「千島列島」はどこまでを指すのか

 中学生である娘の夏休みの宿題を見ていて、社会(地理)では、やはり領土問題が出てくるんだなと改めて読む。

 しかしそこでは「千島列島」は択捉よりも北の部分を指していた。

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帝国書院『中学生の地理』p.126

 百科事典(『日本大百科全書』)では千島列島はこう規定されている。

大きく分けて北千島、中千島、南千島に三分される。

…以下の13島である(〔 〕内はロシア語読み)。
 占守(しむしゅ)〔シュムシュ〕島、阿頼度(あらいと)〔アライド〕島、幌筵(ほろもしり)〔パラムシル〕島(以上北千島)。
 温禰古丹(おねこたん)〔オネコタン〕島、春牟古丹(はるむこたん)〔ハリムコタン〕島、捨子古丹(しゃすこたん)〔シャシュコタン〕島、松輪(まつわ)〔マツア〕島、羅処和(らしょわ)〔ラシュア〕島、計吐夷(けとい)〔ケトイ〕島、新知(しんしる)〔シムシル〕島、得撫(うるっぷ)〔ウルップ〕島(以上中千島)。
 択捉(えとろふ)〔イトルプ〕島、国後(くなしり)〔クナシル〕島(以上南千島)。

 それが常識的な解釈であろう。

 しかし、政府はそうは考えていない。だから、中千島・北千島だけを「千島列島」だとしているのである。そうしないとサンフランシスコ条約第2条で

日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

と定めつつ、(本当は南千島であるはずの)国後・択捉の返還をロシアに求めていることと整合性が取れないからである。

 政府は千島列島の範囲について閣議決定をし、鈴木宗男議員の質問に対して、その根拠を次のように述べている

これらの両島が、樺太・千島交換条約に基づく交換の対象たる千島として取り扱われなかったこと

 しかし、これは無理がある。この条約では

露西亜国皇帝陛下ハ第一款ニ記セル樺太島(即薩哈嗹島)ノ権理ヲ受シ代トシテ其後胤ニ至ル迄現今所領「クリル」群島即チ… 

とあり、これは「今ロシアが所有している千島列島の」と読めて、「所有していない千島列島(の部分)がある」という読み方を排しないからである。「千島として取り扱われなかった」と断定することはできない。

 また、この条約についてはフランス語が正文であり、フランス語正文ではまさにこのような解釈が成り立つ、という議論はすでにある。

 したがって、日本政府の言い分はなかなか苦しいと言わざるを得ない。

 

 と言っても、娘に「だからサンフランシスコ条約で千島を放棄したこと自体が誤りであり、『日本国ハ又暴力及貪慾ニ依リ日本国ノ略取シタル他ノ一切ノ地域ヨリ駆逐セラルヘシ』というカイロ宣言の原則を徹底して、暴力で取得しなかった千島列島全体の返還を求めるべきなんだよ!」とは教えなかったが…。

 

 

意味が正反対のように思えてしまう単語

この記事にある、

の冒頭の

The #Taliban have captured Maraz-e-Sharif and are chilling at the {luxurious} house of a top commander of Afghan National Army Abdul Rashid Dostum.

 って一文。その「chill」ってわからないんだけど、辞書で調べたら、あれか、 「チルド食品」の「チル」か。chilled。

 だから「凍りつく」みたいな意味なのかと思っていたんだが、なんでタリバンがマザリシャリフを陥落させた後、アフガン国軍の最高司令官の家で「凍りついて」いるんだ? と思った。

 しかし辞書*1を見ると、後の方に、

〈主に米俗〉落ち着く、くつろぐ◆【同】chill out
・"What's cracking?" "Nothing much. Just chillin'." : 「何してんの?」「別に何も。ゆっくりしてるだけ」

って意味があるんだな…。

 chillには「恐怖、おののき」とか「重苦しさ、陰気さ」とかもあって、「落ち着く、くつろぐ」と全く正反対じゃんと思った。

 

 日本語の「ヤバい」みたいな感じなのだろうか。

 

 virtualももともとは「事実上の、実質上の、実際の」という意味だけど、それはぼくらが日本で使う「バーチャル」とは真逆だよね、と思ってしまう。

 しかしこの「事実上の、実質上の、実際の」には「(表面または名目上はそうでないが)」というニュアンスがついているので、なるほどそこからなら「虚像の」「仮想的な」みたいな意味になるよね、と得心した。*2

*1:「英治郎on the web」。

*2:参考:研究社『新英和中辞典』。

平野啓一郎『本心』

 リモート読書会は平野啓一郎の小説『本心』であった。

 

本心

本心

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 この作品のテーマの一つが「自由死」である。

 ある時期が来たら自分の意思で死を選ぶということである。この小説の世界では、それが強制ではなくあくまで権利としてではあるが、希望すれば実現するよう制度化されている。

 主人公の母親は「自由死」を望む。最期を息子に看取られて死にたいというのである。しかし息子である主人公は猛反対する。同意が得られないまま時間が過ぎていき、不慮の事故で母親は亡くなる。

 主人公の青年・朔也は、人間が死を自主的に選ぶことはありえず、「自由死」とは結局社会に追い詰められて死を選ばされている結果であろうと考える。

 朔也の考えはぼくに近い。

  前回題材になった小説『老乱』を読書会で議論した際に読書会参加者Bさんの知り合いの話が出た。

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 このことにかかわって、Bさんが、自分の知り合いの話をしていた。

 Bさんの知り合い、Cさんは、夫が認知症になった。その姿をみて、Cさんは夫が亡くなった後、密かに自死を決意し、2年ほどかけて身辺を整理し、自ら死を選んだという。亡くなった日の午前中に、Cさんは自分の親しい人に渡すためのほうれん草を茹でて、冷蔵庫への収納箇所まで指示してあったという。

 このCさんの話は、あまりに衝撃的だった。

 Cさんについては個別の事情もあろうから、Cさんの死をぼくが評価することはできない。

 しかし一般的な話として、尊厳を守る」ということが「人様に迷惑をかけない」ということの裏返しとしてある、という問題を考えないわけにはいかなかった。

 

 生きるということは社会に依存して生きるということであり、人様に迷惑をどこかでかけ続けることである。完全な意味での「自立した個人」などというものは存在しない。

 そのことを社会観のベースに置く必要がある。

  まさにこの問題である。

 ふだんからリベラル系の発言が多い平野啓一郎のことだから、「自由死とは畢竟追い込まれての死だ」という論調なのかと思いきや、むしろその考えを揺さぶるように小説が書かれている。

 例えば、読書会参加者はあまりそう思わなかったらしいが、母親の自由死を承認した医師・富田の

「そうですよ。基本的に、まずは十分に話を聴いて、考え直すことを促すんです。生き続ける可能性がある限りは、そちらを選択すべきだよな。けれど、本人の意思が固いとわかった時には、それを尊重すべきじゃない?あなたにだって、お母さんの個人の意思を否定する権利はないんだよ。お母さん自身の命なんだから。」

「あなたはさ、お母さんの生涯最後の決断を信じないの?」

といったような、横柄でいやらしい言い回しは、ぼくを揺さぶる。

 平野へのインタビュー記事にはこう書かれている(東京新聞2021年5月30日付)。

「もう十分生きた」「いつ死んでもいい」。平野さんは若いころ、年配者にそう言われるたび反発を覚えてきた。「『もっと生きたい』と思いながら死ぬ人だっているのに」と。しかし人生の折り返し地点を過ぎたころ、考え方に変化が表れた。「誰しも家族に囲まれ、幸福な状態で死を迎えたい。自分で死に方をデザインしたいという欲求に、社会はノーと言えるのか」

 「本心」というタイトルをつけながら、その結論ははっきりと出されていない。

 読書会参加者のAさんは「結局どっちなの?」とイライラしながら言っていた(笑)。

 小説の後半では、朔也の出生をめぐる秘密が明らかになる。

 朔也は母親を失った喪失感に耐えられず、亡くなった母親の生前のデータを集めてヴァーチャルに蘇らせる「VF」をつくる。VFを補強し、完成させていく作業、間違えたらセーブポイントまで戻る仕組みなどは、朔也の了解・許容範囲内で「母親」のヴァーチャルが作られていくことを意味する。

 ところが、出生の秘密とともに次第に明らかになる母親は、自分の全く知らない母親であった。そしてそれはにわかには了解しがたい存在として朔也に対峙することになる。

 作品の後半で出てくる「最愛の人の他者性」という問題である。

 一番自分が好きな人が、理解不能な「自由死」を選ぶこと自体がまさにそれであるが、母親自体に大きな他者性があることがわかる。他者なのだから理解し尽くせると思う方が傲慢なのだろう。しかし、それでも理解へ向けて無限に近づこうとする。結局他者性は克服されず、問題はスッキリとは解決しない。しかし、それこそが文学なのだと平野は考えている

アポリア(行き詰まり)のない小説は文学として書く意味がないと思うんです。どこかにアポリアを内在させていて、その矛盾に向かって言葉が熱を帯びていくのが文学じゃないか」

 いや、だまされるな、と思う。

 もっともらしいけど、そうじゃないだろ。

 例えば、現在でも緩和ケアのようなものは一種の死を選ぶことに近い。病気がもたらす耐えきれない苦しみという明確な原因に対して、人間の尊厳を守るためにあえてそうした選択をすることはありうると思う。

 その選択はぼくでも、そして第三者でも理解できるものだろう(理解できない人がいるかもしれないが)。

 しかし、一見して不可解な理由、他人にはすぐには理解できないような理由で死を選ぶということはあり得るのだろうか。それはやはり何かに追い詰められた不本意な結果ではないのだろうか。そうであるに違いない、というのがぼくの考えたことである。

 

 次回のリモート読書会は、ヴィトルト・ピレツキ『アウシュヴィッツ潜入記』である。(ぼくは三島由紀夫金閣寺』を推したんですがね…)

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山本健太郎『政界再編』

 立憲民主党本多平直議員(辞職)の件についてぼくが書いたことに、松竹伸幸が批判的激励?を書いていた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

ameblo.jp

 

自民党の異論の吸収方式

 ぼくが政党の内部議論は非公開とした上で自由な発言が保障されるべきだとしたことについて松竹は

いまどき、上から下まで一枚岩を誇るような政党は、絶対に国民から受け入れられることはない。これは間違いのないことである

として、

だったら、何よりも大事なことは、それを基準にして政党の運営ルールを定めることではないだろうか。個々人の考え方は大事にしてもいいし、外に向かって表明してもいいが、「政党としてはこうだ」と説明するということだけは守るということである。

という原則を対置している。これなら政党の考えがどこにあるかという混乱も起きないし、どこまで政党人が「自由」に発言していいのか、その境界線をめぐって神経を尖らせ、詳細すぎる内規(これはダメ、あれはOKなど)作りのようなものに熱中しなくて済むというわけである。

 これはこれで一つの考え方ではある。

 今この議論にあまり深く立ち入るつもりはない。

 ただ、この点については、松竹の意見を聞いても、なおぼくとしては依然として同じ考えである。

 いくら「政党としては消費税増税反対です」と言明しても、所属の国会議員が消費税増税賛成を街頭で説いて回り、運動を煽っていたら、やはりそれはどうなのかということになる。耐えかねるのであれば新たに政党を作って、トーンを細かく分けた方が国民にはわかりやすい。

 しかし、松竹の主張を聞いて、ぼくが全く動じないわけではない。実際松竹の言っていることは一理ある。

 松竹の言っていることを少し組み込めば、国会議員については厳格に適用し、それ以外の党員については「運用としてゆるくやる」ということしかないと思う。「そんなのは指導部の温情頼みで、客観的なルールに基づく運営・統治に反するではないか」と言われそうだが、一般社会ではないのだから、どこまで詳細なルールを設けても、解釈の余地などどうにでもなる。同じ目的を達成するために結ばれた結社においては、完璧なルール・調停制度を望むことは難しく、結局指導部を信頼するかしないかということであって、それを組織内選挙で表明するしかない。

 さて、その議論は一旦おくとして、この問題にかかわって最近読んだ山本健太郎『政界再編 離合集散の30年から何を学ぶか』(中公新書)に次のようなくだりがあって興味を引いた。

 

 

 山本は自民党の「強さ」を書いているが、その中で、異論をどう調整し、吸収するかを書いている部分があるのだ。

自民党には、異論を吸収して、規律を保つ仕組みが日常的に埋め込まれている。その最たるものが、法案の事前審査制における全会一致原則である。政調会の部会、政調会、総務会と進む審査で、全会一致原則が貫かれていることで、異論が強ければ前に進めず、逆にいえば拒否権が強力であるがゆえに少数派はどこかで矛を収め、多数派に倣うという仕組みになっている。ひとたび矛を収めれば、全会一致なのだから党議拘束をかけることが正当化され、規律は保たれることになっている。〔…中略…〕規律を維持する仕組みとしてみれば、実によくできた制度である。(山本前掲書p.209)

 これによって選択的夫婦別姓制度の導入、LGBT関連法案がどのような扱いを受けているか、われわれはよく知っているわけだし、実体として本当にこうなのかはぼくにもわからないところがある。

 ただ、もしこれが実際にそうであれば、党内民主主義という点だけからみれば、興味深いことではある。

 この仕組みを応用すれば、松竹のいう「党内での議論を公開で自由にする」ことのメリットを容れながら、ぼくが懸念する問題をクリアできる可能性はある。

 もちろん詳細を詰めたわけではないので、あくまでいまのところのぼくの第一印象に過ぎないのだが。

 

政界再編史のハンドブックとしての価値

 本書『政界再編』は、戦後政治全体、しかしその中でもサブタイトルにあるように、小沢一郎自民党を飛び出していく90年代からの政界再編の動きとその中心ロジックを簡潔に追った本である。

 80年代末までの記述は、いわば自民党社会党という55年体制のロジックをおさらいしているわけで、それがなぜ政権交代として機能せず、90年代に入って政界再編・政権交代として機能したかを振り返るための前提に過ぎない。

 本書への評価はいろいろあっても、「政界再編史」としてのハンディな一冊という価値は揺るがないであろう。冒頭に「政党変遷図」が載っているが、これだけ多くの政党が離合集散を繰り返したのかという思いが湧いてくる。

 実はウィキペディアにも似たような政党の系譜・変遷の図はあるのだが、山本という政治学者の解釈が加わっていることは一つの価値であろう。例えば「日本を元気にする会」はウィキペディアの図では無視されている。だが、山本はこれをみんなの党の解党後の組織として図に位置付けている、などである。

 

「よりよき統治」としての野党共闘=異質なもののの組み合わせという実験

 内容については太いところで賛成の点と異論がある。

 山本は、90年代以降の政界再編のポイントを

外交・安保政策や経済政策といった伝統的な政策領域についての理念は無理に一本化しない代わりに、別の団結可能な理念で代替する形をとってきた。それが、自民党政権と比較して「よりよき統治」を目指すという方向である。(山本p.223)

としている。

 理念を大きく変えてしまう政権交代ではなく、「よりよき統治」、つまり「よりましな政権」というわけである。政策や理念は少しだけ左右にずらす、というほどのものであろう。

 山本は言う。

最も多くの有権者は中道の穏健な政治を好む。(山本p.226

 前原誠司らが小池百合子とともに目指した「希望の党」騒動で、あそこで目指された政治は「自民党よりやや左の中道保守」(同p.229)であり「政策位置のことだけを考えればこれは至って合理的な選択である」(同)と山本は考える。

 

 この目線から見て、現在の共産党を含む野党共闘路線はどう評価されるのか。

共産党を含めた野党共闘では、個別の政策では共闘を組む政党間での違いが目立ち、共通項を見出すのが難しい。(同p.231)

のだと言う。そして、

野党共闘を重んじるあまり、中道の有権者を引き付けられなくなってしまっては本末転倒である。共闘の構築は中道の有権者を引き付けることが前提とならなければ、持続可能なものにはなりえないと思われる。ゆえに、共産党からの選挙における一方的な協力を期待しつつ政権構想の共有というところまでは踏み込めない状況が続くのではないか。(同p.232)

というまことに(共産党から見ると)「虫のいい」結論になる。

 

 過激な政策をとると思われている共産党は、すでに政権参加について問題を整理している。要するに一致する範囲でしか政権の政策にしないのだ。安保条約も発動するし、自衛隊もなくさないし大いに使う。国民の7割が望んでいる核兵器禁止条約参加すら、共産党にとっては野党連合政権ができたら実践してほしいと願っているテーマだが、野党間では一致を見ない。一致しなければ、いくら野党連合政権ができても「条約には参加しない政府」ができるのである。

www.jcp.or.jp

 国民の現時点での印象は脇に置いとくとして、政策の中身でいえば、これはまさしく山本のいう「よりよき統治」すなわち「よりましな政権」である。理念はほんの少しずれる程度であろう。山本曰く「最も多くの有権者」が好むという「中道の穏健な政治」であり、せいぜい「中道左派」程度のものでしかない。

 ぼくからみた、現時点での共産党の野党連合政権における役割とは「急進的な左派政策の方向に政権をひっぱる」ことではなく、「起きる問題に対して連合政権として民主的手続き上正しく・論理的・整合的に対応する」役目、つまり仕切り役としての役割だろうと思う。沖縄基地問題や消費税問題など、民主党政権はこれを間違えて破綻した、というのがぼくの見立てである。

 そういう名仕切り役、理屈と手続きにうるさく、整合性のある対応ができるのは、良くも悪くも「正論家」である共産党の役割が大きいと思う。ま、それは単にぼくのつぶやき。異論もあるだろうが、別に構わない。

 本題に戻る。

 ぼくからみれば、90年代の非自民連立政権、2000年代の民主党政権は、連立政権ではあったが実質的に同質の政党の集まりであった。同質の政党の間での調整などそれほど大した課題ではない。

 今回もし野党連合政権ができれば、共産党という異質の政党が加わる可能性がある。

 野党連合政権は、「異質なもの」が「よりよき統治」という小幅修正のためにどう団結できるかという実験であり、そこがまさに試されているのだと言える。そんなことは日本の戦後政治でやったことがないのである。

 「中道の穏健な政治」をつくるために立憲民主・国民民主・社民・れいわ・共産は組めるはずなのに組めないことの方がむしろ謎だと言える。その鍵になっているのは「反共」であろう。

 

 山本は本書で、野党共闘を阻んでいる「反共」についてもう少し考察すべきであり、当為論として「異質なものの連合によるよりよき統治という実験」について考察すべきであった。

 

 

 

谷口菜津子『教室の片隅で青春がはじまる』

 つくりごとの、そらぞらしい、窮屈で不自由な、我々の日常を取り巻く人間関係を壊してみる、その第一歩を踏み出せば、世界は変わる。人間解放の革命である。

 谷口菜津子『教室の片隅で青春がはじまる』は『教室の片隅で革命がはじまる』としたほうがいい。

 

 高校と思しきクラスが舞台である。そこにはごく少数だが宇宙人や宇宙人との混血の生徒がいるというSF的な設定も入っている。

 主人公のまりもはクラスで浮いている。「個性的」であろうとして常にスベりつつづけ、とうとう誰からも相手にされなくなっていたのである。

 物語はまりもはもちろん、クラスの人たち、特に上位カーストにいる人たちが自分を取り巻く人間関係に違和感を抱いていて、それが壊れたりあふれたりする瞬間をとらえていく。

 『教室の片隅で青春がはじまる』で断然爽快感があるのは、やっぱりそれぞれの登場人物が日常の人間関係を壊して一歩を踏み出すところなんだな。それは自分の世界を創造的破壊をするという意味で、本当に小さいことなんだろうけど、革命なんだよ。世界が本当に変わる。その世界が変わる感じをこの作品はグラフィックでよく表していると思う。

 宇宙人の生徒・ネルは上位カーストに入っているもののアイコンのような扱いをされていて、しゃべったり行動したりしようとすると逆に笑われたりウザがられたりする。ネルは阻害されて、まりもと出会う。まりもがネルと初めて公園の雑木林のようなところで「コーラ・メントス」をやったときの、あるいは、まりもの家でコーヒーや鮭やイモの話、つまりお互いの話をするときの、あのキラキラ感を谷口はまことに「キラキラ」した躍動で描いている。孤独だった二人が、お互いの言葉がするすると染み込んでいく快感が伝わる。

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谷口菜津子『教室の片隅で青春がはじまる』KADOKAWA、kindle65/268

 本当は女子トークのモテやメイクにはなんの興味もない美少女ニカは、カースト上位グループにいるのがツラく、逆にオタクコンテンツにハマっているために、こっそりオフラインで会った同じ同好の士はクラスのカースト下位のオタクグループの一員だった。オタクグループをバカにする上位カーストについに耐えかねて、オタクの価値を高らかに称揚するニカ。「めっちゃ かっこよかった」のである。

 

 谷口菜津子の短編集『彼女は宇宙一』のラストに「ランチの憂鬱」という作品があって、クラスや家庭の息の詰まる関係を最後に解放するカタルシスがあるのだが、『教室の片隅で青春がはじまる』はそれをうんと広げたような作品である。

 あるいは『彼氏と彼女の明るい未来』も、欺瞞的であった二人の関係を創造的に破壊する結末を持っており、これもやはり同じ流れなのかもしれない。

 

 

 

 

 しなしながら、本作のテーマは実はそうした点にはない。

 主人公のまりもに照準を合わせてみれば、誰かの友達になることと創作を届けることは似ていて、それが有名になろうがなるまいが、誰からの心に届いて誰かを小さくでも変え続けているということ。それが創作をする者には励みなのだ。

 自分が書いたものや創ったものは、ベストセラーになる必要はない。誰かに届いて誰かを励ましたり誰かの足しになってくれていれば、それは作家冥利につきるというものではないだろうか、ということが貫かれている。

 「カメラに写し続けられる人生」というのは、自分は個性的で特別である、というプライドの裏返しである。

 有名になってちやほやされる、ということを、あえて空虚に表してみるエピソードがある。まりもが小学生の時、くだらない作文だなと思いながら適当にデッチ上げた文章がコンクールで最優秀賞を受賞し学校の中で異様に注目を浴びてしまったことがある。「ちやほやされて」「尊敬された」のである。

 しかし、それは嘘であることがバレて、帳消しになってしまった。みんなから軽蔑されて、だが時間とともに元に戻った。

 「有名になりたい」ということは、その「ちやほやされて」「尊敬された」ことを取り戻すことなのだろうかとまりもは自問する。

 そうではない。

 そこで浮かんできたのはネルの顔だった。

 ネルに届けたいと思うから創作をするのである(まりもの場合は動画作り)。

 創作は友達に似ているのである。

 

 

「常任委員会」をどう訳すか

  地方自治法第109条には

普通地方公共団体の議会は、条例で、常任委員会、議会運営委員会及び特別委員会を置くことができる。

とある。この「常任委員会」というのは例えば「経済振興委員会」とか「総務財政委員会」などと呼ばれていて、福岡市では5つに分かれて、全市議会議員がどこかの常任委員会に所属している。

 この「常任委員会」を英語でなんというかといえば、standing committeeである。

 つまり「常設の委員会」という意味だ。

 これは、常設でない委員会=特別委員会(special committee)と対置的に使われている。特定の事件を審査・調査するもので、必要がある場合に限り設けられる。

 

 ところで、団体の中で「常任委員会」というものを置いているところがある。

 うらみつらみはございやせんが、渡世の義理で紹介いたしますと、浜松市立北浜東部中学校PTAには「常任委員会」という機構がある。同会の規約第10条には

常任委員は、常任委員会を組織し、本会の企画運営に当たる

とあるように、この「常任委員会」は、いわば執行機関の幹部集団である。

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 日本共産党にも都道府県委員会や地区委員会には「常任委員会」がある。

 役員は数多く選出されているが、日常的にその人たちが全員、会の実務をさばけるわけではないので、役員のうちそれができる人を「常任委員」にし、その人たちが集団を構成しているのである。

 経団連には幹事会があって常任幹事会があるが、まさにその「常任幹事会」と同じものだろう。経団連の「常任幹事会」はexecutive boardである(常任幹事会会議はexecutive board meeting)。

 

 議会ではなく、このような、団体の特別な幹部集団である「常任委員会」を「standing committee」と訳していいのだろうか?

 

小山田圭吾の件について考える

 小山田圭吾の件を今さら書く。

 ぼくは、フリッパーズ・ギターを友人の影響で聴き始め、中毒になり、デートで車に乗ればいつもかけて、自分としてはそれ以外に買ったことのないクリップビデオまで買い、自分の結婚式(会費制の「結婚を祝う会」)で入場と退場において流した*1ほどにはファンであった。

 小山田と小沢健二がソロになってからはそれとなく追ってはいたが、フリッパーズ・ギターがなくなった時点で興味は失せてしまったいたのだと思う。ぼくのなかからはフェードアウトしていった。小山田や小沢個人に入れ揚げるということはなかったのである。

  現時点で、フリッパーズ・ギターを聞くことはあまりないけども、それでも思い出したように年に数回くらいは聴いてきただろうか。

 

作品は独立したものであり、したがって作品と作者は別なもの

 ぼくは、作品というのものは、作者のものだけでも読者のものだけでもなく、社会に解き放たれた段階ですでに独立した存在だと考えていて、作品の評価は客観的に定めることができるという立場である。したがって、「作者しか本当のことはわからない」とか「読者一人一人の中にしか答えはない」とかいう立場は取らない。

 ということは、作者と作品は別なものなのである(関連はあっても)。

 だから、作品の価値は、作者がどういう人であろうと、基本的に(あくまで「基本的に」だが)独立した問題なのである。

 ちょっと留保を書いておけば、全然関係ないわけではない。作品で描かれた価値が、作者のどういう動機、意図、性格から紡ぎ出されてきたかを導き出すことはできる。しかし、それだけだ。それが色濃く出てしまう作品もあるし、そうでない作品もある。作者の意図と反対の評価を受ける作品もある。

 

 ゆえに、フリッパーズ・ギターの作品がいいと思ってきたし、いいと思っている人は、小山田が何をしてきたかにかかわりなく、これからも聴けばいいのではなかろうか。

 ある作家が家庭内暴力をしてきた人だからといって、その作家が書いた小説や戯曲の価値が基本的に変わることはない。

 ある作家が、巨大な暴力である日本の侵略戦争の一コマを絶賛した詩を書き、侵略戦争に賛成をしてきたからといって、その作家のすべての作品が否定されることもない。

 「小山田圭吾」の問題として語れるのは、ここまでである。

 

人物の起用に基準はあるか

 さて、今回のオリ・パラにおける焦点は作品そのものではなく、作家の起用である。

 何らかの問題がある作家を起用して、その作家を外したりすることに何か問題が生じるだろうか。

 私企業や民間団体の場合は、結社の自由がある。

 私企業や民間団体が自分たちの基準で、誰を採用し採用しないか、またその人を途中で外すかは、その私企業や民間団体の自由である*2

 たとえ誰かを降板させる理由が、不当な風評に対して、「企業イメージを悪化させないため」という逃げ腰のものであっても、私企業には降板させる権利があるだろう(もちろん、世論はそれに抗議する権利もあるが)。

 では、公的な団体、例えば地方自治体の場合はどうか。

 これは住民の意思やそれを反映した法令に基づかねばならないので、首長や担当者の勝手な思惑で行われたら、それに対して批判するのには道理がある。つまり自由とは言えない。

 ではオリンピック・パラリンピックはどちらなのだろうか。

 ぼくは今のところ判断がし難い。

 国家や自治体が深く絡んだプロジェクトだから、おそらく公的なものに準じる団体でありイベントだと考えていいだろう。ただ断言はできない。*3

 しかし仮にオリ・パラが公的な団体・イベントだとしてもそれは何に則るべきなのか。たぶん五輪憲章なのだろうが、それでいいのかどうか、よくわからない。

 従って、あくまで推論で言えば、「五輪憲章に反する人物の起用は認め難い」ということが暫定的な結論にはなる。一般論だが。*4

 しかしすぐにその「暫定的結論」は揺らいでしまう。なぜか。

 この「五輪憲章に反するものは認め難い」という基準は、それならば、厳格に他にも適用されるべきことになるからだ。様々な角度から「五輪憲章に反する」という人物や事態は洗い出されることだろう。それを徹底するのであれば、それはそれで一つの理屈ではある。

 だが、例えば、巨大な人権抑圧をしている国でオリ・パラを開催することは妥当なのか、あるいはそのような抑圧をしている国で抑圧に加担しているかもしれない人物を開会式や閉会式に関与させていいのか、などの問題にまで発展していくことになる。これは相当な徹底を覚悟しなければならない。

 だから、小山田圭吾小林賢太郎を実際どうすべきだったのかは、今のぼく個人では何とも判断しようがないなというのが正直なところなのである。そのために、具体的問題の是非としては語ることはできず、あくまで推測に基づいて一般的な原則を確認することしかできない。

 

オリンピック・パラリンピック中止のために共同を

 オリンピックが始まった。

 始まったが、感染を拡大するこのお祭り騒ぎは、どう考えても感染拡大防止に逆行するメッセージになっている。そして国家や都市の資源をこのイベントのため集中させてしまっている。始まってしまったが、今からでも遅くはない。やめるべきである。

 小山田圭吾小林賢太郎や開会式の評価はいろいろあろう。

 また、メダルが取れてよかったね、感動したという人もいよう。

 それは今、まったく構わない。

 感染をこれ以上拡大させないために、途中であってもオリンピックを中止させるという一点で力を合わせようではないか。

 あきらめないで声を上げていきたい。オンラインでもいいし、オフラインでも。

*1:入場は「Colour Field/青春はいちどだけ」、退場は「HAPPY LIKE A HONEYBEE/ピクニックには早すぎる」。

*2:雇用はまた別の問題が生じる。ここではあくまで委託のような対等な契約を想定する。

*3:ちなみにオリンピック憲章第2章冒頭は「IOC は国際的な非政府の非営利団体である」と規定している。

*4:オリンピック憲章第1章2にはIOCの役割と使命として「オリンピック・ムーブメントに影響を及ぼす、いかなる形態の差別にも反対し、行動する」と規定されている。