西口想『なぜオフィスでラブなのか』

 タイトルを問題意識にして、11の小説とマンガからそれを考えていくという手法。

 本書に興味を持ったのはタイトルからだったが、本書第5章にある綿矢りさ『手のひらの京』を題材にした記述を読んでいた時に、弁護士の牟田和恵が書いた新書『部長、その恋愛はセクハラです!』が参照されていたのを見て、「あ、そうだ。ぼくも牟田の本を読んでオフィスラブはもうできない時代になるかもしれないと思ったから本書に惹かれたんだ」と思い至った。

 

なぜオフィスでラブなのか (POSSE叢書 004)

なぜオフィスでラブなのか (POSSE叢書 004)

 

 

 

 本書の著者、西口はこう書いている。

 

福岡セクハラ訴訟の時代からこの問題の理論・実践を第一線でになってきた牟田和恵は、恋愛とセクハラの境界は曖昧であり、はじめが恋愛だったかどうかは、セクハラかどうかを判断するのに決定的な基準というわけではない、と述べる。(西口p.68)

 そして、西口は牟田から次の箇所を引用している。

 

部長、その恋愛はセクハラです! (集英社新書)

部長、その恋愛はセクハラです! (集英社新書)

 

 

 

 セクハラにおいて、男性と相手の女性は「対等」ではないのです。上司と部下、正社員と契約社員、派遣先と派遣社員、指導教授と学生。そこには力関係があります。そもそもその関係があるからこそ、女性は男性を尊敬し魅力的に思い、交際が始まったのです。

 つまり、かりに恋愛として始まった関係であれ、結果として仕事が続けられない状態になっているとすれば、それは「結果オーライ」ならぬ「結果アウト」なのです。(牟田p.136-137)

 

 実は、ぼくも牟田の本を読んだ時、ここがまさに勘所だろうと思ったのと同時に、衝撃を受けたのもこの箇所だった。

 なぜ衝撃を受けたのかといえば、職場恋愛は今後難しいだろうという時代認識を得たからである。

 職場というのは、基本的にこのような力関係が錯綜している場だ。その力関係の中で錯覚にも似た恋愛が始まることが少なくない。例えば素晴らしい指揮命令を発揮する上司が人間として魅力的に見えてしまい、恋愛感情が生じてしまう、というようなケースだ。そこまではっきりしていなくても、たとえ同僚同士であっても、オフィスで始まった恋愛にはこのような微妙な力関係が影響していないはずはないのである。

 極端にいえば恋愛感情が冷めた途端に、後には力関係だけが残り、それが客観的に見てセクハラであった、と断じられることになる可能性があるからだ。

 始まりは恋愛だった。だが熱が冷めてみると、上司と部下の立場を利用されて気の進まないまま関係を続けさせられていただけ……というようなシチュエーションである。男の上司と女の部下だった場合には、男だけが恋愛気分のままであるが、女の方は言えずに関係が続いている。それは主観はともかくとして、上司の力を使った関係維持という客観的体裁だけが残るわけだ。

 西口が「私たちがよく目にするある種のオフィスラブが根本的には『セクハラ』と同じ力学で作動する」(p.68)と言っているのはそのことだろう。

 (ぼくが例に挙げたケースの場合)男の側が「恋愛」と思いつづけ、女が自分を突然不当に告発したかのように男には見えてしまう錯覚の「根拠」がここにある。

 ぼくは牟田の本を読んで、これが職場における恋愛とセクハラの線引きなのかと愕然とした。正直な話。

 それをぼくは理不尽とは思えない。やむをえないところがあるように思う。

 しかしそうなれば、もうオフィスでラブをしない方がいいのではないか、ということになるからだ。つまり、職場で恋愛することはリスクが高いので、避けた方がいい、ということになる。

 例えば学校で教師と生徒の間には恋愛感情がありうる。あるいは17歳と30歳の恋愛感情というものもありうる。そしてそれを正当に実らせる方法もある。しかし、あまりにも危うい力関係に取り巻かれた空間であるがゆえに、学校で生徒・教師間の恋愛、大人と子どもの恋愛はしない方がいいだろう、と自戒するのと同じなのだ。

 

 西口は、本書の別の章で次のような懸念を書き付ける。

 

 では、もう一つの「対等なパートナーシップ」はどこで手にすることができるのだろう。

 この点でも、権力関係の総本山であるオフィスラブの分は非常に悪い。オフィスラブは、そもそもが異性愛中心で、ハラスメントの温床である。血縁・地縁の代わりを社縁が果たした高度経済成長期の遺物だと見なされても仕方がない。多様性と共生とを旨とする現代社会では、端的にいって時代遅れなのかもしれない。(p.158-159、強調は引用者)

 西口は、本書においてこの懸念では着地しない。

 さらに1章を設けて探求を続けていく。

 しかしながら、ぼくが本書および牟田の著作を読んで思った結論は、まさにここであった。もう(公正な)オフィスラブは無理ではないか、あるいは相当に難しくなるということだ。

 これからの社会は、性に対する規範が厳しくなるだろう。「厳しくなる」というのは、これまで虐げられてた性(特に女性)がその尊厳を回復することによって、「ゆるさ」という名の暴力が消えていくということである。

 ただ、もう一つの可能性としては、働き方そのものが変われば、このような「錯綜した力関係」が消え、自由な人間関係で結ばれるようになる。ネガティブな書き方をすれば、資本・賃労働関係を軸にした「指揮命令」の関係が変質すれば、自由でドライな働き方の空間になる。そうなれば、オフィスラブは復活するかもしれない。

 マルクスが『資本論』で述べた「自由な人々の連合体」、あるいは「インタナショナル創立宣言」で述べた、賃労働廃止後の労働の変化だ。

賃労働は、奴隷労働と同じように、また農奴の労働とも同じように、一時的な、下級の〈社会的〉形態にすぎず、やがては、自発的な手、いそいそとした精神、喜びに満ちた心で勤労にしたがう結合的労働に席をゆずって消滅すべき運命にある。(『古典選書 インタナショナル』p.19)

 

 

 

 

 

 

本書の魅力は11の作品の紹介の面白さにある

 ただ、ぼくにとっての本書の魅力は、こうした考察にはあまりなかった。

 11あった小説・マンガの評がとてもうまい! と思ったのだ。

 そしてその評は「へえ、読んでみようかな」と思わせる方向でのうまさなのだ(「読んでみようかな」と思わせることは批評の役割そのものではないが、批評によってもたらされるものの一つであり、ある種の「文の芸」であることは間違いない)。

 引用の箇所も絶妙で、先ほどの綿矢の小説についていえば、陰湿な陰口に、満を持して反撃するシーン、「キレ芸」の迫力を披露するくだりがなんとも痛快であった。

 

「でも男でも見抜いてる人いるで。前原さんとか。ちょっと付き合って良くないと思たから、一回やって捨てたんやって」

 笑いが起きる。よし来た、このタイミングや。

「それ私に向かって言うてんの?」

 鬼の形相で素早くくるりと振り返ると、お局たちの驚愕した顔があった。京都ではいけずは黙って背中で耐えるものという暗黙のマナーがある。しかし、そんなもん、黙ってられるか。

  よっ、待ってました! と快哉を叫びたくなる。本当はこの前後がいいのだが、それは本書、および綿矢の小説を読んでのお楽しみである。

 というわけで、「小説・マンガのレビュー本」としてぼくは高く評価したい。