「地域と人権」誌2021年4月号で紹介されていた『かわた村は大騒ぎ』が読みたい

 「地域と人権」誌2021年4月号(No.444)をめくっていて、冒頭の丹波正史(全国地域人権運動総連合代表委員)「全国水平社創立百周年 部落解放運動100年の歴史 第3回」にあった『かわた村は大騒ぎ』という聞き書きの部落史の紹介に興味をもった。

 

 ここで紹介する『かわた村は大騒ぎ』と題する書籍は稲田耕一氏が書いたものである。私は以前からこの書籍の存在を知っているが、今回の『100年史』の関係で読ませていただいた。久しぶりに胸が熱くなる思いで一気に読んだ。この内容は脇田修氏が書いているように「稲田耕一さんが、村の古老やご両親などから聞かれたこと、また若い日々の体験をふまえて書かれた部落の民俗誌・生活史である」と言ってよい。舞台は現在兵庫県宍粟市一宮町である。ここで紹介するのは、当時の村の獣類処理の仕事、「賤称廃止令」などを受けて村全体の意思として弊牛馬・獣類処理をしない取り決め、差別された村の人びとが、それにも負けず生きる姿、死牛の引き取りと他村の冷たい目線、皮多権放棄の波紋は他村から圧力をまねき弊牛馬処理に従事する人をどうするか、それに手を挙げた家族に対する村からの排除など、その時の部落の人びとの喜び、誇り、決意、矛盾が臨場感をもって語られている。(丹波前掲p.17)

 

 丹波の論文の本文で引用されているのはそのごく一部だ。次の箇所である。

 

 明治四年の三月に、斃牛馬並びに獣類の自由処理の布告を受けて、村では何回も村寄合の結果、何百年の伝統ある仕事ではあるが、皮多と呼ばれる屈辱から解き放たれる喜びを夢見て、一切の皮多権の放棄を四十部落へ通告した。年末には「解放令」を受けて、他村に先走って廻り、「皆様方と同一同格の身分であるとは主張しませんが、世間一般が同一同格になるにもかかわらず、私の村のみが今まで通り一段下の身分の者である、と申す訳には絶対に参りません。世間同様、同一同格の者として付き合わして貰います」と宣言し、各自がこのことによって、どのような無法が起きようと、覚悟のうえ署名捺印し、徳蔵庄屋宛の連判約定書をさし出した。(略)

 署名捺印の瞬間から、我も人間なりと熱いものが胸にこみ上げ、涙する者もあった、と当時この署名に立ち合った古老から私は聞いた。そして家に帰ると、家族の者に、明日から道を歩くに胸を張って歩け、と話したそうだ。

 しかしこの二つの決議が、附近の村々に大きな刺戟をあたえたことは想像以上であった。それもそのはずで、何事によらず皮多は下におれ、芝居見物に行っても「皮多おとおり」で無料ではあるが、便所近くの見え難い所に押し込まれ、大きな声も出せずに見物したものが、今後は木戸銭は払うがどこにでも座れる。何か用事があっても、相手が「おはいり」と言わなければ、戸口から入れなかったのが、これからは戸を開けて入りもすれば、下段にもかけられる。これで我々も人間になれるのだと思うと、胸がふくらむのも無理がないが、一方、よそ村にすれば、いちいち気にさわる。それより牛馬の大事が起きたらどうするのか。この国の人は何百年の昔から、牛馬の大事に手を出したことがない。又猟師達も野山で自由に獣を捕ったが、その処理は何も知らず、ただ皮多の人に重さいくらで売り渡したが、今後は自分達で買主をみつけるか、それとも皮を剥いで処理するか以外にない。関係村々でも、寄合を開いて協議したが名案は浮かばなかった。(稲田耕一『聞きがき 部落の生活史 かわた村は大騒ぎ』部落問題研究所、1995年)

 

 なるほどこれは面白い。「その時の部落の人びとの喜び、誇り、決意、矛盾が臨場感をもって語られている」(丹波)。

 丹波自身も改めてこの本に感動したのであろう。本文の引用とは別に「読書案内『かわた村は大騒ぎ』」として2ページを割いて同書の抜粋を多数載せている。

 これはぜひ読んでみたい、と思ったものの、なんと福岡県内の公立図書館には1冊も置いていない。同じシリーズである『聞きがき 部落の生活史2 極貧の村のくらし』はわずかに県内に1冊あった。

 

 

 なんとかして読めないものかなあ…。