坂口安吾『戦争と一人の女』『堕落論』

 リモート読書会は坂口安吾戦争と一人の女』『堕落論』。

 ファシリテーターは、以前ブログでエントリも書いたことがあるぼくである。

 参加者の一人、Aさんが事前に「『戦争と一人の女』って読み終えたけど、『なに、これ…』みたいな感じだった…。どういう感想言っていいかわかりません」と当惑しまくりだった。

 

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

  • 作者:坂口 安吾
  • 発売日: 2008/10/16
  • メディア: 文庫
 

 

 そこで、『堕落論』の方から理解するとスッキリするかもと言って説明した。

 

白痴・堕落論 坂口安吾作品集

白痴・堕落論 坂口安吾作品集

 

 

 『堕落論』の標準的な解説を、ジョン・ダワーが『敗北を抱きしめて』でやっているので、それを紹介した。

坂口安吾は、一九四六年四月に世に出した小論『堕落論』で、戦時体験は「幻影的」なものにすぎなかったと激しく批判し、これに比べると戦後社会の堕落のほうが人間的で真実に溢れていると論じた。(ダワー前掲書上、三浦洋一・高杉忠明訳、岩波書店、p.189)

この評論が衝撃的であったのは、一見してあまりに単純、正常だったからである。「健康」や「健全」という言葉は、戦時中の理論家や検閲官が非常に好んだものであるが、そういわれた実際の世界は、不健全で病的であった。逆に、退廃し不道徳であることこそが真実であり、現実であり、最高に人間的なことなのである。なによりもまず、堕落にたいして謙虚になることによってのみ、人々新たな、もっと本物の道義性について考えることができるはずである。「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わねばならない」。これが沙河口の結論であった。(前掲書p.191)

個人のレベルでの真の「主体性」(真の「主観性」ないし「自律性」)に立脚した社会でなければ、国家権力による民衆教化の力にはけっして対抗できないのではないかという問題である。(同前)

 

敗北を抱きしめて〈上〉―第二次大戦後の日本人
 

  美しい虚偽としての戦争と、平凡な真実としての堕落を対比して、後者の徹底を説いた。しかしそれは本気で堕落すべきだというより、現実と肉感に即した力強い主体的な思想(自分なりの「武士道」)を取り戻すための反語のようなものである。

 坂口は政治に期待しない。政治(や世の中で喧伝されている「思想」)などは大雑把な網だから、人間の本当の心情や本当の現実をすくい取ることなどできないというのが、坂口の厳しい批判なのである。あの頃のマルクス主義なんて、そんなことを言われてもしょうがないんじゃないかな、と思える。

 この「大義としてのコミュニズム」と「いきいきした肉感としてのオタク」という分裂は、ぼくのテーマでもある。政治で語る言葉や、政治が取り扱うものが、嘘くさいものであってはならない。両者をどう統一するのかがぼくの問題意識だ。

 他方で、坂口のノベル「美しい虚偽であるところの戦争」の美しさは、単に方便・対比的にそのように言われているだけではない。「美しい」といったらホンキで「美しい」のだ。生半可な気持ちでそう言っているのではない。坂口にとっては本当に、心の底から、虜になるほど美しいのだ。

 破壊がもたらす美しさに憑かれる様を、一人の女に仮託して描いた。それが『戦争ともう一人の女』である。

 一人の女にのめり込む様。その女は不感症で、しかも「結婚」して「子どもが生まれて」「幸せになる」などといった、幸せな未来へとは一切つながっていかない、空虚な、いくらそこにのめり込んでも満たされることのない、空虚な欲望への耽溺。

 坂口は『私は海を抱きしめていたい』で同じような女に溺れる様を描いていて、あたかも自分が肉欲に溺れているのではなくもっと孤独な何かを愛しているとかどうとか書いているのだが、違うと思う。

 ホントに、肉欲に溺れているのだ。たまたまその空虚な、サバサバした、クールな女がたまらなく好きだったんだろうと思う。その女にハマったというだけの話だ。それを何かカッコつけているだけなんだ。

 坂口は女の側の視点から書いた『続戦争と一人の女』で、男は40になると恋とか愛とかいった精神的な高みをまとったものに関心がなくなり、ひたすら肉欲に溺れるという趣旨のことを書いている。現代で言えば「割り切った関係」というヤツである。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 セックスだけやりまくって、そこに溺れ込んでる——それ憧れるなあとぼくは上記のエントリーで書いたけども、それが坂口的な「美しさ」なんじゃないか。たまたま坂口の溺れた女は空虚であって、あたかも戦争のようだっただけであって。

 もし坂口が書いた女が「ぼく好み」だったら、坂口の描写にもっと共感しただろうが、たまたまそうではなかった、というだけだろうとぼくは思った。

どの人間だって戦争をオモチャにしていたのさ

 というセリフは、戦争、戦争による利権、戦争がもたらす破壊などに、少なからぬ国民が淫していたではないかという批判でもある。それは戦争や破壊の「魅力」なのだ。

 近藤ようこがマンガ化するほど惹かれたのもの、こうした「戦争や破壊に魅入られるあやしい空虚さ」だったに違いない。

 

戦争と一人の女

戦争と一人の女

 

 

 というような問題提起を最初に行った。

 

 AさんもBさんも女性であったが、そのような坂口ののめり込みそのもの、あるいは坂口の子こととおぼしき『戦争と一人の女』に出てくる男性主人公の入れ込みようは全く理解できないと述べていた。

 Bさんは『堕落論』での問題提起はすごくわかる、とした上で、『戦争と一人の女』で描かれたような、そういう肉欲だけに溺れるというのはなんと貧しいことだろうかと呆れていた。生きていればもっと美しいものや、楽しいことがたくさんあるんじゃない? どうしてそんなセックスだけに溺れてんの? ということだ。そもそも男の方は生活の匂いもしないし、具体的な人間として立ち上がってこない、と批判していた。

 Aさんも「男の方は、何を職業として、どんな具体的生活をして生きているのかわからない」と述べていた。

 そうかなあと男のぼくは無邪気に思う。カラダだけ好き、性の対象とだけ見て性的な存在でしなかいという女にハマり続けるって、目も眩むほどに刺激的じゃない? 知らんけど。と思うわけだが、完全にそこにはジェンダーの壁があった。

 Aさんは、「だいたい戦争はどうしても嫌なものでしょ? じゃあ、みんな戦争が好きだったとでも言いたいわけ?」と身も蓋もない批判をする。

 ぼくは、「戦争に限らないけど、現実の悪い社会や政治というものに、誰か彼かが惹きつけられているし、批判しているような人でもそれを結局支えているという一面があるし、悪いものでも惹かれてしまうという堕落を認めないと本当の主体性なんて出てこないって坂口は言いたいのでは?」とAさんに繰り返してみた。

 

 AさんもBさんも、坂口安吾は生活感の乏しい出自と人生だったに違いあるまいという推論を述べていた。坂口がどんな生い立ちだったかは参加者は誰も知らないので、一方的な言い分になったであろうが。

 

 「坂口安吾がしょうもない作家だということはわかった」「大学時代に『俺、安吾が好きでさあ』という男性がいて、なんかカッコいいと思っていたけど、これを読んでもうビビらなくていいと思った」というのがAさんの強固な結論だった。

 

 Bさんは『戦争と一人の女』については懐疑的だったものの、『堕落論』が提起した問題については高い評価を与えていた。

 

 次回は夏目漱石吾輩は猫である』だ。

 

 

上西充子『政治と報道 報道不信の根源』

 本書は、第一に、マスコミの政治報道への違和感から出発してそれを市民による権力監視の方向で正そうとしている。第二に、マスコミとは別のジャーナリズムの姿を見せて、政治報道のオルタナティブを示している。

 

政治と報道 報道不信の根源 (扶桑社新書)

政治と報道 報道不信の根源 (扶桑社新書)

  • 作者:上西 充子
  • 発売日: 2021/02/28
  • メディア: 新書
 

 

 第一の点については、例えば「野党は反発」「与党は逃げ切り」などの表現を取り上げ、与野党の政局ゲームのように報じる姿勢を批判する。法案について国会審議で争われた中身をきちんと書いて、問題があればえぐるようにすべきだと主張する。また、マスコミの中ですでに自己変革の動きが起きていることも紹介している。

 第二の点については、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」(日曜版)が「桜を見る会」をスクープしたことを取り上げ、マスコミの記者は同会を長年知って取材もしながら何ら問題意識を持たなかった点に注目。「赤旗」がどうやってスクープをしていったのかを同紙編集長へのインタビューなどから分析する。

 

ぼくが学生時代に考えたこととのかかわりで

 本書を読んだ人の中には、ぼくが本書をこのような2点にまとめることに少し首をかしげる向きもあるかもしれない。

 だが、ぼくは、学生時代(すでに四半世紀以上昔だが)に本多勝一の懸賞論文に応募し、現代のマスコミ・ジャーナリズムをどうするかということについて拙い一文を書いたことがあるのだが、そのときマスコミに抱いていた違和感や解決の方向がまさにこの2点だったのだ。この2点に注目せずにはいられない!

 第一の問題については、特に、法案の問題点を議論している国会質問をまともに報じず(全く報じていないわけではない。ものすごく小さな扱い)、法案が通るかどうか、そのための駆け引きや与党内の雰囲気だけを伝える報道には、まさに著者・上西充子が指摘していた通りの違和感を、ぼくも長年強く抱いてきた(ちなみに選挙報道でも同様の問題を感じてきた)。しかし、ぼくが左翼であるせいでもあろう、マスコミの報道の仕方に違和感を持ちながらも、それは「当然」と思っていた。

 なぜなら、マスコミとは自らが大企業であり、他の大企業からの広告に支えられながら大企業支配の一端を担っている以上、支配的なイデオロギーを垂れ流すのは「当たり前」だと思っていたからである。いわば大手紙は全て「ブル新(ブルジョア新聞)」なのであって、いくばくかの良心的な記者がいたとしてもそれは「例外」でしかなく、マスコミの報道姿勢を「変えさせよう」「よくしよう」などというのは幻想に過ぎない、という思いが強かった。

 そして、第二の問題に関わって言えば、「赤旗」のように、直接国民に購読をしてもらい、財政も主張も全く独立するようなメディアを育てる以外に解決の方向はないと思っていた。だから本多が募集した論文にもそのように書き、「赤旗」のような形(大企業の広告に頼らず、独自の販売・集金網を作り、市民と結びつくこと)でメディアを育てるべきだという旨を加えて送ったのである。*1

 

「見切り」をつけない上西

 しかし著者・上西充子は、マスコミに対してそのような「見切り」をつけない。SNSをはじめとするインターネットや新聞などの紙媒体でマスコミ(の記者)に粘り強く批判を行い、改善の道筋を示す。

 これは、左翼的に言えば「支配階級の一翼を担っている大手マスコミを改善させるのは幻想だ」という問題だが、もう少し一般向けに言えば、「マスコミ*2は行政機関ではなく自由な言論だから、民意によってコントロールすること、『公正』化することはできない」という問題になるだろう。この思いがぼくの中にある。

 が、上西の取り組みを見ていると、そのような思いがあまりにも早く「見切り」をつけ過ぎた、一種の「あきらめ」になってしまっているという反省をぼく自身が迫られた。

 上西は、政治報道への批判とともに、改善された報道などを紹介した上で、

その問題意識を、「もう〇〇など、いらない」という形で表明するのではなく、問題があれば指摘し、良い取り組みは評価し、買い支えつつ変わっていくことを期待していきたい、と筆者は考えている。(本書p.161)

と述べており、それはまさにぼくのような思いへの批判であろう。

 さらに、第3部では「変わろうとする新聞」として、マスコミのなかでの自己変革の取り組みを紹介している。ぼくにとっては、これまでは大手メディアの記者の「顔」(思い・心情・活動)が具体的に見えなかっただけに、こうした人たちがどんな思いで報道を変えようとしているかがわかると、心情的に印象が変わってくる。

 特に、ここで紹介されている毎日新聞の統合デジタル取材センターの実践は、「(集まった記者たちによって書かれるデジタル用の記事の数は)月に100本から120本ぐらいですね」とか「週1回、全員集めて会議をやっています」など具体的な姿がわかり、興味深い。

 特に、

もともと、紙の新聞って、スペースに制限があるので、削られることが大前提なんです。…ところが今はデジタルなので、書けばどんな大事件が起ころうが選挙があろうが、4千字でも5千字でもいくらでも載せられる。そのため、記者は取材の成果を全部、字にすることができる。(本書p.238)

というくだりは、報道姿勢の問題ではなく、日々いろんなことが報道できるという意味で、例えば「しんぶん赤旗」などが逆に参考にすべきではないのか、と思った。

 なぜなら、「しんぶん赤旗」(日刊紙)には地方版が週何日しか載らない。しかも県ごとに版面を変える財政上のゆとりがないために例えば「西日本のページ」などといったガバガバの広さになってしまっているので、福岡県の小さな市町村のニュースなど滅多に載らなくなってしまうのだ。だから、例えば福岡市議会のニュースを読もうと思ったら、西日本新聞のような地元メディアを読むしかないのである。

 しかし、紙は無理でもデジタルで県内記事を出し続ければ、「しんぶん赤旗」読者も少なくとも情報は手に入ることになる。これはおそらく根本的な問題であり、共産党はきちんと検討したほうがいいと思う。

 

政策的立場の前にどんなジャーナリズムでも共通して取り組めること

 話を元に戻す。

 このように、上西の取り組みが、「ブル新などに期待できない」と思うぼくに反省を迫ったわけであるが、問題を少し整理してみたい。

 というのは、とはいえ、じゃあ例えば朝日新聞が「消費税は廃止すべき税制」という立場で論陣を張るだろうか。あるいは読売新聞が「原発廃止」で問題をえぐるだろうか。あるいは毎日新聞が「安保条約廃棄」という筆をとるだろうか。

 もちろん、粘り強い働きかけや、世論の動向で変わるかもしれない。

 しかし、そこは置いておこう。マスコミ各社がどういう政策的・政治的立場をとるかということを、上西は変えようとしているのではなかろう。

 上西が本書で取り組んでいる問題は、このような政策的・政治的立場よりももう一歩手前のところにある。

 例えば、「残業代ゼロ法案」では、その法案への是非の前に、調査データを不適切に取り扱っている、ということを上西は問題にしてきた。これは与党であろうが野党であろうが関係なく、いわば民主主義のルールとして共通して問題にしうることである。

 聞いたことに答えずにあたかも答えたかのように偽装する「ご飯論法」や、「答弁を訂正する」と言いながら、訂正されるべき答弁とされた後の答弁を明示しない当時の安倍首相のごまかしなどは、本来ジャーナリズムや新聞であればどのような立場であっても問題にしなければならない、と言える。

 国会の質疑を通じてそのような問題が明らかになり、報道されたとしたなら、その上で新聞各紙は、政策的な立場を決めればよい。「やはり残業代ゼロ法案は出し直すべきだな」とか「消費税増税は今やっても問題はなさそうだな」などといった具合にである。

 いわば、政策的立場を各社が決める前に、どんな立場のジャーナリズムであっても(読売でも産経でも)、共通して報じられること・報じるべき姿勢があるだろうというのが上西の考えではないかと思う。そのフィールドでの上西の提言であり、活動であるのだ。

 ある意味で、これは安倍政権・菅政権のように、「答弁や政治姿勢があまりにもひどい民主主主義破壊をやっている時代のマスコミ・ジャーナリズムへの向き合い方」であるとも言える。市民の意見・提言・活動によって、どんな立場の新聞社であろうともその報道の仕方を改善させていくということは、この時代であるがゆえに成り立っているのかもしれない。

 したがって、やはり政治報道のあり方を改善させるべく、意見を述べ続けていくことは、こんにち決定的に必要なことであろう。

 

 四半世紀以上前には、そうした「改善」が全く想像しにくかったという事情もある。

 1990年代初頭、一般市民がインターネットを利用できる環境など全くなかった。市民が意見を言って変えるには新聞に投書するくらいだ。さもなければ自分たちで市民運動を起こし、ビラをまいて集会をしてようやく世論として認識されて変わるというスピードだったから、新聞の表現にいちいち何か心を囚われていることは本当に「無駄」だとしか思えなかったのである。

 そこから時代が変わった、という認識を、ぼく自身が持たなくてはならないのだろう。

 

市民系のジャーナリズムが体験するダイナミズム

 第二の論点についてはまことに興味深い。

 ぼくは本多の呼びかけに応えた、当時の論文の中で、オルタナティブとして「赤旗」の報道、拡大、集金・配達の仕組みを取り上げていた。マスコミに期待できない以上、自分たちで草の根のメディアを育てる以外にはなく、その一例が「赤旗」だったのだ。

 そこでは、大手紙の報道とは全く切り離された、「我が道を往く」という活動がイメージされていた。

 ただ、ここでも時代は大きく変わっていて、「しんぶん赤旗」日曜版編集長の山本豊彦編集長は「桜を見る会」が問題化した背景に、SNSでの世論化があったことをこう述べている。

どちらかというとツイッターという市民の声が後押しをして、(毎日新聞の)デジタルが書いて、それで、今、表にあるように、やっぱりツイッターが話題になったということで、ワイドショーがやり、その間には野党が共同でやるという下支えがあって、その上で、やっと大手紙が動くと。今までの報道のやり方と、かなり違う展開をしていった。(本書p.323〜324)

田村さんの質問があるときに、ツイッターで非常に話題になった。そこある意味じゃ、本当に国民っていうのは健全っていうか、やっぱりそれが逆に今、こうマスコミを動かしているということは、非常にこう、希望があることじゃあないかなというふうに思ってます。(同p.325〜326)

  これだけオルタナティブのメディア、世論、マスコミ(そして野党共闘)が絡み合ったダイナミックな展開というのは、やはり四半世紀前には考えられなかった。その点でもぼくは以前「赤旗」のような「マスコミとは別のメディア」を育てるという問題についてもやはり自分の硬直したところを考え直す必要があると思った。

 

 第一の論点も第二の論点も、そこにはインターネット、特にSNSが絡んでいる。その条件を踏まえて、新しい事態がメディアと市民の間に起きていると考えて、冷笑的ではない、粘り強い改善の取り組み、そして、思わぬ飛躍が起きる独立系のメディアの新しい可能性を、本書を読んで思った。

 

余談

 ところで、本書にぼくの名前が3回も登場する。

 「ご飯論法」の命名者としてである。

 ホント、いつも律儀に紹介してもらってどうもすみません…。

*1:ちなみに本多勝一はその後この論文についての結果発表はいまだにない。10年ほど経ってから一度問い合わせの手紙を送ったが“もう少し待ってほしい”という返事がきたことがある。ぼくが論文を送って以後、本多も加わる「週刊金曜日」が発刊され、定期購読に支えられるシステムをとったのは、ぼくの論文の成果に違いない! とひとり悦に入っていたものである。

*2:受信料を徴収し、予決算が国会で審議されるNHKは別格だろう。

週刊現代2021年4月3日号に町内会問題のコメント掲載

 「週刊現代」2021年4月3日号に町内会問題についてのぼくのコメントが掲載されました。

週刊現代 2021年4月3日号 [雑誌]

 

 「60歳すぎたら、70歳すぎたら『人づきあい』を整理する」という特集の中で、ぼくが町内会で人間関係のトラブルに巻き込まれた経験、町内会との距離感(距離の取り方)について述べています。

 

 つうか、校正はしたんですが、掲載誌を確認できてなくて本当に載っているかどうかはわからんのですが…。

 

「福岡民報」で「マンガから見えるジェンダー」を連載

 「福岡民報」2021年5月号(No.1710)に「マンガから見えるジェンダー」という(たしか)3回連載の第1回目が載りました。

 「福岡民報」って福岡県で最も配布されている媒体=号外チラシと思われているかもしれませんが(笑)、ちゃんと定期刊行されているんです!

 海野つなみ逃げるは恥だが役に立つ』について、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』や岡野八代『ケアするのは誰か?』に触れて書いています。

 

 

 

 

 

 子育てで(左翼系の)会議を休んだ人が「私用で休みです」と会議参加者に報告されたエピソードから話を起こしています。

 「子育て」や「家事」は「私用」でせうか?

 ましてやコミュニストからみて。

 

 

 

 岡野八代が「前衛」のインタビューで答えていましたけど「今日の夕飯何がいい?」と聞かれて「何でもいいよ」と言われる、献立を考える大変さを共有してもらえない、あの感覚についての発言が印象的でした。

 『Who Cares?』は社会への問いかけ的な「誰がケアを担うのか?」という大きな話だけでなく、もう一つ、「えー…、そんなの君が考えてよ。私の仕事じゃないもん」と言い捨てられる感覚。あの、ケアは「誰か他の、自分でない人がやってくれる」という感覚。

  

「ブラック校則」の「合理的理由」をしつこく問い詰める

 福岡市の中学校の人権侵害の校則、いわゆる「ブラック校則」が話題になっている。

news.livedoor.com

 

「学校まかせ」では人権侵害がいつまでも解決しない

 ぼくは市内の中学校に娘を通わせる一人の親として強い関心を持ってきた。

 ぼくがずっと感じている不満は、「校則は学校ごとの問題。学校ごとに決めればいい」という扱いをされることだ。結果的にいつまでたっても問題が解決しないのである。

 学校という単位になると、一人の保護者が言えることは実に限られている。担任や校長に話したこともある。それで変わるかどうかはわからない。というか、悪意にとらえれば、「3年間、のらりくらりとかわしていれば、このモンペは子どもが卒業してしまうのでおさらばだ」と思われているのだろう。

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PTAを通じた改革の可能性と難しさ

 PTAはどうか。福岡市でもPTAを通じて改革したケースはある。

news.yahoo.co.jp

 これは貴重な経験には違いない。

 しかし他方で、「会長」や「役員」でなく、「いち会員」としてこれを取り上げるのは至難だ、というのがぼくの実感である。

 小学校のPTA総会でぼくは「いち会員」として「PTA加入は任意であることを規約に明記してほしい」と発言し、提案したが、否決された。総会に出す前にも、役員会のようなところで意見を述べたりもしたが、取り合ってもらえなかった。

 本当は親同士のつながりで総会に乗り込んで意見を言うのがいいのかもしれない。ぼくはほとんど今つながりがない。いや、全くないわけではないが、総会で意見を言うところまで「勇気」を持てる人はぼく以外にいない(同じ中学校の中では、頑張ってもあと一人くらいだ)。そうなると総会で一人で意見を言わねばならないが、総会の現数出席の大半は教員である。要するにあてにならないのである。3年というリミットの中では望みは薄いと思っている(しかも昨年はコロナで一堂に会する総会がなかった)。

 つまり「学校ごとに決めろ」という口上――それは戦後教育制度の中で学校が中央統制ではなく教育をする主体としての地位を保ってきた良い側面なのだが、他のあらゆる問題は中央政府の意向を忖度しまくって教育委員会の号令で各学校を従わせるくせに、都合の悪いことは「学校ごとに」と言って逃げてしまうのである。

 しかし、問題は「人権侵害」が校則によって起きているということだから、問題の性格上、それは教育行政によって直ちに是正されるべきもののはずだ。例えて言えば、「いじめ」が起きているときに「まずは学校で話し合って」という悠長なことはしないはずであろう。

 

 だとすれば教育行政として、つまり教育委員会がイニシアチブをとって、具体的に人権侵害である校則をなくすようにしてほしいと思っている。

 

抽象的な権利規定の弱点

 しかし、ここで注意しなければならないことがある。

 例えば「子どもの人権条例」のようなものを制定した場合果たして効果があるのだろうか。

 ぼくは、それすらも困難だと思っている。

 なぜなら、教育委員会や学校は、「子どもの人権」と「校則(教育的指導の名)による人権侵害」を全く分けてしまっているからだ。すでに「憲法」や「子どもの権利条約」には「表現の自由」が明記されている。

 それと同じようなものを市の条例で作ってみても、教育委員会や学校は「教育的指導」としてそれをすり抜けてしまうのである。

 憲法・条約上の人権を、「教育目的」の名で勝手に抽象化して、規制してしまうのだ。

 このやり方を打ち砕くには、具体的でロジカルなやりとりが必要になる。

 それを密室の交渉の場ではなく、責任ある場所で行うこと――それはまさに議会もしくは教育委員会会議以外にない!

 そこまでしなければ校則はこじ開けられない。少なくとも福岡市では。

 

 このことに着目した、今年3月23日の、福岡市議会における条例予算特別委員会総会の場での、山口湧人議員(共産党)の質問は、大変鋭かった。普通なら抽象的な答弁によってすり抜けてしまう教育長を、なんどもなんども具体的に問い詰めて「雪隠詰め」にしていったからである。

 「ツーブロック」の合理的理由を問いただした池川友一都議(共産)の質問は有名だが、この山口市議の質問もブラック校則の「合理的理由」をしつこく議会で問い詰める、稀有な取り組みだ。

 もちろん教育長は「ごめんなさい」とは言わなかった。しかし、やりとりによってその不当性が十分に浮かび上がったとぼくは思った。(以下の引用は、ぼくが動画から起こしたものであり、正式な議事録によるものではない。29分ごろから校則問題が始まる)

smart.discussvision.net

 

 

説明がちゃんとできるような合理的理由なくして表現の自由は規制できない 

山口湧人「今年2月、福岡県弁護士会が、(福岡市内の市立)中学校69校の校則や生活の決まりなどの調査を行い、合理的理由が説明できない校則や生徒指導の実態が明らかになったとして、そのような校則や生徒指導の廃止、もしくは見直しを求める意見書を提出した。私自身も、69校の校則を調査し、見直しを求める当事者の話を聞いてきた。憲法21条、子どもの権利条約13条1項には何と書いてあるか」

教育長憲法21条には『集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する』及び『検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない』、子どもの権利条約13条1項には『児童は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む』と示されている」

山口湧人表現の自由を制限するには、合理的理由が明確でなければならない。校則や生徒指導が真に必要かつ重要な教育上の目的、社会通念上、合理的理由が認められるのか、質していく」

  まず、憲法そして条約の上で「表現の自由」が子どもを含む日本国民に保障されていることが明記されている。*1

 ここは前提としてとても大事なところで、本来「表現の自由」は規制できないのである。

 規制するには、よほど明確な合理的理由が必要になる。つまりきちんと必要性を説明できなければならないのだ。

 これは例えば制服のような規制だってそうである。

 ぼくらはついつい「めちゃくちゃな校則」だけを問題にしがちであるが、制服でさえ、その必要性をまともに子どもに説明できないのであれば、規制ルールとして存在することはできないものなのだ。

 

二転三転する教育長の答弁

 まず、スカート丈は「膝の上にするのはダメ」、要するにミニスカートにするな(というほどミニではない)という規制である。このやり取りを見てみる。

山口湧人「ほとんどの中学校がスカート丈の長さを『膝の上にならない程度に調整』『うつむかず背筋を伸ばして立った状態で膝が見えない』などと規定している。スカート丈の長さを規制する教育上の目的はどこにあるか」

教育長「スカート丈の長さの規制は登下校を含めて生徒が健全で安全な学校生活を営み、よりよく成長するための行動の指針として定めており、社会通念上、極端でない長さの規定は必要かつ合理的な範囲と考えている」

山口湧人「その基準は誰が決めたのか、客観的基準を明確に答弁せよ」

教育長「各学校で決められている」

山口湧人「学校で決めるというけど、教育委員会の『新標準服採用における校則に関するガイドライン』では参考例でスカート丈の長さについて『直立姿勢で、膝が隠れる程度の長さにすること』として示している。教育委員会が合理的な理由、教育上の目的について指針を持っていると思うが、重ねて答弁を求める」

教育長教育委員会から指針を出しているが決定するのは各学校だ」

山口湧人「『健全で安全な学校生活を営み、よりよく成長するため』にはスカート丈が膝の下にないといけないというなら、その客観的基準を答弁せよ」

教育長「規定については生徒が規範意識を持って健全な学校生活を営むことを目的としている。その内容は生徒の実情、保護者の考え方、地域の実情、社会の常識、時代の進展などを踏まえたものだ」

山口湧人「そういうことは生徒自身が判断すればいいだけだ。客観的基準は存在しないということだ。スカート丈の規制は意味がない」

  教育長の答弁が二転三転している。

 最初は「学校が決めている」と言い逃れしようとしているのがわかるだろう。

 しかし、山口議員は、教育委員会自身がガイドラインで「膝が隠れる長さ」というヘンテコなルールを学校に示しているという反証を突きつける。学校を誘導しているのは教育委員会ではないかと。

 これを受けて教育長は「指針を出しているが決定するのは各学校だ」という支離滅裂な答弁をする。「指針の根拠」を尋ねられているのに、「決定の所在」に話をすり替えているのである。

 最初の「学校が決めている」という答弁は不当だったことがわかる。

 山口議員がさらに「『健全で安全な学校生活を営み、よりよく成長するため』にはスカート丈が膝の下にないといけないというなら、その客観的基準を答弁せよ」と畳み掛ける。

 教育長は「生徒の実情、保護者の考え方、地域の実情、社会の常識、時代の進展など」という、あまりにも幅が広く、どうとでも解釈できる「基準」しか言えない。

 「生徒の実情」で膝下? 膝の上だと生徒にどんな困ったことが起きるのか?

 「保護者の考え方」で膝下? アンケートでも取ったの?

 「地域の実情」で膝下? 福岡市では奇抜な習俗があるのか?

 「社会の常識」で膝下? 「膝上のスカートなんか見たことがない」という常識がどこに?

 「時代の進展」で膝下? 時代は令和になってスカート丈が伸びたの?

 つまり合理的理由を説明できないのである。

 

 ポニーテール、お団子、ツーブロックは「社会規範を守れていない」のか

山口湧人「ポニーテールやお団子、ツーブロックなどの髪型が禁じられている。なぜ禁じるのか、教育上の目的、合理的理由の説明を求める」

教育長「髪型の指導は生徒が規範意識を持って健全な学校生活を営むことを目的としているが、その内容は生徒の実情、保護者の考え方、地域の実情、社会の常識、時代の進展などを踏まえたものでなければならない」

山口湧人「意味がわからない。『規範意識』とは何か。その客観的基準を説明せよ」

教育長「(1分間沈黙)準備ができてないので答弁できない。(後ろと打ち合わせ)社会規範の遵守について適切な指導を行うことは極めて重要なことと認識している。このことは文科省の『生徒指導提要』にも記載されている」

山口湧人「『提要』にはなんと書かれているのか」

教育長「手元にない。(後ろからメモがくる)『学校には一定の決まりが必要』『社会規範を重視し適切な指導を行うことは極めて重要』『校則は必要かつ合理的な範囲で制定されたものであり、校則を制定する権限は校長にある』とされている」

山口湧人ツーブロック、ポニーテール、お団子の髪型の生徒は『社会規範を守れない』というのか」

教育長「髪型の規定は規範意識を持って健全な学校生活を営むためのものだが、その内容は、生徒の実情、保護者の考え方、地域の実情、社会の常識、時代の進展などを踏まえたものでなければならない」

山口湧人「一律にツーブロック、ポニーテールの髪型は禁止と校則に定めている。規制になんの根拠もない。熊本市教育委員会は、ツーブロックなどの髪型の規制には合理的な理由が認められないとして見直しの対象にしている」

 

 教育長がしばしば立ち往生している。答弁できないのである。自民党議員が「発言通告していないだろ」とヤジを飛ばしているが、「福岡市議会会議規則」(条例に準じるもの)49条には発言通告書の提出が議員に義務付けられており、通告しないテーマは質問できない。山口市議はきちんと通告書を提出しているから議長(ここでは委員長)は山口市議の質問を制止していないのである。*2

 結局、時間をとって答弁に戻ったものの、「ツーブロック、ポニーテール、お団子の髪型の生徒は『社会規範を守れない』というのか」という山口議員の質問にはまともに答えることができていない。

 

無理やり髪の毛を染めなおす、眉毛を描きなおすのは「教育」

山口湧人「染色やパーマも多くの学校が禁止している。違反した際の指導について驚くべき内容が明文化されている。『髪が染めてある状態では教室にあげない』『学校で黒く染めることもある』『一旦黒に染めるが、本来の自分の髪の毛に戻せるよう過去した部分を切っていくよう指導する』など意味不明だ。中学生は一律に黒髪でストレートにしなければならないという規制に合理的理由は見出せず、無理やり力づくを直させるのは明らかな人権侵害ではないか」

教育長「髪を染めた生徒には色を元に戻す指導を行い、指導に従わない生徒については別室にて学習を行うこともあるが、教育的指導の範囲内だ」

山口湧人「重大な答弁だ。人権侵害の生徒指導を放置するのか」

教育長「教育的指導の範囲内だ」

山口湧人「ある学校では眉毛を加工したら、『別室で指導』『太く大きく描く』『眉毛が生えそろうまで休み時間はトイレなど以外は教室から出さない』――こんな校則まである。授業を受ける権利を侵し、人権侵害ではないか」

教育長「教育的指導の範囲内だ」

山口湧人「あらためるべきだ」

教育長「いや、教育的指導の範囲内だ」

 

  自民党議員席から「よく言った!」と激励のヤジが教育長に飛ぶ。そういう感覚の議員に守られて教育行政が営まれている。

 これは本当にひどい答弁で、道理も納得もない、教育の敗北である。

 

下着検査をしているのに「していない」と強弁

山口湧人弁護士会の調査では市の学校の8割以上で下着検査をしている。下着の色を規定する教育上の目的は何か」

教育長「肌着などの規定は華美な色が透けて見えることや経済的理由からカッターシャツやブラウスの下に着用するものは色を指定することもあるが、それ以外は色を指定することはない。なお福岡市においては下着の検査は実施していない」

山口湧人「一般社会では下着の色まで決められていることはない。このような校則があるため、下着の色を目視でチェックするなどの生活検査が行われている。弁護士会の調査では『女子生徒が男の先生から下着の色を指摘され、それ以来学校に行けなくなった』という声が紹介されている。下着チェックは明らかなハラスメントであり、人権侵害ではないか」

教育長「令和2年11月に教育委員会が調査したところ全ての中学校で下着の検査は実施していない」

山口湧人「『カッターシャツの下に着る下着は白』『柄シャツは脱がせて担任が預かる』と城南区の校則に書いてある。これは下着検査ではないのか」

教育長「教育的指導の範囲内だ」

山口湧人「『教育的指導』ということで(検査を)行なっているということだ。大阪・枚方市では教職員が生徒の下着の色・形を話題にすること自体をセクハラとしている」

 

 共産党は2019年に独自の調査で下着検査を議会で告発したが、その時教育長はそんな検査は「ない」と否定した。共産党は直後に教育長に“調査もせずに否定するな、ちゃんと調査しろ”と申し入れるが、教育長は聞く耳を持たない。

 そして、昨年県弁護士会が独自の調査で福岡市内の中学校を調査し、意見書を提出。やはり冒頭に紹介したような異常な事例が大量に見つけ出された。

 ところが、教育委員会弁護士会の意見すらも否定したのである。下着調査など行われていない、と。共産党はさらにこれに対して抗議し、調査を要求している。

 教育委員会のロジックは「上から目視するものは下着検査ではない」ということだ。仮にそれを脱がせて預かるにしても、である。

 山口議員は「『カッターシャツの下に着る下着は白』『柄シャツは脱がせて担任が預かる』と城南区の校則に書いてある。これは下着検査ではないのか」と聞いて、教育長は「教育的指導」であるとしているが、「下着検査」であるかどうかは答えていない。ごまかしているのである。「下着検査でない」といえば、あまりにも詭弁が露骨になるし、「下着検査だ」といえばこれまでの答弁が虚偽になってしまうからである。

 ただ、「『カッターシャツの下に着る下着は白』『柄シャツは脱がせて担任が預かる』という校則・指導の存在」は教育委員会も争っていない。そういう校則・指導が存在することは認めるのだ。

 そうではなくて、さらに、県弁護士会が見つけた事実、「廊下に1列に並ばされて、シャツの胸を開けて下着をチェックされる」というような実態は存在すら否定し続けている。どんな調査を教委が「令和2年11月」にしたのか知らないが、生徒に聞き取りもせずに、学校当局に照会をかけただけ——「ありますか〜? あったら言ってね〜?」で一斉メール…みたいな腐った調査を仮にしていたとしたら、そんなもので「不都合な真実」がわかるわけがない。「調査した」という体裁だけだ。

 

 

男女別髪型規制は不適当であると認める

 こうしたやり取りの中で唯一教育長が不適当な校則であることを認めたのは、男女別髪型規制であった。

山口湧人「男子は『前髪は眉や目にかからない、横髪は耳にかからない』、女性は『前髪は目にかかる場合はピンで留める』『両眉が見えるようにする』『肩にかかる場合は耳より下で結ぶ』と明確に男女別に規制している。男・女以外の性を自認する人、生まれた性に割り当てられた性と性自認や性表現が異なる人などいる。にも関わらず、男女区別して頭髪を規制する合理的な目的はあるのか」

教育長「頭髪規制は清潔感を持たせ、不快感を抱かせず、顔の表情をわかりやすくするために教育上の目的を達成するために必要なものとして定めているが、男女別の規制はわかりやすさなどから慣例的に設けられてきたものだ」

山口湧人「矛盾している。ジェンダー平等は世界の流れだ。男女差をなくした新標準服の導入の趣旨と矛盾するのではないか」

教育長「男女別の頭髪規制は男女の公平性やLGBTの配慮などを踏まえ、生徒一人一人の個性が尊重され、多様性が認められるものとなるように改善することが望ましい旨を各中学校に通知している」

山口湧人「頭髪の男女区別を規制するのは見直すべきだ」

教育長「すでに改善するよう通知している」

山口湧人「私がもらった各学校の校則では男女別の規制が行われている。今後指導していく、なくしていくということか」

教育長「教委として改善することが望ましい旨の通知をしている」

山口湧人「改善されたかどうかしっかり実態を調査すべきだ」

 

 山口議員が指摘しているように、これは教育委員会鳴り物入りで宣伝している「男女区別をなくした新標準服」の考えに真っ向から矛盾してしまうからである。

 ただ、この問題でも「通知している」というだけで、学校現場でこの種の人権侵害が実際に是正されたかどうか、確かめる気はさらさらない。

「 学校は社会の理不尽さに適応し我慢する力をつける場ではない」

山口湧人熊本市のように子ども・教職員・保護者へ大規模な実態調査をすべきだ」

教育長「市立中学校においては必要かつ合理的な範囲内で校則が定められている。今後も校長会と連携し各学校の校則が生徒の実情、保護者の考え方、地域の実情、社会の常識、時代の進展などを踏まえたものとなるよう見直しを行う」

山口湧人「明らかな人権侵害が起きている。教育委員会がイニシアチブを発揮して是正すべきだ。学校は社会の理不尽さに適応し、我慢する力をつける場ではなく、子ども自身が、自身に関係することは自由に意見を言えて、理不尽なものは変えていけるということを学ぶ場であることを教育委員会が認識すべきだ。子どもを管理・規制の対象とせず、権利の主体として捉え、人権侵害の校則を直ちに廃止し、子供から直接意見を聞き取り見直しのための手立てをとるべきではないか」

教育長「校則は学校が教育目的を達成するために必要かつ合理的な範囲内で定められるものであり、生徒が健全な学校生活を営み、よりよく成長していくための指針として各学校において定められている。今後とも各学校の校則が保護者に理解されより教育的効果を高めるよう取り組む」

 

 「学校は社会の理不尽さに適応し、我慢する力をつける場ではなく、子ども自身が、自身に関係することは自由に意見を言えて、理不尽なものは変えていけるということを学ぶ場である」とはまことにその通りである。

 学校で行われていることは、まさに「理不尽さに適応し、我慢する力をつける」という「修行」であり、反教育ともいうべき営みが日々再生産されている。

 

韓国の「学生人権条例」を読む

 韓国のことに詳しい知人から、「学生人権条例」を訳したものを見せてもらったことがある。相当詳細な中身だ。基本的人権を抽象的叙述にせず、対象や状況を相当具体的に絞り込んで権利を明確にしている。

 例えばソウル特別市の「学生人権条例」の第12条はこうである。

  1. 学生は服装・髪型など容姿における自分の個性を実現する権利を有する。
  2. 学校長と教職員は学生の意思に反して服装・髪型など容姿について規制してはならない。

 具体的に絞り込んでしまうことは、権利の使い勝手を悪くしてしまうのであるが、ぼくの率直な感想は「これくらい言わないと使えない」というものだ。具体的に行政や学校の手を縛る必要がある。

 韓国の(ソウルの)「学生人権条例」は、単に髪型や服装だけにとどまらず、学習や休息に至るまで全面的で包括的な生徒の人権を保障し規定している。

 

日本でも「人権侵害の校則を禁止する条例」が必要ではないか

 そこで韓国の「学生人権条例」のような、しかしそれほど包括的でない、人権侵害校則の禁止に絞り込んだ、明確な条例が必要だとぼくは思った。

 上記でさんざん見た通り、教育長があれこれいい抜けできないような、厳しい、具体的な条例が必要だと思うのだ。

 例えばこんな具合である。

(目的)

第1条 この条例は、福岡市立学校における校則が子どもの基本的人権を侵害しないようにし、もって日本国憲法および子どもの権利条約の理念が市立学校の子どもの生活において実現することを目的とする。

 

(定義)

第2条 この条例において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。(略) 

 

(校則における基本的人権の尊重)

第3条 市立学校は子どもの基本的人権を侵害する校則を制定してはならない。また、子どもの基本的人権を侵害する指導をしてはならない。

2 市立学校において、合理的理由なく、日本国憲法および子どもの権利条約で保障された子どもの基本的人権を規制してはならない。

 

(服装等の自由)

第4条 子どもの服装等は表現の自由が保障されなければならない。

2 市立学校は制服および標準服等を制定し、強制してはならない。

3 市立学校は子どもの服装等を規制してはならない。

 

(頭髪等の自由)

第5条 子どもの頭髪等は表現の自由が保障されなければならない。

2 市立学校は子どもの頭髪等およびそれに関する道具について規制してはならない。

3 市立学校は子どもの頭髪等について本人の意思に反する証明を求めてはならない。

 

(持ち物の規制)

第6条 子どもの持ち物は原則として自由であり、市立学校は合理的理由なく子どもの持ち物を制限してはならない。

 

(学校外行動の自由)

第7条 市立学校は子どもの学校外行動を制限してはならない。

 

(校則検討委員会)

第8条 市立学校は校則の制定および改廃について子どもの意見表明の機会をもうけるために子どもを参加させた校則検討委員会をつくり、その意見を尊重しなければならない。

2 子どものうち10人以上から校則の制定および改廃について発議されたときは、市立学校は前項を踏まえた上で発議を検討し、その結果を公表しなければならない。

 

*1:なお子どもの権利条約13条の2項では権利の制限の条件が書かれているが、制限は法律によらなければならないことが明記されている。

*2:ここで自民党議員が想定している「通告」とは会議規則で定められた「発言通告書」のことではなく、おそらく事前に答弁と質問の台本を作り、質問者と答弁者がすり合わせることだが、そんなことをやる義務は議員側にはない。規則でも条例でも慣習(法)でもそんな定めはない。完全に「当局とのすり合わせ脳」になってしまい、自分がヤジっている内容の低レベルさを自覚すらしないタイプの、恥ずかしいヤジ。

ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか』

 リモート読書会は、ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス――人はなぜ人種差別をするのか』(明石書店、山岡希美訳、 高史明解説)。

 

 

 著者・エバーハートの主張する「無意識のバイアス」のメカニズムを正確に理解することがまずは必要だ。

  1. 格差社会(差別社会)の中で大量の格差・差別的現象に触れることによって
  2. 脳の器質的なしくみ・構造によって引き起こされる

…というものだとぼくは理解した。

 大量の差別現象の中で起きる脳の構造によるものである以上、そういうバイアスを持ってしまうのは、その人が思想的な差別主義者だからではない。あるいは心の奥底に差別意識を持っているからではない。誰にでも起こりうることなのだ、とエバーハートは言う。

潜在的なバイアスは人種差別主義の別名ではない。実際、潜在的なバイアスの影響を受けるのに、あなたが人種差別主義者であるかどうかは関係ないのだ。潜在的なバイアスは私たちの脳の構造と格差社会がつくり出した歪んだレンズのようなものである。

(ジェニファー・エバーハート『無意識のバイアス人はなぜ人種差別をするのか』KindleNo.123-125) 

 ぼくは、この本を読んで、表題から想像される「バイアスが引き起こされる自然科学的なメカニズム」のようなものにはあまり関心を持たなかった。

 一番ぼくにとって「驚き」だったのは、米国の黒人を取り巻く状況が、依然差別的なものであるというエバーハートの説明、彼女が説く米国における黒人の状況、というものに一番「驚いた」のである。それが本書を読んでのぼくの最大の「収穫」だった。

 ぼくなりに読み取ったのは次の4点である。

  1. 黒人は依然として米国社会で警察から不当な扱いを受け、一瞬で殺されるかもしれないという危険にさらされた意識を持っている。
  2. 刑事司法においても不利に扱われ、長い拘留で借金を背負うかも、失業するかも、親権を失うかも…という不安にさらされるあまりに、それを回避するために、してもいない罪を認める「自白」をしてしまう。
  3. コミュニティや教育において依然として実質的な隔離が行われている。
  4. ビジネスや採用の場面において、黒人差別は事実上行われている。

 え? お前、つい最近起きて全米・全世界が震撼したジョージ・フロイド殺害事件やその後に起こったBLM運動をまさか知らないの? と言われそうだけども、1.〜4.をとトータルに聞くことで、黒人への差別・抑圧構図が依然として、黒人の日常的な意識を支配し規制するほどに強力なものだという認識が構成された。逆に言えばそういう認識がなかったのである。つまり早い話が、「差別はもうだいたい終わったのではないか」。これだけ衝撃を受けている、ということはぼくは結局その程度の認識をしていたということなのだろう。

 これは日本ではたぶんポイントになる点で、本書の解説でも、黒人社会の差別の現状への認識が「BLM運動への冷笑」を生んでいると述べている。

 ぼくは福岡で行われたBLMを叫ぶデモにも参加した。

 しかし、あらためて米国の黒人差別の状況の皮膚感覚について問われるなら上記のような有様なのだ。

 読書会参加者のPさんは米国で暮らしていたことがあり、黒人が暮らしている区画の状況やたいていの黒人の子どもが処世術として警察への態度を親からどう教えられるかなどについて話があった。

 もう一人の参加者Qさんは、荻上チキが本書を紹介していたのを聞いて、この「無意識のバイアス」の解決策に興味・関心を持って本書を読んだことを紹介した。

 Qさんは、本書の中で「賢明なフィードバック」という介入に注目していた。

 単なる日記を書かせたグループと、自分のアイデンティティや価値観に関わることをふりかえらせる日記を書かせたグループとでは後者の方が「明らかに高い成績を収めていた」。

この研究は特に、早い段階での学力不振に対し、より大きな心理的脆弱性を示す黒人の学生において、心理状態と学習過程の関連性を裏づけている。肯定感の利点は、平均以下の学力で最も苦しんでいる成績の低いアフリカ系アメリカ人の子どもたちの間で最も顕著であった。彼らにとって、早い段階で受ける落第点は「他の子たちほど頭がよくない」「学校ではよい成績がとれない」というステレオタイプを確証するものとして認識される恐れがある。価値観の肯定課題によって、自らの妥当性に対する感覚を回復させ、心理的ストレスを軽減させ、成績不振へ至る悪循環を断ち切ることができた。(前掲書KindleNo.3375-3380)

 さらに同じような介入として「賢明なフィードバック」がある。

 白人の教師から同じように作文の課題を与えられた黒人の生徒群と白人の生徒群をつくり、批判的なコメントをつけながら「もっとできるはずだ」というメッセージを送ると、再提出の割合が黒人群で大きく伸びた。内容も優れていた。これは黒人群ではそういう明示的な安心感・信頼感を渇望している、という解釈ができるのだと言う。

 Qさんは、「これって生活綴り方運動みたいだと思った」と述べた。自分にとって忘れがたい体験となった小学校のクラスでは先生が作文を書かせて自分の生活を見つめなおさせていた。生活を客観的に捉えさせ、そこに必要な教育的介入を与えることで、得難い体験をクラスとしてした、今でもそのクラスのことは忘れない、とQさんが述べた。

 実は、Pさんもエバーハートが刑務所で囚人たちに作文を書かせてそこに批判的なコメントをつけて激励したところ、ものすごく熱い反応が返ってきた箇所に心を打たれていた。

 PさんもQさんも、こうした差別問題に与える教育の介入というものの力に強い感動を覚えたのである。

 ただ、ぼくはそこには少し距離があった。

 それらのエピソードは、差別されている側、つまり打ちひしがれ、尊厳を失わされている人たちにとって教育は大きな力を発揮するという証明ではあるが、差別する側のバイアスを正す力に果たしてなるかどうかは疑わしい。仮になるにしても、そうした丁寧な教育や啓発によって変えられる部分は、限られている上に、なかなか手間がかかる。いや…確かに特効薬はないのだから、手間がかかるし、初めは限定的なものなのだろう。それを倦まず弛まずやるしかないのかもしれない。

 

 ぼくは、解決策として注目した部分についていえば、多様な人たちとの交流は、交流自体では偏見の除去の解決にはならず、逆に偏見を強化してしまう恐れもある、という本書の主張であった。

当時、人種バイアスは一般的に無知の産物であると考えられていたのだ。そこで、人々を互いに交流させるだけで、誰もが大まかなステレオタイプを個々の名前、顔、事実に置き換えることができ、敵対的な人種的態度を和らげることができると考えられていた。バイアスの壁が緩和されれば、社会的統合は少数派の台頭を可能にするであろうと。……

しかしながら、バイアスへの解決策を約束した学校の人種的統合は、主唱者たちが予想していなかった障壁をもたらすことになった。結局のところ、ただ単純に同じ教室に座っているというだけでは、時代遅れの偏見はなくならないのだ。……

他の人が信頼する権威のある教師から、日常的に軽蔑されることで、不平等の規範が支持されているのである。……

交流は衝突を改善するのではなく、悪化させる可能性があることを発見した。

(前掲書KindleNo.3138-3163)

 

 エバーハートが紹介する「単なる交流」の中で起きていた教師による差別は相当に露骨なものである。今日これほどの差別が許容されているとは思えないのだが、エバーハートが別のところで書いているように、「無意識のバイアス」はちょっとした表情やしぐさの中に現れ、それは社会的に伝染してしまう。だから、この部分は解決策を書いているというよりも、「交流により解決する」という「解決策」のナイーブさを指摘している箇所として読んだ。

 それは、黒人の話ではないが、例えば、日本で「同じ偏差値のような人々だけでなく多様な人がいる学校やクラスの方がいい」という主張が一理ある反面で、かえって差別感覚を助長してしまう難しさについても考えてしまった。そこにはやはり意識的な教育介入がなければ、偏見を強化してしまう危険があるのだろう。

 

 という具合に、ぼくは本書に何か解決策を見出した、という読み方をしなかったし、できなかった。差別についての現状、起きる仕組み、解決の難しさについてむしろ思い知らされるような一冊となった。

 

 リモート読書会、次回は坂口安吾『戦争と一人の女』『堕落論』である。 

「地域と人権」誌2021年4月号で紹介されていた『かわた村は大騒ぎ』が読みたい

 「地域と人権」誌2021年4月号(No.444)をめくっていて、冒頭の丹波正史(全国地域人権運動総連合代表委員)「全国水平社創立百周年 部落解放運動100年の歴史 第3回」にあった『かわた村は大騒ぎ』という聞き書きの部落史の紹介に興味をもった。

 

 ここで紹介する『かわた村は大騒ぎ』と題する書籍は稲田耕一氏が書いたものである。私は以前からこの書籍の存在を知っているが、今回の『100年史』の関係で読ませていただいた。久しぶりに胸が熱くなる思いで一気に読んだ。この内容は脇田修氏が書いているように「稲田耕一さんが、村の古老やご両親などから聞かれたこと、また若い日々の体験をふまえて書かれた部落の民俗誌・生活史である」と言ってよい。舞台は現在兵庫県宍粟市一宮町である。ここで紹介するのは、当時の村の獣類処理の仕事、「賤称廃止令」などを受けて村全体の意思として弊牛馬・獣類処理をしない取り決め、差別された村の人びとが、それにも負けず生きる姿、死牛の引き取りと他村の冷たい目線、皮多権放棄の波紋は他村から圧力をまねき弊牛馬処理に従事する人をどうするか、それに手を挙げた家族に対する村からの排除など、その時の部落の人びとの喜び、誇り、決意、矛盾が臨場感をもって語られている。(丹波前掲p.17)

 

 丹波の論文の本文で引用されているのはそのごく一部だ。次の箇所である。

 

 明治四年の三月に、斃牛馬並びに獣類の自由処理の布告を受けて、村では何回も村寄合の結果、何百年の伝統ある仕事ではあるが、皮多と呼ばれる屈辱から解き放たれる喜びを夢見て、一切の皮多権の放棄を四十部落へ通告した。年末には「解放令」を受けて、他村に先走って廻り、「皆様方と同一同格の身分であるとは主張しませんが、世間一般が同一同格になるにもかかわらず、私の村のみが今まで通り一段下の身分の者である、と申す訳には絶対に参りません。世間同様、同一同格の者として付き合わして貰います」と宣言し、各自がこのことによって、どのような無法が起きようと、覚悟のうえ署名捺印し、徳蔵庄屋宛の連判約定書をさし出した。(略)

 署名捺印の瞬間から、我も人間なりと熱いものが胸にこみ上げ、涙する者もあった、と当時この署名に立ち合った古老から私は聞いた。そして家に帰ると、家族の者に、明日から道を歩くに胸を張って歩け、と話したそうだ。

 しかしこの二つの決議が、附近の村々に大きな刺戟をあたえたことは想像以上であった。それもそのはずで、何事によらず皮多は下におれ、芝居見物に行っても「皮多おとおり」で無料ではあるが、便所近くの見え難い所に押し込まれ、大きな声も出せずに見物したものが、今後は木戸銭は払うがどこにでも座れる。何か用事があっても、相手が「おはいり」と言わなければ、戸口から入れなかったのが、これからは戸を開けて入りもすれば、下段にもかけられる。これで我々も人間になれるのだと思うと、胸がふくらむのも無理がないが、一方、よそ村にすれば、いちいち気にさわる。それより牛馬の大事が起きたらどうするのか。この国の人は何百年の昔から、牛馬の大事に手を出したことがない。又猟師達も野山で自由に獣を捕ったが、その処理は何も知らず、ただ皮多の人に重さいくらで売り渡したが、今後は自分達で買主をみつけるか、それとも皮を剥いで処理するか以外にない。関係村々でも、寄合を開いて協議したが名案は浮かばなかった。(稲田耕一『聞きがき 部落の生活史 かわた村は大騒ぎ』部落問題研究所、1995年)

 

 なるほどこれは面白い。「その時の部落の人びとの喜び、誇り、決意、矛盾が臨場感をもって語られている」(丹波)。

 丹波自身も改めてこの本に感動したのであろう。本文の引用とは別に「読書案内『かわた村は大騒ぎ』」として2ページを割いて同書の抜粋を多数載せている。

 これはぜひ読んでみたい、と思ったものの、なんと福岡県内の公立図書館には1冊も置いていない。同じシリーズである『聞きがき 部落の生活史2 極貧の村のくらし』はわずかに県内に1冊あった。

 

 

 なんとかして読めないものかなあ…。