本を出します 『不快な表現をやめさせたい!?』

 本を出します。

 『不快な表現をやめさせたい!? こわれゆく「思想の自由市場」』というタイトルで、かもがわ出版から上梓します。2020年3月24日に出来予定です。

 

 

 タイトルの意味ですけど、「!?」をつけているように、もちろん、ぼくが「不快な表現をやめさせたい」わけではありません(笑)。ついつい芽生えてしまう、そういう衝動や気持ちとどうやって向き合うのかという問題意識です。

 目次を書いておきます。

  • はじめに
  • 「あいちトリエンナーレ」事件の何が問題なのか
  • 実際に「あいトリ」の作品を見てみる
  • 「行政の中立」とは何か
  • 「宇崎ちゃん」献血ポスター事件を考える
  • (コラム1 自由な批判で表現を取り下げる――「はじめてのはたらくくるま」事件)
  • 女性を性的対象としてみることは問題なのか
  • ポリコレ棒を心の中に
  • (コラム2 表現の規制に必要な条件は――志田陽子教授に聞く)
  • 不快な表現にどう向き合うか
  • あとがき

 この本の特徴ですが、「あいトリ」事件と「宇崎ちゃん」ポスター事件の二つを同時に扱っていることです。同時に取り上げる本というのは珍しいのではないかと思います(新聞などの記事では時々見ますが)。両者はいずれも「表現の自由」にかかわる問題を含んでいますが、問題視している人たちのクラスターが別になっていて、一方の問題で規制反対の声を上げている人が他方の問題で冷淡だったり、ともすると「規制」を主張していたりするケースさえあります。

 ぼくは「はじめに」のなかで次のように書いています。

ぼくは「平和の少女像」という表現を尊重したいという気持ちのある左派であると同時に、性的表現についても擁護したいと思っているオタクで あるという両方の立場を持っています。いわば両方の気持ちになれるのです。

 

 これはルポではありませんし、専門家による解説書でもありません。

 「はじめに」で詳しく書きましたが、表現の自由と規制の問題を考えるにあたって、専門家でない、いわば「普通の市民」がどういう基準で考え、行動したらよいかを、日常的な自分の指針になるように、ぼくなりにわかりやすく整理してお伝えしているものです。

 

 この編集をしていただいたのはぼくと同年代の女性の編集者の方でしたが、ぼくの主張に実は違和感を持っている方でした。主に、女性に対する性差別的な表現といわれるものに対して、彼女はどちらかと言えば何らかの規制が必要ではないかと考えている人です。ぼくの方にも気づかされることがあり、ある意味で彼女との対話を通じながら発展していったところもあります。

 そして、研究者である志田陽子教授の著作・講演は大変刺激的なものがあり、それを大いに援用させていただきました。そして、厚かましいお願いだったのですが、インタビューもさせていただきそれを収録しています。

 

日々生起する表現規制の問題への案内役に使ってほしい

 最近も次の番組が話題になりました。

www.nhk.or.jp

 この中で斉藤章佳の発言があります。

斉藤さんに言わせると、日本は“児童ポルノ天国”だといいます。日本の今の法律では、子どもを性的な対象として描いていても、マンガやアニメなどの“二次元”の創作物であれば、処罰には当たりません。むしろ市場には氾濫しています。こうした状態こそが “天国”として、欧米諸国から奇異の目で見られているゆえんでもあります。この問題に関して、「表現の自由」を訴える人も多く存在しますが、斉藤さんは苦言を呈します。

 

児童ポルノが性加害の引き金になっている実態がある中で、子どもを性的な対象として描いている創作物が、“守られるべき表現の自由”に果たして値するのでしょうか。」

 

児童ポルノが加害行為の抑制になるわけではなく、むしろパンドラの箱を開いているといえます。児童ポルノを通して、彼らは『子どもは性的な存在である』というメッセージを受け取り、学習し、加害行為とともに認知をゆがめていくのです。たとえ1例でも加害行為につながり、1人でも被害者が出ているのであれば、児童ポルノの罰則や規制についてもっと真剣に議論するべきです。」

 

 この発言には、賛同する人と反対する人がどちらもいると思います。

 ぼくが今回出す『不快な表現をやめさせたい!?』では、直接言及しているわけではありませんが、こうした斎藤の発言をどのように考えるべきか、その向き合い方を示しています(なお、ぼくは過去に斎藤の著作については書評記事を書いています)。

 一種の応用問題を解くようなものです。

 

 この種の問題は別に「あいトリ」事件や「宇崎ちゃん」事件で終わりなのではなく、日々生起しているといって過言ではありません。だからこそ日常的な指針…というと偉そうなので、案内役、もしくはヒントになるように本書を書いたのです。

 

左翼やリベラルの中の風潮の変化に戸惑いがあったので

 ぼくは左翼の一人ですから、左翼やリベラル派の中で、最近、「問題だと思われる表現」に対して、それを批判していくことと、表現を規制することが混同されてしまう傾向が出てきていて、正直かなり気になっていました。もちろん、世の中でメインに表現規制を要求しているのは支配層であり、右派の人たちだろうという現実はあるのですが、それをただすべき左派の中に右派と似通った傾向が生じていないか、左派の一人として気になって仕方がありません。

 ぼくがかつて中学生だった頃に、筒井康隆のエッセイ(「差別語について」)で、いわゆる「差別語」狩りによって古典落語が次々と口演不能に追い込まれていく現状をあげて、

最近「赤旗」の編集者と知りあえた。共産主義は体質にあわないし、共産党はあの組織や制度の仕組みがいやだが、この問題に関しては「赤旗」と手を組んでもいい、と、ぼくは思っている。(筒井『やつあたり文化論』新潮文庫Kindle No.2721-2722)

と書いていたのを読み、「筒井がここまで政治的に踏み込んで支持をするのは実に珍しいのではないか。そこまで言わせると言うのは、共産党は一体どういう主張をしているのか」と興味を持ったことがあります。

 その後、高校生になってから「いわゆる『差別用語』問題について」という日本共産党の論文を読みました。

 ことばは現実の反映である。ことばだけをタブー(禁句)にしても、現実の差別はなくならない。戦前の支配者は、現存する君主制への批判をおさえようとして、“不敬語”と称する用語上のタブーをつくりだした。戦後はアメリカの占領支配への批判をおさえつけるため、占領軍という用語をタブーにし、“進駐軍”という用語に統一した。

 社会に不当な状況や不当な差別が現存する場合に、その実態を放置したままでことば、表現だけをタブーにするのは、問題の真の解決にならないことはあきらかである。不当な差別を実態的にも、心理的にも克服、解決するという積極的立場から、ことばや表現の問題にも対処していくことが重要である。まして、「差別用語」や「差別的表現」でないものを「差別語」だとこじつけてタブー視するのは、現存する不当な事態や差別を克服する問題を後景にしりぞけることにさえなる。

 〔……〕勝手な「差別語」狩りや「タブー」拡張に反対し、あくまでも言論・表現の自由のためにたたかうものである。(「赤旗」1975年6月9日)

 この論文が非常に印象に残り、ああこれが筒井の言っていたことだったんだな、と腑に落ちた記憶があります。

 ぼくにとって共産主義者とか左翼というのは表現の自由を徹底的に弾圧された歴史的当事者であり、そのために命がけで闘う存在であるというイメージがありました。

 それだけに、最近の左派界隈での風潮の変化には戸惑いがあるのです。

 そしてそのような変化は完全に間違っているわけではなく、正しい契機と誤った契機が混在しています。そこの問題の整理をわかりやすくつけるのが、本書の役目です。

 本書は別に左派やリベラルの人だけに向けて書かれたものではありませんが、自分の心の中ではそういう人たちにこそぜひ読んでほしいと、心の中でそうした人たちを説得する思いで書きました。左派への期待をこめ、本書を書いたものです。

いつまちゃん『来世ではちゃんとします』

 小さな映像プロダクションで働く、性をこじらせた4人の物語である。それぞれは職場では恋愛関係にならずに、それぞれのプライベートでの性関係が4コマで描かれる。

 最近愛蔵版が出たので、今さらながら読んだ。

 

 

 Amazonの高評価カスタマーズレビューは「絵が下手」というタイプのものなのだが、むしろこの手描き感満載のラフな調子がホンネの空気を醸し出す。往年のこいずみまりを見るようだ。「上手く」描き込んだら逆に台無しである。

 

健全恋愛ライフ 1 (BUNKA COMICS)
 

 

名言多し

 いろいろと名言が多い。

 「相談に乗るってことは問題解決能力のある俺プレゼンじゃ無いんだから」。まずは共感しようよ、と説く、対女性スキルの高いと描かれている松田健が、つい正論を吐いてドン引きされる林勝を諭す。つい最近、こういうこと、俺が言われた。

 風俗嬢の3つのマニュアル。

  1. とにかく容姿を褒める。
  2. とにかく相性の良さを主張。
  3. とにかく「こんなの初めて」を強調。

 風俗に行ったことはないが、そういうマニュアルだと思っても、ぼくならすぐ乗せられると思った。

 とにかくセックスをしてしまう大森桃江が、後ろから男性に声をかけられ、「ナンパかー 疲れてんだ 勘弁してよ」と思って振り向いたら、「身長」「清潔感」「自転車(家が近い)」ですぐセックスを決意し、セックスに誘う。これは単に「お話(虚構)」のはずであるが、こんな単純な要素でナンパが成功するんだぁ…と心にメモしてしまう。特に「清潔感」。

 松田健のヒモ才能。

  1. まず仲良くなる。
  2. 相手にだけ心を開いているように見せかける。
  3. そして生命力のないところを見せつける。「ごめん。俺の家、何もないけど」。

 これも心にメモしてしまう。「相手にだけ心を開いているように見せかける」っていのは、自分が逆にやられそうな気がする。

 桃江「『好きだよ!』とか『君だけだよ!』とか好意がある振りをしないとヤれない男もダサいよな」。現実的にはないけど、もし自分が誰かを口説くとしたら、そういう「ダサさ」で口説くような気がする。

 

 林が桃江に「派手な爪」「モテないぞ」などと説教する。桃江「モテないのは林くんじゃない」と痛打を浴びせた後、「ネイルはね〜 みんな男ウケを狙ってるわけじゃないのよ 自分の爪が華やかなの見ると少し元気になるんだよ」。

 全部女性の意図を「男ウケ」的なもので解釈しようとする脳への批判。いや、どちらかといえば、ぼくなどもついこの林的感覚で解釈しがちである。「女性は性的な存在」という見方がぼくのなかにこびりついているのだろう。

 

 松田みたいな「ヤリチン」がもてて、自分のような優しい男がなぜモテないのかと不満を述べる林勝に松田が一撃。「本当はヤリたくてたまらないくせにカッコつけて性欲隠してる見え透いたドスケベ紳士感が引かれるんじゃない?」。これを読んだぼくとしては「それは俺のことじゃねえのか?」と心が痛い。

 

女の性欲について

 桃江「(私は)性的な目で見られたら男女関係なく興奮することがわかった」。「性的な目で見られる」風潮が性暴力を蔓延らせる…という議論をぼくは最近よく耳にしていたわけであるが、むろん性的な目で見て欲しいという欲望もあるのだと改めて思う。

 

情熱のアレ 4 (クイーンズコミックスDIGITAL)
 

 

 花津ハナヨ『情熱のアレ』で、セックスグッズを売る主人公・マキがスポーツ紙のいい加減な取材を受けて次のような扱いを受けてしまうシーンがある。

f:id:kamiyakenkyujo:20200312001609p:plain

花津ハナヨ『情熱のアレ』4(集英社)p.159

 そして、マキは次のように憤る。

f:id:kamiyakenkyujo:20200312001830p:plain

花津前掲p.160

 「女の性欲だけクローズアップ」というが、アダルトグッズは「性欲のクローズアップ」ではないのか、とぼくなどは戸惑う。いや、クローズアップはいいけど、それを嘲笑するのが許せないのだろうか。

 女性が性的な存在である、ということは、女性の一側面として紛れもない事実である(男性でもそうだけど)。性的な存在であることを否定してもよいわけではないだろうし、性的な対象であり性的な目で見られることを望む瞬間・望む人もいるはずだと思う。その距離感やタイミングがわからないのである。

 ある女性編集者と話していた時、彼女が「簡単なことです。自分が望む人に対して、望む瞬間にだけ、性的で見られたい。それ以外の人から・それ以外のタイミングはイヤ。そういうことです」と言っていた。

 そうか。そうだよな。

 そういう、ごくごく個人的でもあり、デリケートなものを、マキは嘲笑してほしくないと思ったのだろう。

 その機微がいつまでたってもわからないぼくは、いつかセクハラをやらかすような気がする。

 前にも述べたけど、そうなれば職場で恋愛することは非常に困難だと思う。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 どこに「え、私のことそんな性的な目で見てたんだ…」と言われる「リスク」があるかわからないからである。だから女性が(男性が)悪い、というのではなく、そういう目で見られたくないという点に配慮するなら、当然職場では性的な話題はできないし、ごく限られた条件でできる場合はそのようなスキルを持った一部の高度人材しか無理だということなのだ。それでいいではないか。

 

松田と桃江の距離

 ヤリチンの松田とヤリマンの桃江は同じ職場だが、それはプライベートでのことであって、お互いに職場で男女を意識しているわけではない。が、ある日ふと性的対象としてみる瞬間がある。松田の内語。

「大森さんって目立つタイプではないけどかなり男好きのするタヌキ顔で おっとりとしててパースなるスペースガバガバな上に巨乳 これは遊んでるだろうな(モテそう)」

 パソコン操作を見ようと松田が接近した時の桃江の内語。

「近っ… 松田くんって…

パーソナルスペースにグイグイ入ってくるよなぁ

一見地味だけど清潔感あるし整った顔立ちに切れ長の目 手足も長い…」

 

 

 一瞬いい雰囲気に。

 しかし「でもダメだ。近場で手を出したらろくなことにならない……」。

 

 桃江の松田に対する内語。

「松田くんは(パーソナルスペースが)近いけどセクハラっぽくないんだよなぁ 空気読めて相手の許容範囲がわかってるからかな 梅ちゃんに対してはこんなに近寄らないし この感覚わからない男性って今凄く生き辛いだろうなぁ」

 そうか。あいつには許されて、自分には許されない、というのはそういうことだったのか。

 

 エレベーターに閉じ込められ暑さが限界に来そうな状況で、松田と桃江が沈黙してしまう。その瞬間に男女の情欲が通じ合おうとしたが、桃江が熱中症で気絶してしまう。桃江の内語。「しかし雰囲気最高だったな。もう少しウブだったら流されてた…」。松田の内語。「あれはヤれたなー」。

 これはエロい、と思った。

 職場という空間は、本来的には相手を性的な目で見ることは「あってはならない」空間である。その封印が裂けて、性的なものが顔を出す瞬間が「いやらしい」。しかしリアルでこれをやると、職場恋愛になる場合はよかろうが、そうでない場合は不倫かセクハラになるのがオチである。

 

松田奈緒子『重版出来!』14

 マンガ編集、マンガの執筆、そしてマンガに関わる人の物語となっている、松田奈緒子重版出来!』の14巻で注目したのは、書店をクビになった書店員・河舞子がまわりの協力を得ながら「ひとり書店」を立ち上げる話だ。

 

重版出来!(14) (ビッグコミックス)

重版出来!(14) (ビッグコミックス)

 

 

 書店をリストラされて途方に暮れていた河。書店に関わって生きていきたいと決意するものの、再就職はなかなか険しい。

 河は知り合った出版取次会社(版元から本を預かり書店に卸す会社)の社員・山田から

「それならいっそ自分で本屋やればいいんじゃない?」

と提案されるのだ。

 インターネットの発達で個人に1冊から卸売ができるようになり、自分がそのシステムを開発したのだと山田はいう。

 ちょうど知り合いが田舎に引っ込むために畳もうとしていた居心地のいいカフェを引き継ぎ、そこを改造して、カフェ兼書店のようなものはできないかと河は考え始める。

 河の構想をきき、集まってきた友人が「新しい本屋を立ち上げる」という興奮のもとに自発的に協力を始めていく。

「こんなに楽しいことに参加できるなんてワクワクします!!」

「みんなで新しい書店を作りましょう!!」

 カフェを改造するために大手出版社のマンガ編集者である黒沢自身が生き生きと手伝うコマ。

 ややベタだけど、こうしたコマやセリフの勢いに既視感があった。

 ぼくも知り合いの編集者が趣味で地元のプロジェクトに関わっている話などを聞いていて、彼がこういう感じで実に生き生きと関わっているのを酒を飲みながら聞かせてもらったりしていた。その楽しさを思い出す。

 全く別のことなんだけど、僕自身も、「左翼的な運動の草創ってこういう活気に満ちた雰囲気なんだよな」と思い出した。経験が古びたものばかりになり、それを踏襲し、組織が巨大化しすぎてその維持のために逆に自分の領域を蛸壺的・専門馬鹿的にこなしているという悪夢の反対である。ああ、やっぱりこうでないとダメなのでは、と思った。

 そういうプロジェクトの原初の興奮がよく伝わってくる。

 

 こうした「ひとり書店」というようなものは、ビジネスとして生き残る余地があるのだろうか。

「書店の客単価は高くない。本だけ売っていてはやっていけません。」

とは山田の提案である。

 イベントスペースを作り、本好きたちをつなぐ、ということを河は理念とする。

 実は、ぼく自身、いま無性に読書会的なものがしたくてしょうがない。「本好き」「マンガ好き」としてつながりたいという気持ちがある(他面で、あまり見知らぬ人とやったことがないので「うっとおしいかもしれない」という恐れはある)。

 そういう場はすでにあるのだと言われるかもしれないけど、今自分の中で強いニーズとして興隆しつつあるので、そういう場があって、そこに素朴に奉仕する書店・スペースがあれば確かに行くかもしれない、とは思った。

 

 西山雅子編『“ひとり出版社”という働きかた』(河出書房新社)を読んだ時にも思ったが、「ひとり書店」以上に「ひとり出版社」のようなものは、もはや自分で勝手に電子書籍を作ってアマゾンで売れる時代に、何の存在意義もないように思える。そういう意味では「ひとり出版社」は「ひとり書店」以上に「ひとり」なのだ。

 

“ひとり出版社"という働きかた

“ひとり出版社"という働きかた

  • 発売日: 2015/07/24
  • メディア: 単行本
 

 

 『重版出来!』14において、山田がイベントスペースをつくることを提案すると河は思わず「あくどくないですか」と反応してしまう。イベント集客は書店として「邪道」ではないかと一瞬感じるのである。そこを山田は「本好きな人たちをつなぐのが、自分の仕事だって言ってませんでしたか?」と諭す。

 『“ひとり出版社”という働きかた』の中で、内沼晋太郎が次のような一文を書いているのは、河・山田と通じるところがある。

誰かの言う「本とはこういうものである」に従うことなく、自分でその領域を決めればいいのです。たとえば、「本屋B&B*1で誰かと誰の対談イベントを企画することは、誰に何を書いてもらうかを考える本づくりと似ていますから、ぼくらは「本屋」としての仕事と捉えています。考え方によっては、それは友だちと飲み会を企画するときに、誰と誰を呼ぶかを決めることとも似ていますので、「自分は『知的好奇心が刺激される出会いが生まれる瞬間』こそが『本』だと思う。だから飲み会を企画するのもまた『本屋』の仕事である」と考える人がいてもいい、ということです。(p.252-253)

  そして、何よりも内沼は「お金以前に、まずやってみたい」(p.253)とその原初的な欲求をあけすけに述べる。そのような湧き出る欲求でやること(ビジネス二の次)が「ひとり出版社」「ひとり書店」の醍醐味だということだ。

*1:内沼の経営する書店。

「学校の設置者」とは誰なのか(パート1)

 すでに新型コロナウイルスの感染拡大予防のための学校一斉臨時休業が始まっているので、これを明らかにしてももう遅いんだけど、メモのようなつもりで残しておく。また、まだ考察の途中だし。

 新型コロナウイルスによる学校の一斉臨時休業は学校保健安全法の第20条が根拠になっている。

(臨時休業)
第二十条 学校の設置者は、感染症の予防上必要があるときは、臨時に、学校の全部又は一部の休業を行うことができる。

 

一体「学校の設置者」とは誰なのか

 ぼくの問いはこうである。 

 ここでいう「学校の設置者」とは一体誰なのか?

 まず、常識的に考えれば「学校の設置者」は「地方公共団体(市町村)」だ。

 学校教育法第2条は条文の見出しが「学校の設置者」とされ、

(学校の設置者、国立・公立・私立学校)

第二条 学校は、国、地方公共団体及び私立学校法第三条に規定する学校法人のみが、これを設置することができる。

と定められているからだ。誤解の余地がないように見える。

 であるならば、学校の設置者=地方公共団体、つまり市町村が臨時休業を決めるなら、その地方公共団体を代表するのは市町村長だから、市町村長が臨時休業を決めるのだな、と考えるのが普通である。市町村長から独立した機関である教育委員会や校長ではあり得ない。

 ところが、次のような記事がある。

 

news.yahoo.co.jp

  この中で内田良は

 上記の「学校の設置者」とは公立校の場合には地方公共団体を指し、教育委員会が学校の管理運営について最終的な責任を負っている。つまり、感染症予防のための臨時休業は、けっして首相や文部科学省の権限ではなく(さらには地方公共団体の首長の権限でもなく)、教育委員会の権限である。
 首相からの「要請」という点では、その影響力はとても大きい。だが、臨時休業の実施やその期間を判断する主体は、あくまで教育委員会である。

 とコメントしている。

 えっ……教育委員会なの?

 ぼくは愕然とする。

 上記の内田の記述は、「学校の設置者」は「地方公共団体(市町村)」だけど、「管理運営」は「教育委員会」なので、「学校の設置者」としての判断は教育委員会が行う、となっている。

 

「学校の設置者」が教育委員会だという理屈は?

 一体その理屈はどうなっているのだろう。

 ネットには高知県の「いじめ防止基本方針」がアップされていて、そのp.8には次のような脚注がある(文中の「法」とは「いじめ防止推進法」のこと)。

公立学校における「学校の設置者」は、学校を設置する地方公共団体である。また、公立学校について、法第28条の調査を行う「学校の設置者」とは、地方教育行政の組織及び運営に関する法律(昭和31年法律第162号)により、当該地方公共団体の中で具体に学校の設置・管理を行う教育委員会である。

 これも内田と同じ見解だ。

 ここにわずかだが理屈が書いてある。

 つまり“学校を実質的に管理しているのが設置者である”という理屈のように思える。

 

 国会で文部科学大臣が次のように答弁している(2014年5月14日衆院文科委)。

公立学校の場合の学校の設置者とは、学校を設置管理する教育委員会であるわけであります。

 高知県の「方針」に書いてある理屈と同じだ。

 解説書ではどうなっているか。

 鈴木勲編著『逐条 学校教育法 第7次改訂版』(学陽書房)では、学校教育法の2条が「学校の設置者」の条文であるとして、「国」と「国立大学法人」の関係を例に次のような注解を書いている。

法令上「設置者」とは、設置する学校の土地や建物などの財産を所有・管理し、当該学校を直接運営する者を指すと解されている(p.25)

 政府答弁(2003年6月10日参院文科委、遠藤純一郎政府参考人)もこの通り。

法令上、学校の設置者とは、設置する学校の土地や建物などの財産を所有、管理し、当該学校を直接運営する者を指す

  ここまでを整理してその理屈を簡単に言えば「地方公共団体が学校を設置する(作る)けど、実質的にそれを管理運営する者が『学校の設置者』となる」ということだろう。

 

なぜ教育委員会を「学校の設置者」と呼称するのか?(疑問その1)

 しかし、ここで新たな疑問(疑問その1)が起きる。

 例えば、学校教育法で公立小学校の設置主体は地方公共団体でしかありえないとわざわざ断りながらその地方公共団体を「学校の設置者」という名称では呼ばずに、その「設置者」というのは教育委員会のことだとするのは一体なぜなのか。

 いや、政治家たる首長がトップを務める市町村が直接管理するんじゃなくて、教育委員会が学校の管理を実質やるっていうのは、戦争を反省した独立機関としてのあり方だっていうのはよくわかるよ。それはいいんだ。

 どうして「学校の設置者」などという紛らわしい名称で教育委員会のことを、法律(例えば学校保健安全法やいじめ防止推進法)で呼ぶのか、ということなのである。

 わかりやすく「学校の管理者」でいいではないか。

 

 

教育委員会は「管理」ではなく「管理の事務」をしている?(疑問その2)

 解説書を読んでいるとさらに戸惑う。

 先ほど高知県の「方針」の脚注に「地方教育行政の組織及び運営に関する法律…により」学校の設置者っていうのは教育委員会なんだぜ、とあったのを思い出してほしい。学校を実質的に管理運営しているのが教育委員会であることは、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」第21条に次のように定めていることに根拠を持つ。

第二十一条 教育委員会は、当該地方公共団体が処理する教育に関する事務で、次に掲げるものを管理し、及び執行する。
一 教育委員会の所管に属する第三十条に規定する学校その他の教育機関(以下「学校その他の教育機関」という。)の設置、管理及び廃止に関すること

  はい。だいたいここで最初に内田の言ってたことに到達したよね。

 もっぺん、内田の言っていたことを振り返ってみよう。

「学校の設置者」とは公立校の場合には地方公共団体を指し、教育委員会が学校の管理運営について最終的な責任を負っている。

  しかし。

 しかし、である。あえて、ここでもう一度めんどくさく突っ込んでみる。

 木田宏『第四次新訂 逐条解説 地方教育行政の組織及び運営に関する法律』(第一法規)にはこうある。

教育委員会の所管に属する教育機関〔例:県立高校や市立小学校――引用者注〕の設置主体は、都道府県や市町村等の地方公共団体である。学校〔教育――引用者注〕法第二条は、学校は、国、地方公共団体、学校法人のみがこれを設置できると規定している。(p.196)

 ここまではいい。

したがって、教育委員会教育機関を設置し、管理し、廃止するというのではない。(同前、強調は引用者) 

 え? 管理するんやないのかい?

教育委員会は、地方公共団体の執行機関として、これらの事項に関する事務を行うというのである。(同前)

 お……おう。

 「管理をしている」ではなく「管理の事務をしている」のだ、と。

 木田宏は続いて次のような文章を入れている。

しかして、……教育委員会がこれらの事務を独自に処理できるかというに、教育機関の設置、管理、廃止は……団体の意思決定機関の決定を要する場合があり得ることは、当然のことである。(同前)

  わからん。

 あえて、解釈してみる。

――もし教育委員会が上記の地教行法21条にある「教育機関」(=学校)の「設置、管理及び廃止」が「直接できる」としてしまうと、教育委員会が決めれば学校をつくってしまえることになる。しかし、実際には団体の意思決定機関(=議会)の「決定」が必要になる。だから、学校の設置・管理・廃止を直接せずに、その「事務」をしているに過ぎない。……

 こういうことだろうか?

 教育委員会は「管理」をしておらず、「管理の事務」をしている――これは内田や国会答弁とは矛盾するのではないだろうか。(疑問その2)

 

管理しているのは「校長」で教育委員会はその校長を「指揮監督」?(疑問その3)

 愛知県豊橋市公式ホームページには、学校の設置者としての「市」と教育委員会の関係について次のような記述がある(強調は引用者)。

 

豊橋市立小中学校の設置者は豊橋市で、校舎・体育館を始め、学校で必要となるほとんどの費用を負担しています。
また、そこで働く教員の任用は、愛知県が行うため、教員の採用、処分等は愛知県教育委員会が行うこととなりますが、教員に関する第一義的な服務監督権は、豊橋市教育委員会に委ねられています。
一方、小中学校の設置者である豊橋市が、各学校の全てを直接管理することはできないため、校長に定量の管理権限を委ねる中で、豊橋市教育委員会は、各学校長を指揮監督することとしています。

 まずここには「小中学校の設置者は豊橋市」と書いてあって、これだと「学校の設置者は豊橋市」と読める。しかし「市が、各学校の全てを直接管理することはできないため」その管理権限を他に委ねるのだとする。

 ここまでは非常にわかりやすい理屈である。

 なるほど、管理も市がやるけど、その管理権限を豊橋市が誰かに委ねるのだ、と。

 その「誰か」は、当然「教育委員会」だろうと予想する。

 ところがである。

校長に一定量の管理権限を委ねる

ときた。

 えっ、「校長」!?

 「校長」が学校の管理権限を委ねられているの?

 ま、まあ、実感的にはすごくよくわかるよな。

 だけど、じゃあ、「教育委員会」は?

 このままだと「学校の設置者」としての「教育委員会」が出てこないじゃん。

校長に一定量の管理権限を委ねる中で、豊橋市教育委員会は、各学校長を指揮監督することとしています。

 アッー!

 「各学校長」を「指揮監督」?

 つまり学校を管理しているのは教育委員会ではなく校長であり、教育委員会はその校長を指揮監督しているだけ?(疑問その3)

 

 もしこの豊橋市の記述が本当なら、

  1. 「学校の設置者」とはあくまで「市」である。
  2. しかし、その管理権限を「校長」に委ねている。
  3. その校長を束ねて指揮監督している「市教育委員会」が最終的には実質的な管理をしている。
  4. だが、それは管理そのものではないので「市教育委員会」は管理についての「事務」をしているに過ぎない。

という理屈になるのだろうか。

 一応、理屈は流れているような気がする。

 もしその理屈であれば、こうなるだろう。――

 「学校の設置者」は誰ですか、と問われれば、それは「地方公共団体」つまり市町村であると答える。

 しかし、市町村は実質的に管理していない。

 管理していないから、学校保健安全法第20条の「学校の設置者は、感染症の予防上必要があるときは、臨時に、学校の全部又は一部の休業を行うことができる」という条文については、休業を行うのは「市町村」ではない。

 休業の「判断」をできるのは、管理権限を委ねられている「校長」である。

 だが、その市全体の「校長」たちを束ねている(指揮監督している)のは、「教育委員会」であり、教育委員会が「校長」を指揮監督して「休業をしろ」とか「その休業の判断をやめろ」と言ったりできる。……

 こういうことではないか。

 なるほど、こういう解釈をすれば、一応疑問その1・その2も解決できる。

 「校長が管理権限を委ねられている」というのは、例えば、先ほどの「臨時休業」の判断を校長ができるのだと、どの自治体の学校管理規則*1でも定められていることを見ればわかる。

(非常変災等による臨時休業)
第5条 非常変災その他急迫の事情があるときは,校長は,臨時に授業を行わないことができる。この場合,校長は,直ちに次の事項を教育委員会に報告しなければならない。
(1) 授業を行わない期間
(2) 非常変災その他急迫の事情の概要
(3) 臨時休業に対する補充措置
(4) その他必要と認める事項

福岡市立小・中学校管理規則

 

 学校保健安全法第20条は全国的な統一基準として感染症対策を理由にする場合に限定して「学校の設置者」がそれを判断できるとしており、校長もそれが(管理規則で)できるし、その自治体全部を教育委員会が判断できるとしているのだろう。

 内田が「最終的な責任」と言っているのはこういうことではなかろうか。

 

 結局こうした理屈をきちんと書いてある解説書にはまだ出会えていない。

 だから、引き続きこの問題がわかったら「パート2」を書くことにする。

 いい本があったら誰か教えて。

*1:「規則」は、地方自治法第15条に基づき市町村長などが法令の範囲内で制定する法形式の名称。

「パラサイト」と「万引き家族」

 アカデミー賞を獲ったという映画「パラサイト 半地下の家族」をつれあいと見てきた。半地下に暮らす貧しい家族が、富裕層の家に寄生をし始めるという筋だ。

www.parasite-mv.jp

 見るいやいなや、ぼくとしては映画「万引き家族」との比較がどうしてもしたくなってきたので「万引き家族」も見た。なぜなら、格差と貧困、家族、非合法というキーワードで語られる両者はよく似ていると思ったからである(そして世界的に有名な賞を獲得しているという点でも)。

 

「パラサイト」について

 例えばケン・ローチ監督の「家族を想うとき」を見れば、運送ドライバーの過酷な労働とそれによって引き起こされる貧困は、英国の生活ではあっても、自分たちの身近な問題として共感的に見ることができた。

 しかし「パラサイト」では、主人公家族の貧困ぶりに思い入れることはほとんどできなかった。貧困の内容をなす労働はあまり共感的には描かれず、住居の貧困ばかりが印象に残ったからである。半地下で暮らすという状況が日本にいる自分とはあまりに違いすぎて「韓国ではそういう家庭が結構あるのかしら…」と漠然と思うしかなかった。

 

 「貧困で苦しむ者は綺麗でなければならない」という呪いにぼく自身がかけられているせいかもしれないが、富裕家庭に寄生を始める様子は次第に「えげつない」という印象を強めていく。つれあいはこの点で相当な精神ストレスを感じたようで、「見終わって激しく消耗した」と述べたほどだった。

 そのためか、ラスト近くで「臭い」を軸にして引き起こされるクライマックスのエピソードにも何らぼくは共感を寄せられなかった。

 

 しかし、つまらない映画ではない。

 格差や貧困というテーマから、ぼくの左派的感性にシンパサイズさせるという見方はほとんどできなかったというだけである。

 本作は結末に至るまでユーモラスな調子が根底に漂っている。この映画はまるで筒井康隆スラップスティックを見ているような面白さがある。筒井の『毟りあい』とか『俗物図鑑』『大いなる助走』のようなグロテスクな笑いと凄惨さとドタバタである。

 

万引き家族」について

 他方で、「万引き家族」は、様々な事情を持つ人が東京の下町のオンボロな一軒家に集い、疑似家族を構成している物語だ。「祖母」の年金、「父」の建設労働、「母」のクリーニングのパート…などで成り立ち、「息子」は「父」とともに万引きをして「家族」に「貢献」している。

 

 ここでは、家族は批判されている。公式の家族は虐待の源泉であったり、居場所を奪うものであったりする。思惑や目的で集まった集団の方がむしろ「使える」社会関係資本として機能するのだ。

gendai.ismedia.jp

 警察やマスコミの指弾の声が映画では流れるが、疑似家族の事情を見てきた鑑賞者にとってはその空々しさは隠せない。公式の「正論」の虚構を、疑似家族の本音が暴いていくことになる。

 家族の絆を強調することになった「パラサイト」と、この点では実に対照的である。

dot.asahi.com

 そして、ぼくとしてはその方が実感にあう。ぼくは今の自分の家族に「不信」があるわけではないが、家族に過度の期待を背負わせるということへの違和感が拭えない。そして、公式の制度(福祉など)や公認の社会関係資本(町内会やPTA)が「救ってくれる」という実感が世の中で乏しいのもよくわかるからだ。

 そのような「建前」から外れた、自分にとって身近で切実な関係の中からむしろ頼れる絆が生まれてくるという実感がある。

 作中では、万引きを知りながらやんわりと意見をする近所の老人が登場する。それがこの「家族」の「息子」である「しょうた」に揺らぎを与えるのである。

 

 以下のサイトでは、「しょうた」の揺らぎ、公準の正義と、自分が親しんできた絆の実感との間での動揺、その両義性について述べている。

saize-lw.hatenablog.com

 

 つまり、「しょうた」が暮らしていた疑似家族が現実の批判者として絶対的に正しいわけでもない。「しょうた」が新たな環境に置かれるくだりは、決して不幸に戻ることではないように、公準の正義の中には、そうは言っても正しさが存在するからだ。ぼく自身、今の福祉や教育制度が不十分だとは思いつつも、すべての国民がその恩恵によくすべきだと考えている。だから、疑似家族のままでいることがいいとは思えない。

 

 だけど、あの疑似家族が示した絆には捨てがたい魅力があることも確かで、「しょうた」がその両義性の中で揺れるのは、まったくその通りなのである。

 

 見終えた感覚は、「パラサイト」が「エネルギーを使い果たした」と感じたのに対して、「万引き家族」は絶望と一抹の救いとが混在するものとなった。

週刊ポスト3月6日号で町内会の辞め方についてコメント

 週刊ポスト3月6日号「家族、友人、社会との『縁』の切り方」の「PART3『町内会』『檀家』『社友会』憂鬱だったら辞められる」で町内会の辞め方についてコメントした。

 

週刊ポスト 2020年 2月28日・3月6日号 [雑誌]

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 紙幅の関係であまり詳しくは論じられなかったけど、普通は「町内会をやめる」と言ったらそれで終わりである。

 しかし、中には非常識な町内会も多くていろいろ見せしめのようなことをしてくる。典型的なのが「ごみを出させない」というやつで、ごみの集積所を管理しているのが町内会でそこを使わせない。集積所に出せない場合は自治体が収集してくれず、自分でごみを持ち込まないといけなくなる(たいていは自治体に1つしかない焼却場か、役所にある集積所)。

 すでに拙著の中で書いたのだが、ごみの収集は自治体の義務だからこんなことをやってはいかんのだが、自治体に言っても取り合ってくれない、つまり町内会とグルになっている自治体がある。*1

 

 どうすればいいのかについては、『どこまでやるか、町内会』(ポプラ新書)のなかで書いたので、参考にしてほしい。

 

どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書)

どこまでやるか、町内会 (ポプラ新書)

 

 

 「やめる」と言えば、PTA。

 PTAをやめて、とうとうこの3月が娘の卒業式である。

 ぼくの身にどんな不利益がやってきたのか、あるいはやってこなかったのか、そのうちまとめて書きたい。

*1:自治体は「役所か焼却場に持ってくれば収集はする」という理屈を取っている。しかしこれは地方自治法第10条「住民は、法律の定めるところにより、その属する普通地方公共団体の役務の提供をひとしく受ける権利を有し…」に反する。

「麒麟がくる」を見て『戦国の軍隊』を読む

 別に「麒麟がくる」をこれからずっと見ようと決めているわけでも、決めたわけでもないし、貶めようとか、逆に持ち上げようとか、なんの意図も持っていない。

 この前の日曜日にぼさっとテレビの前にいたら、「麒麟がくる」の第2回が始まって合戦シーンが流れてきた。

 そのシーンが殊の外長く、さらにいろんなことを思ったので、雑記的に記してみる。別に専門家でもないし、他の合戦ドラマをほとんど見てないし、本当にシロートの雑感として。なぜそんなにぼんやり、しかし長い時間見てしまったのかということを。

 下記の記事も関連しているので、ちょいちょい引用しながら。

news.mynavi.jp

(今回の脚本を書いた)池端氏は、『信長公記』だけではなく、さまざまな文献や資料を読み込み、なるべく史実に基づいたリアルな戦国時代を綴ろうと取り組んでいる

  大河ドラマの合戦シーンをいくつも見ているわけではなくて、単にぼくの中での印象なんだけど、主人公とかライバルの武将が決断したり喜怒哀楽を表す表情をしたりが合戦シーンのメインで戦闘そのものは添え物みたいだったんじゃないのかなあ。

 ところが今回ぼくが見ていたシーンでは、光秀をはじめ斎藤道三織田信秀以外にも兵士たちの戦闘シーンが結構長く描かれていた。つまり戦闘そのものを描いていた。それで視聴者として「戦闘」ということに関心が向いてしまうのであった。

 

合戦の現場にいる気持ちに

 例えば落とし穴に向かってやってくるシーンがある。しかし、穴に落として殺害するためには、10メートルくらい掘らないといけないのでは? とか思う。また、柵の後ろにいる敵の部隊に向かって突進していって、その柵の直前で穴に落とされるのだが、そんなに固まって突進する必要があるのか? 市街地なんだから通路以外のところからよじ登ったりしてもいいのでは? とか考えてしまう。

無数の矢が空から降ってくるシーンをはじめ、兵士が火だるまになったり、鎧を着たまま死体となって浮かんだりと、戦争の無残さはきちんと描き出している。

 

 あー、確かに矢のシーンも印象的だった。

 矢の重量感みたいなものがあった。ぼくは高校時代弓道部だったので、ああいうものが人に当たったら死ぬよな……という感覚を思い起こした。他方で、「矢自体が精巧なものだから、そんなにたくさん打てないよな」とか「木の盾で防げんのか?」とかも思った。

 火だるまのシーンは、火のついた草みたいなのを転がして落としていたけど、あんなもの、すぐに避けられるのでは? とも思った。

 いや、ケチつけてるっていうより、合戦の現場にいるような気持ちで「自分だったらどう避けるか」みたいな視点になってるんだよ。

 

殺し合いのテンションが気になった

 戦闘、つまり殺し合いのテンションとはどういうものなのか、そのこともずっと気になった。銃を撃つとかいう現代戦ではなく、ドラマで描かれた合戦は白兵戦だったので、いつも「殺してやろう」という殺気がみなぎっていないと遂行できないんじゃないのかなと。逆に言えば、そこまで殺気立つ動機ってどんなものなのか

当時の合戦は、短期決戦というよりは長期戦だったようだ。「ハリウッド映画だと密度の高い戦闘がエンターテインメントとして描かれますが、実は本当の戦争はもっと緩やかで、半年間くらいずっとやっていたりします。人間は戦えば疲れちゃうし、24時間ずっと戦えるほどタフじゃない。2時間攻めたら疲れます。いわゆる戦国時代幕開け時の戦いなので、通常の戦国ものとは違い、新鮮なんじゃないでしょうか」

 「テキトーにやり過ごしておこう。斬り込んでいったら死んじゃうし」とかいう臆病は発動しないのか、という思いが真っ先にたつ。何か強い恨みがあるわけでもなさそうだし、兵士として訓練を受けるわけでもなさそう。

 身近にあるもので想像するしかないのだが、例えばヤンキーの河原での大量決闘みたいなものは殺気立っている可能性がある。ヤクザの出入りでもそうだ。報償めいたシステムが明確に作動している感じでもなく、おそらく相手を「やっつけてやる」とか「殺してやる」とか、まさに雰囲気、士気が醸成されているかどうかだけ。

 

 検証する資料もないが、手近に西股総生『戦国の軍隊』(角川ソフィア文庫)がある。この本をもとに、兵士たちのモラールやモチベーションを考えてみる。

 

戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

戦国の軍隊 (角川ソフィア文庫)

 

 

正規兵と非正規雇用兵の二重構造

 西股の同書の結論によれば

戦国の軍隊は、正規兵である侍と大量の非正規雇用兵とかならる、二重構造を特徴としていた。(p.275) 

 非正規雇用兵というのは、非戦闘作業員を除けば、「傭兵としての足軽」「領主が軍役によって動員した雑兵」(p.207)の二種類である。

 足軽は「基本的には武士ではない者、つまり主従制の原理が適用されない集団」「彼らは金品で雇用され、軽装で戦場を疾駆し、放火や略奪に任じた」(p.119)。雑兵は「戦闘員の七割ほど」(p.199-200)を占め、「あいつぐ天災と、追い打ちをかけるように起きる戦争、生きるすべを失った庶民が手っとり早く食いつなぐ手段」(p.202)であったとする。「社会的な地位上昇を求めて、あるいは手っとり早く飯を食う手段として、兵隊という仕事を選択する」(p.201)。

 足軽と雑兵は役割的にどう違うの? という疑問に西股は「実態としてほとんど同じ」(p.208)としている。ただ、雇われ方の違いとして足軽を「契約社員派遣労働者」とし、雑兵を「パート・アルバイト」としている。足軽の方が職業的であり、雑兵の方は臨時的だというわけである。

足軽・雑兵らの中には、自ら進んで志願した者や、何らかの理由で地域社会からドロップアウトした者も当然いたが、彼らを非正規雇用兵として大量動員する戦争は、大量の難民を生み出して、非正規雇用兵の供給源となった。(p.276) 

 つまりまあ、圧倒的に「難民」だというわけだ。そこにヤクザや半グレなどのようなアウトローが混ざる。

 西股は農民から徴用された「農兵」とかいうものはよほどの危機の場合以外は存在せず、「兵農分離」というのはおかしな話だと言っているのだが、その論争には立ち入らない。まあ、雑兵は「食い詰めた流民・住民」だとすれば、その中に「ふだんは農民、ときどき兵士」が結構な数いてもおかしくはない。

 戦国の軍隊は、大半が足軽か雑兵=非武士階級ということになる。それらの難民+アウトローを、すでに公権力化している武士集団、まあ警察とか軍隊のようなものが統率して戦争をする……みたいなイメージであろうか。

 

足軽や雑兵は略奪が目的なの?

 金や飯で集められるのだが、それってどこまで戦うの? という疑問が起きる。

 西股は藤木久志の『雑兵たちの戦場』(朝日選書)を典拠にしながら、戦場の略奪(食料・物品・人間)の横行を挙げている。それがまあ報酬ということになる。

 

【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))

【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))

 

 

 西股は伊勢宗瑞(北条早雲)が初期の戦闘でどこから人数を調達したかを次のように書いている。

おそらく宗瑞たちは、収穫物の略奪というエサを示すことによって、志願者をかき集めて傭兵部隊(足軽衆)を組織したのだ。そして、戦争に勝利すると討滅した相手の所領を、多米氏や荒川氏といった傭兵隊長や、笠原氏・大道寺氏といった被官・縁者らに分配して兵を養わせる、ということをくり返しながら軍隊を創り上げていったのではあるまいか。(p.123)

 

 こうした西股の仮説というか推測に過ぎないので、別に通説でもない。しかし、他に手がかりもないので、これをもとにドラマのシーンを見直してみる。

 勝利によって略奪ができるから、一応勝敗にはこだわる。つまり、殺しに向かうモチベーションが得られる。

 しかし、命あっての物種だから、そこまで真剣にはできない。

足軽・雑兵らが逃亡をはじめても、侍たちが最後まで踏みとどまって勇ましく討ち死にするのは、当然であった。(p.210)

 侍たちは戦功によって直接に評価されるシステムであったから、無謀な「先駆け」「一番乗り」をふくめ戦闘のモチベーションは高かった。西股はその様子を秀吉の小田原征伐の際の記録から紹介している。

 斎藤道三織田信秀の小さな合戦のようなものは、上記に書いたような大規模な「非正規雇用兵」がおらず、いわゆる武士集団だけで戦っていたのかもしれない……とも思い直してみる。

 

 そんなことにぼんやりと思いを馳せる時間であった。