指導と評価は一体のものである必要があり、学習指導要領改訂後のテスト結果を踏まえ検証していきたい。

 ここでは、山口議員が「コミュニケーション重視と、出されているテストが文法重視で、矛盾してない?」という趣旨の質問をしていて、教委側は「一体の必要性があるのでよくみていきたい」と返している。

 しかし、そもそも、英語の成績が全体としてガタ落ちしているというのが、自治体全体に広がっているのではないか、という認識については教委は特に示していない。

山口(湧) 学習指導要領が改訂されたことに伴い、学習内容が増えたことで、教員と生徒の負担が重くなっていると思うが、所見を尋ねる。特に、小学校から中学校に入る移行期がコロナによる一斉休校と重なり、教える量が極端に増えたと思うがどうか。

教育委員会 学習指導要領に示された学習内容はしっかりと教える必要があるが、資料等の活用や様々な指導方法を共有することで教員の負担を軽くするとともに、子どもたちにとって分かりやすい学習となるよう取り組んでいきたい。

 ここでは、教委は「指導要領に示された分はしっかり教えろよ」という姿勢を崩していない。必要量は子どもに教えるというのだ。その上で「分かりやすく」と言っているに過ぎない。

山口(湧) 令和4年度は各学校の状況を把握しながら、基礎学習を重点的に繰り返すことを助言していくことが重要であると思うが、所見を問う。

教育委員会 英語や数学など積み重ねが重要となる教科については、つまずきによって子どもの学力に影響があるため、学校と連携しながら実態の把握に努め、対応していきたい。

山口(湧) 子どもたちの実態を把握した上で、授業内容を精選し、また、基礎学習の徹底に時間を割くよう各学校に助言されたい。

 結局、教育委員会としては現状の認識は「検証する」というところにとどまり、英語が特段悪くなっているという認識を示していない。

 

 結構重大なことだと思う。なぜなら、事前に「これは悪くなるぞ」という予想が出ていて、それを裏づけるかのような結果が出ているからである。

 しかし、あくまでそれは「1つの学校のデータ」に過ぎない。

 また、個別の取材(娘)では懸念されていたことが現実の授業では起きていないようにも考えられる。

 うーん、これが全市・全国のトレンドかどうかもわからないので、何かそれを検証するデータがあればいいんだが…。誰か取材してくれないだろうか。(人任せ)