鈴木良雄『フルーツ宅配便』

 デリヘルを描いたマンガである。

 と書けば、デリヘルの「サービス」をしているシーンがあるマンガだろう、つまりポルノだろうと誰もが想像する。

 しかし、このマンガには性的なシーンは一切登場しない。

 せいぜい「事後」にピロウトークをしているシーンがある程度で、そこでさえ例えば乳首とか下着とか、そういうものは何も描かれない。

 作者がこのマンガにポルノ的な側面を持ち込むことをきっぱりと拒否していることがわかる。デリヘルという場にやってくるデリヘル嬢、客、スタッフの人生模様を、ニュートラルに描こうとしている。そこには悲劇もあれば喜劇もある。まあ、全体としてはペーソスが漂っている。デリヘルというのはやはり「人生の栄光」に結びつく場所ではなく、何かの苦しい事情がそこにあるからだ。仮に人生の希望ある再出発や人間の可能性を描く回があっても、やはりそこは「やり直す」という側面と結びつく。

 

 前から書いていることではあるけど、風俗産業を欲望一色で描くのではなく、それを告発したり、少なくともそこでの悲哀を描こうとしたりするなら、そのマンガから欲望の視線を極力排除すべきではなかろうか。

 戦争の悲哀を描くマンガなのに、興奮する戦闘シーンが入っているのに似ている。

 本作はその点で実に潔い。その一点だけでも賞賛に値する。

 

 本作は1話完結で、それほど波乱万丈な筋展開が毎回あるわけではない。

 例えば5巻を見てみる。 

 

 

 この巻には例えば、大食い選手権に出て吐いてしまうデリヘル嬢の話がある。「チェリモヤ」という源氏名、本名を「あやね」という。同窓会の旧友たちに友達が出場を話してしまっただけに、「吐いて失格」という惨めさが際立つ。あやねはデリヘル嬢という職業を人生の敗北のように考えており、出場はそこに差した小さな光のようなエピソードだったが、それも台無しになる。という展開だ。そこにラストがやってくる。ラストは明かさない。ただ、あやねにとって人生の救済になるわけではないが、台無しになった大食い選手権を埋め合わせる程度の小さな喜びをそこに見いだすことになる。その小ささが人生の悲哀感を出している。

 

 小さい頃に、父親に捨てられた「マンゴスチン」という源氏名、本名・ゆなという女性の話もある。

 父親はヤクザをしていて服役し、出所しているが今はもはや余命いくばくもない運命にあった。しかし、人生の終末を迎えてゆなに謝りたい気持ちでいっぱいであった。ゆなが金に困っていると聞いて、父親は病院を抜け出し質屋強盗をして大金を得る。「金は綺麗にしてある」と、資金洗浄した上で自分の兄(ゆなの叔父)を通じてその金と手紙を渡す。

…最後の頼みだ。頼むよ…

正直もう…

しゃべるのもしんどいんだ…

頼む。

その通帳はおれが生きた証なんだ。

頼むよ。

  父親は泣きながら兄に懇願する。兄はそれに打たれて引き受ける。

 父親は亡くなり、兄はゆなに手紙と金(通帳)を渡そうとするが、ゆなは事情を聞かずに、静かにそれを拒否する。手紙だけでもという兄の申し出も拒否する。

 それで終わりである。

 父親の破天荒と思える命の掛け方と謝罪・贖罪の仕方。

 そんな事情は全く知らないが、頑なにそれを拒むゆな。

 読者に放り投げるようにして終わる。

 そうかと思えば、仲の良い男2人の話。一人はデリヘル嬢と結婚することになる。もう一人もデリヘル嬢と付き合うことになる。しかし、最初の男は結局10万円を貸して女性が音信不通となり、後者の男はデリヘル嬢が今付き合っているDV彼氏っぽい男と別れるために利用されて終わる。「おれらバカかな…」と二人が酒を飲みながらつぶやく。

 

 終始こんな調子である。

 「デリヘル」というものに張り付いている印象を、縦横に使った作品だ。

 ディープな題材に振られたかと思うと、騙したり騙されたりする哀愁を漂わせた笑い話にしたり、「あなたならどうするか」のようななぞかけをしたりする。

 

 正直、それを軽く読みながら楽しんでいる自分がいる。読む際にエネルギーがほとんどいらないのである。読みやすい。だから、単行本が出たら買って読んでいる。時々思い返して読む。

 

 そして、絵柄や動きは、本当に乏しい。マンガのソフトで作ったのかと思うほど画一的である。構図も下図のように斜めを向いた顔が「斜めを向いている」と立体的に見えずに、円をかぶせてマスクしたみたいに見えてしまうときがある(上は、鈴木良雄『フルーツ宅配便』7巻、小学館p.70、下は同p.173)。

 

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 なかなかにひどいけど、まあ絵柄はたとえそうであってもいい作品なんだよということである。

 

 

 

 

 

西日本新聞の「随筆喫茶」にエッセイが載りました

 2019年1月13日付の西日本新聞の「随筆喫茶」というコーナーに「幻の生物」と題してぼくのエッセイが載りました。

 カブトエビについて書いています。

 そこで紹介しなかったカブトエビ生存戦略の一つは、干上がってしまう水たまりこそがカブトエビの生息場所だということ。魚がいないからですね。

 ただ、例えば鳥の足に卵がくっついて生息域を広げたりするようなので、別にそういう場所を意識的に選んだりするわけではないんでしょう。川や湖にも卵は運ばれるけど結局魚に食べられてしまうってことではないんでしょうか。

 

 あと、カブトエビ外来種です。

 つれあいは「科学雑誌のキットとして流行ったことがあるから、その時に広がったのでは?」という推論を述べていましたが、キットが流行ったのは1970年代以降(下記のサイトでは1979年に学研の付録として登場)。

www.gakken.co.jp

 すでにアメリカブトエビが1916年、ヨーロッパカブトエビは1948年、アジアカブトエビは1966年に日本に「侵入」しているので、つれあいの推論は成り立ちません……と言いたいところですが、国立環境研究所のHPには次のような指摘があります。

また、飼育キットの販売や雑草防除のための導入が行われており、これにより国内で分布が拡大している可能性もある。

www.nies.go.jp

 最初の侵入は別のところだけど、キット販売で分布が拡大した可能性はありそうです。なお、国立環境研究所HPによれば「侵入生物」の定義は「人間によって自然分布域以外の地域に移動させられた生物を『外来生物 / 外来種』『侵入生物 / 侵入種』『移入生物 / 移入種』などといいます」 というものなので、鳥に卵が運ばれた場合は「侵入生物」とはされないようです。

 

 当時近所の駄菓子屋のガチャガチャ(カプセルトイ)でカブトエビの卵が売り出され、興奮して買いました。

 しかし、結局何も生まれず、ひどく失望した記憶があります。

北村雄一『生きた化石 摩訶ふしぎ図鑑』

 生物がずっと姿を変えないとはどういうことかを考えていて、この本を読む。

 

生きた化石 摩訶ふしぎ図鑑 (「生きもの摩訶ふしぎ図鑑」シリーズ)

生きた化石 摩訶ふしぎ図鑑 (「生きもの摩訶ふしぎ図鑑」シリーズ)

 

 

 「生きた化石」と呼ばれる、昔から姿を変えていない生物についてエッセイ的(科学記事風)に取り上げている。

生物は体の設計書である遺伝子をもっています。この遺伝子に変化が起こると、生物は形を変えます。そして変化は、必ず起こります。つまり生き物は、本来、一定の姿を保つことができない存在なのです。(本書p.86-88)

 これはとても大事なテーゼ。あらゆる生き物は変化している。*1

 それなのに、姿(や生態)を変えない生物がいる。「生きた化石」がいる。

 どういうことか。

いつも同じ変化が有利で、いつも同じ変化だけが残される状況では、生物は形を変えません。この場合、生物は絶えず変化しているのに、何度やっても同じ姿に進化する、そういう状況に陥ります。(本書p.88-89)

 

 姿を変えないというのは、時が止まっているのではなくて、同じ姿を繰り返し選択し続けているという結果なのだ。

 ところが著者は、人に飼われるようになったネコが自然界では不利な色・柄のものが増えていることを例に出して、こう書いている。

ネコの例のように、自然選択、つまり進化の力が弱まると、生物はすぐに一定の姿や形や色を保てなくなる。(本書p.89)

 どういうことだろうか。

 姿が変わっていく選択をしていく場合もあるだろ? 例えばゾウの祖先が姿を変えて現在のようになったことと、ネコの例えはどう違うのだろう。

 著者の言いたいことはこういうことだろうか。

 ネコの場合、“いろんな色や柄のものが自然選択の洗礼を受けずに、多様に生き残ってしまう”ということだ。

 これまでの姿や生態のものだけが有利なので、それだけが生き残れる。そこからはみ出たものは生き残れない。

 しかし、変化したものが、たまたまこれまでよりも有利だったりすると、今度はそれが従来のものを圧倒してしまう。急激に全体が変わっていく。

 だから著者はダーウィンの考えを次のように要約する。

私〔ダーウィン〕の進化論が正しいのなら、急激に変わる生物もあれば、反対にまるで変わらない生物もいるはずだ、例えばシャミセンガイがそうだ(本書p.89)

 

 つまり「急激に変わる」のと「まるで変わらない」のとは同じ進化の作用だということで、多様化してしまうのは、進化=自然選択が働いていないということになる。わかりやすく言ってしまうと、その場合の変化は環境に対応したものが多分1種類だけが選択されることになるはずだ。ネコのように多様にはならない。もちろん生存戦略を根本的に変えるような激変の場合は、多様に分岐していくのかもしれないが、ネコの場合は環境に適応もできないのにただ多様になって(人間の保護によって)生き残って増えているだけなのだ。

 

 「まるで変わらない」というのが「生きた化石」なわけだが、ここで不思議なのは、なぜ「急激に変わる」という選択をしないのだろうか。

 著者は

競争相手がいない居場所で、長い長い時間を生き延びてきた生物、それが生きた化石です。(本書p.51)

としている。

 これもわかるようでわからない。

 「競争相手がいない居場所」といっても、他の生物は確かにやってこないような場所についてはそうかもしれないが、まさに自分たちの種の中で従来の姿よりももっと有利な変化をするものがなぜ現れないのだろうか、ということに答えていないテーゼなのだ。

 

 シーラカンスにおける進化が書かれているので、それで少し考えてみよう。

 シーラカンスの中で、マグロのような尾びれを獲得したレベラトリクスは、海を高速で泳いで獲物を捕まえる肉食魚に進化できた。他の魚たちよりも早い変化を遂げたのだ。大量絶滅直後、「他の魚たちがぐずぐずしている間に」(本書p.47)変化したのである。

 しかしすぐ絶滅してしまった。

 なぜなら、その後すぐに海を支配することになったサメに破れてしまったから。

 著者はこう総括する。

 

シーラカンスは進化して姿を変えることもできます。しかし、ライバルたちに負けてしまうので、結局、生き残ったのは以前と同じ姿のものたちでした。遺伝子は進化している。姿形を変えることもできる。しかし、姿を変えたものは負けて消えてしまう。ライバルで周りを囲まれているから、他の姿になることができない。つまり進化しているのに、いつも同じ姿に進化してしまう。(本書p.48-49) 

 

 なるほどと思う反面、これだけでは説明は不十分なような気がした。

 確かに「ライバルで周りを囲まれている」ので、ライバルたちのいる「周り」に出て行った変化組はやられてしまったのだけど、なぜ「周り」に出て行かなかった従来組はライバルから逃れられたのかは本書ではわからないし、「周り」に出て行かなかった従来組の中でさらに有利な変化は起きなかったのかは、説明されない。それとも進化にifはないから、説明はされないものなのだろうか。

 

 いや、あえて言えば、「周り」には出ないタイプのものの中で、従来のデザイン以外の姿形のものはおそらく生まれた。しかし、従来デザインを超えるほどの優れた適応はしなかったということなのだろう。ひょっとしたら1億年後にはそういうデザインが生まれるかもしれないが、数億年というスパンではその可能性は花ひらかなかったということなのだろう。それぐらい、従来型のデザインがそこへの環境の適応には優れていた、ということなのだ。何億年も過酷な自然選択をやり続けても結局従来デザインが選ばれてしまう。それぐらいすごいデザインなのである。

 

 ここで示唆深いことは、「変化」してしまったものがたちまち絶滅してしまったということであろう。「変化」しないことが、ここでは生存戦略になっている。

 

 本書にはカブトエビについての記述もある。

 以前ぼくはカブトエビに関して、谷本雄治の本について書いたことがある。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 谷本の本を読んだ時には気づかなかったのだが、本書を読んで改めて気づいたことは、

カブトエビは……定期的に干上がってしまう池や沼にだけすんでいます。(本書p.124)

ということだ。田んぼはその典型である。

 

こういう場所には魚のような敵がいません。水が干上がれば魚は死んでしまうからです。(同前)

 

 もちろんカブトエビも死ぬが、カブトエビはそこを「乾燥に強い卵」という戦略で生き残るのだ。しかも、水が再びきても(これは本書には書いてないが)卵のうちの一定数(谷本の本では3割)しか孵化せず、その環境が不利だった時のために、残りは取っておかれて、またその後で水が来た時に残りのうちの一定数(3割)のみが孵化する……という「保険」もある。

水がずっとある池にはすんでいません。多分、敵やライバルが多すぎてすめないのでしょう。だとしたら、カブトエビはずっと同じ生活をしなければいけません。(本書p.128) 

 これが当たった戦略だったということだろう。

 水がずっとある池にすめるように変化したら敵にやられてしまうのだ。

 変化しない、というのは実は進化=自然選択を繰り返し続けて毎回毎回選び続けられているという黄金のパターンを獲得しているということもである。別の言い方をすれば「競争相手がいないニッチな居場所」を見つけて、そこにすっぽりとハマる最適な姿と生態を早くから獲得した、ということでもあろう。(結局、著者が言っていることと同じことに行き着いた。)

 

 黄金パターンの戦略というのは強靭だ。

 迂闊な「変化」はいかにも脆弱だ。

 冒頭の問題、「生物がずっと姿を変えないとはどういうことか」についていろいろ示唆を与えてくれる本だった。

*1:別に弁証法的だからってことじゃないよw

山口つばさ『ブルーピリオド』

 『このマンガがすごい!2019』で2018年(2017年9月〜2018年9月)のマンガのベスト5を回答した(オンナ編)。

 「オンナ編」しか選んでいないので、では「オトコ編」でトップを選ぶとしたらどうなるか。(実は1つだけアンケート回答しているのだが、それは除外して考える。)

 

このマンガがすごい! 2019

このマンガがすごい! 2019

 

 

  それは山口つばさ『ブルーピリオド』(講談社)だろう。

 勉強もそこそこできるし、私生活もリア充っぽい男子高校生・矢口八虎が「絵を描く」ということに突如取り憑かれ、美大を目指し始める物語である。

 

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンコミックス)

ブルーピリオド(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 

 絵は下手でもいいなら誰でも描ける。それだけでなく、絵を見て「これはうまい!」ということも誰でもできそうである。

 いや……ホントにできるのか?

 ネット上で「ものすごく上手い絵」というのが賞賛される記事やツイートが流れてくることがあるが、それは「写真のようだ」という上手さであることが多い。例えばぼくのような素人が「写真のような」絵を描けば、「上手い」と言われるだろう。

 じゃあ、「写真のような」絵を描くことが「上手い」ということだろうか。

 ピカソの絵*1は「写真のような」絵ではない。

 このあたりに来ると次第に「絵が上手い」ということの輪郭が、ぼくの中でぼやけ始めてしまう。『ブルー・ピリオド』の冒頭は、ここから始まる。

 ピカソの絵は何が「上手い」のか?

 いやそもそもそれは「上手い」のか?

 あれなら、自分にも描けるのではないか?

 本作は、絵が「上手い」、あるいは絵が人に感動を与えるとはどういうことか、それを八虎が絵を学んでいくプロセスをロジカルに追うことで明らかにしている。というか、絵について素人であるぼくのような読者に話しかけるように物語っていく。

 読者の中で実際に絵筆を持って絵を描き始めるという人は少なかろう。だけど、例えば美術館に行って、絵の前に立つことは、日常の中で頻度は高くないとはいえ、あることだろう。

 だから、八虎が美大予備校の友だちと美術館に行く時の話は、ぼくらにとって「実践的」である。

 美術館の絵ってどう見たらいいんだ? ということに対する問いである。

 友人の橋田悠(はるか)は、絵を全部見る必要なんかないんだ、もっと自由に見ていいんだとまずぶちかます

 橋田は、自分が絵を買い付けるつもりで見てはどうかと提案する。その提案を受けて、八虎は解説を「全部正しく覚えなきゃ」という思い込みから解放される。金を出す、生活を共にする、自分のものにする……という基準が八虎の中にできる。

 鑑賞がずっと自由になるのだ。

 もし、そういう基準にしたら、「写真みたいな」絵を選ぶんじゃないのか。「えっ、これ絵ですか? 写真みたいですね〜」って驚かれたいから。

rocketnews24.com

www.youtube.com

 

 絵画鑑賞を印象と知識の二つの柱で考えた場合、最近の世の中の流れはどちらかといえば、後者を重視する方に傾いてきている。『武器になる知的教養西洋美術鑑賞』『名画の読み方』などといった本が書店の店頭に並んでいるが、これらはどれも西洋絵画のバックボーンである歴史やそれにともなう約束事を教える体裁を取っている。

 

「色がきれい」「名画はやっぱりいいなぁ」

あなたは名画を前に立った時、そんな感想を持っていませんか?

こうした「感性を重視した鑑賞」は、とても大切です。

ですが、同時に実にもったいない。

なぜなら、感性に頼っている限り、どれだけ多くの作品を鑑賞しても、

「西洋美術の本質」には触れられないからです。

(秋元雄史『武器になる知的教養 西洋美術鑑賞』の「商品説明」より) 

 

武器になる知的教養 西洋美術鑑賞

武器になる知的教養 西洋美術鑑賞

 

 

 中山公男『絵の前に立って 美術館めぐり』(岩波ジュニア新書、1980)は、やはり絵画を印象で捉えることと、同時にそれを知的に読み解くという2つの柱を立てるのだが、タイトルが示すように、まず絵の前に立つこと、印象の重要性を説いている。

 

絵の前に立って―美術館めぐり (1980年) (岩波ジュニア新書)

絵の前に立って―美術館めぐり (1980年) (岩波ジュニア新書)

 

 

 中山はその理屈をこう述べる。

 

 感覚とは主観的なもので、したがって相対的なものでしかない。しかし、すぐれた芸術家は、そのような主観性――つまり、その芸術家が生きている時代や社会の動向もふくめた個性や気分――を尊重し、それらを根拠としながら、そこから普遍的なものをみちびきだしてくれる。画家の目は、私たちを、別な時代、別な国、そして別な感じ方へとみちびき、同時に、そこに普遍的なもの、人間的なものをみいだすのを助けてくれる。(中山同書p.2)

 

 

 つまり、ある歴史的な時代にとらわれない、どの時代にも共通する人間の本質的なものが名画にはあるはずで、それを感じろと言っているのである。今流行りの歴史を読み解く作業とは正反対だ。

 だけど、これをやるのはなかなか難しいような気がする。

 それよりは、『ブルーピリオド』の中で橋田が述べているようなことの方が指針となる。

 

 橋田の唱えた名画鑑賞法は、“絵画の中に普遍的なものを見出せ”という中山公男の主張よりは、誰でも実行しやすい、はるかに「実践的」な方針である。

 そして、絵画に対しての距離を自由にしようとしている。

 絵、特に絵画(西洋絵画)は、ぼくらが考えているよりももっと自由なものだということだ。

 夏期講習で自由に絵(油絵)を)を書いてみるという課題を与えられた八虎は、周囲の予備校生たちがカンバスを削り始めたり、テープを貼り始めたりする姿を見て呆然とする。え? ここは油絵をやるところじゃないの? と。

 そして八虎は同じ講習生が「あれも工夫の一つじゃん」と指摘したのを聞いて、反省する。

 

また表面的なところで思考停止するところだった

画材って絵の具とオイルのことだと思ってた

 

絵って思ってたよりずっと自由だ

 

 

 この「自由」という言葉を最近どこかで聞いた。

 そうだ、石塚真一の『BLUE GIANT SUPREME』だ。

 空港に置かれたピアノで、有名なクラシックのピアニストと連弾したジャズピアニストの演奏を聴いて、自身もピアノを弾くオーディエンスの一人が、

 

ジャンルをのみ込んで、

自由に表現できて…

ピアノって

こういう楽器だったんだ…

 

と再認識させられる。自分がピアノ弾きであるにも関わらず、ピアノという楽器の自由さに驚かされるのである。

 

 

 

 芸術に形式はある程度必要なものかもしれないが、その形式の中にある本質に触れ、形式の四角四面さを打ち破る時、自由さを感じるのだろう。そしてそれが本質や普遍性に触れるということでもある。

 絵の自由をどう取り戻すのかということが、創作する側にも、鑑賞する側にも求められるし、それがテーマになっている。

 

 だから、『ブルーピリオド』に出てくる女装男子・鮎川龍二の姿や言動からぼくは目を離せないでいる。

 2巻末に載っている鮎川の自由さはなかなかにシビれる。文化祭の出し物が「悪ノリ」で決まることに抵抗し、そう発言する鮎川。「やば 空気読む気ないじゃん」とつぶやく八虎。鮎川が皮肉っぽく返す。

それで何も言わないなら

君は空気そのものだね

  空気であったことが八虎のそれまでの人生だった。そこから自由さを取り戻すということが絵画であり、絵画とは自由なものなのだ。

*1:ピカソの絵」って言ったって、いろんな時代があるけどね。

コミケでの中核派参加問題、「韓国人・中国人お断り」張り紙問題

 コミケでの中核派参加問題、「韓国人・中国人お断り」張り紙問題について思うことを書いてみる。*1

togetter.com

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 コミケは自主的な団体である。そういう団体がどのような結社方針を持とうがそれは結社の自由である。だから、「中核派お断り」という方針を持つことは、非難されるかどうか別にして、法律では規制されない自由である。もちろん「共産党お断り」「自民党お断り」という方針を持つことも自由である。

 

 しかし、自主的な団体として結社の自由を行使できたとしても、その結社の自由を制約される場合がある。結社の自由は広く認められないといけないのだけども、どうしても緊急避難的に結社の自由という人権を制約・調整してでも保護すべき他の人権があるからだ。

 例えば、「障害者お断り」。これは障害者差別解消法の「不当な差別的取り扱い禁止」に違反する。

 同じように、「韓国人・中国人お断り」。これは「ヘイトスピーチ対策法」に違反する。

 「なんでこの2つは特別なんだ?」と思うかもしれないが、特定民族の排除をする行為が戦争や虐殺を煽るなどの取り返しのつかない行為を招いたから、「特別」なのである。障害者に対しても同様である(他にもあるけど)。

 むろん、それは「じゃあ女性に対してはどうなんだ」とか「共産主義者に対してはどうなんだ」とか、無限にそこへ連なる列は考えうる。しかし、法律で明確に禁じられているのは今のところ限られているのだ。どんどん法規制の対象を広げていけば、逆に結社の自由を壊してしまうからだ。あくまでも緊急避難。

 ただし、障害者も韓国人も、それらを差別することは、「違法」ではあっても、それを具体的に罰したり、阻止したりするまでの明確な措置まではない。そこは結社の自由に対して慎重にしているのだ。

 

 もう一つの系列で、団体を規制する法律がある。

 破壊活動防止法暴力団排除条例のようなものだ。破壊活動防止法は破壊活動をすることを目的にしているとされた団体を規制することができる。暴力団排除条例は、暴力団の団員を様々なシーンから排除する条例だ。

 中核派は過去に刑法などの犯罪行為について、個々のメンバーが逮捕されただけでなく、団体として犯行声明を出している。しかし、中核派そのものが破防法を適用されたことはない。また、暴力団排除条例などの対象でもない。

 中核派を慣用的な意味で「反社会的勢力」とは言いうるけども、団体そのものが法律で規制されている存在ということはできない。

 

 コミケがどういう結社の方針を持つかは、基本的に結社の自由である。しかし、公共施設を貸す側の行政はどうか。

 地方自治法244条に次のように定められている。

 

2 普通地方公共団体……は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。

3 普通地方公共団体は、住民が公の施設を利用することについて、不当な差別的取扱いをしてはならない。

 

  中核派メンバーである(中核派メンバーがいる)ことだけで「貸さない」ということはできないのである。*2

 

 結論。中核派の参加を禁じる自主的団体を作ることはできる(したほうがいいという意味ではない)。「韓国人・中国人お断り」をするのは違法になる(施設使用の禁止にまで至るかどうかは微妙)。つまり中核派の参加排除問題と韓国人の参加排除問題はレベルの違う問題である。同様に、特定の性の排除問題ともレベルの違う問題である。

 

コミケとしてはどうしたらいいのか

 ここで論考を終わってもいいんだけど、コミケとしてはどうすべきなのだろうか。つまり「中核派の参加禁止」を自主的なルールにしていいのかどうかということだ。もちろん、コミケ運営がコミケをどう考えるか・どうしたいのかということ次第なので、ぼくが口を出すことではないが、あえて考えてみる。

 「反社会的な団体のメンバーは参加できない」というような規約を考えてみよう。

 その場合「反社会的」を定義するのはなかなか厄介ではないか。「暴力団」の定義は暴対法にあるし、「組織的犯罪集団」の定義は例えば国際組織犯罪防止条約にある。しかし、前者には中核派は入らないし、後者は共謀罪問題で話題になったように定義が曖昧である。

 もちろん、「中核派革マル派などの極左暴力集団のメンバーは参加できない」というルールを設けることも可能だ。自主的団体なのだから。

 しかし、その場合、一体コミケはなぜわざわざ「中核派革マル派」を排除しているのかわからなくなる。コミケとは何を目指す団体なのだろうか、という問いが浮かび上がってくる。

 例えばコミケが「日本の伝統的な文化交流」を目ざす団体ならそういう「極左排除」の自主ルールはわかりやすいのだが、まさかコミケがそんな団体だとはいうまい。

 

 中核派は、団体として犯行声明を出したことがある。そういう角度から絞り込むこともできるだろう。「団体として犯罪行為を行った団体のメンバーは参加できない」のような規約だ。

 しかし、例えば企業が企業ぐるみで犯罪をすることもある。そういう企業の従業員はコミケに参加できないのだろうか。

 また、たとえその辺りが中核派に絞り込めるような定義を行ったとしても、なぜそんな「中核派排除」の規約を作るのか、というコミケの理念は説明できない。

 

 社会運動団体とコミケでは、この自主的ルールは違うだろう。ぼくは学生時代、中核派に殴られたり、蹴られたり、監禁されたりしたことがある。そうした暴力そのものを団体の中で振るうような場合は、もちろん「暴力を振るう人、ふるった人は参加できない」みたいにして規約で定めて排除すればいいんだけど、それは別に「中核派だから」排除するということでなくてもいいはずである。

 「中核派に運動をめちゃくちゃにされた」という経験を持つ団体であれば、「中核派出禁」みたいなことをやってもいいとは思う。「運動をめちゃくちゃにされた」というのは、例えば「学費値上げ反対の運動団体」のはずなのに、中核派メンバーが会議のたびにずっと「スターリン主義批判」つまり共産党批判ばかりしていて、そのための議論で何時間もかかってしまい、誰も寄り付かなくなってしまうような場合だ。

 だから、社会運動団体では、中核派革マル派をターゲットにして排除をする規約を設けることはありえるように思われる。逆に、共産党自民党を排除する規約を設けることもあるだろう。*3

 

 コミケの場合、中核派ということで参加を排除することは難しいように思われる。

 ぼくは「できるだけ表現の自由を最大限尊重する形で。良い・悪いは言論や表現の自由によって決着をつける」という角度で団体のデザインをすべきではないかと考える。

 綺麗事でない言い方をすれば、「差別的」「人権侵害的」表現であっても、できるだけ許容し、なんでも表現できる場所としての存在意義を確保するということだ。

 もちろん、行政の使用許可が得られないのでは困るので、妥協点は必要だし、おおむね法律の範囲内とするわけだが、あくまで表現の自由を最大にすることを眼目におく。だから、個人への名誉毀損・侮辱、女性蔑視、障害者差別・民族差別、暴力団賛美などもギリギリまで許容するし、その限界を求めていくことになる。その自由の拡大を求めて社会・政治運動をすることもあるだろう。

 このようにコミケをデザインするなら、中核派メンバーの参加は認められるべきだということになる。

 もちろん、コミケの運営はコミケの自由なので、ぼくが口を出すことではない。今のは「もしぼくがコミケの運営の独裁者になって運営のあり方をデザインするとしたら」というほどのものでしかない。

*1:本当にそんな張り紙があったのかという基本問題があるのだが、ここではもしそうした張り紙があったとしたら、という仮定の問題として考えてみる。

*2:「障害者お断り」「韓国人・中国人お断り」を掲げる団体は「違法」なので使用を禁止できる理由にはなりそうだが、法律だけでは罰則や義務的な措置がないので微妙だ。条例などで具体的に定めれば使用させないことはできるだろう。

*3:もちろん、ぼくはそれを批判するけどね。

サンドウィッチマンのコントの中の「ご飯論法」

 昨日の記事で、「ご飯論法」をやっている政権はコントっぽいということを言いいました。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 2007年にサンドウィッチマンがM1グランプリをとった時のネタ、ピザ屋の配達の冒頭は、ぼくは「ご飯論法」っぽいなといつも思っています。

 ピザ屋の店員である富沢が1時間もたってお客(伊達)の家にピザを配達してくるところからコントは始まります。

伊達「おせーよ。こっちは1時間待ってんだぞ」

富沢「すいません、迷っちゃって」

伊達「迷うって、道一本じゃねーか」

富沢「いや、行くかどうかで迷っちゃって…」

  これは「迷う」という言葉をすり替えています。「道に迷う」という意味を「行くかどうかで迷う」という意味にすり替えています。「ご飯」という言葉を「食事」という意味から「米飯」という意味にすり替えている「ご飯論法」そのものだと思うんですよね。

 ぼくがスピーチで例に挙げた「文書の破棄を確認した」という財務省の局長だった佐川の言葉はどうか。「確認した」というのは、本来「文書の破棄を現認した」という意味のはずなんですが「一年たったら文書を破棄するというルールの確認をした」という意味にすり替えています。

 

新語・流行語大賞トップテン「ご飯論法」受賞でのスピーチ

 『現代用語の基礎知識』選、ユーキャン 新語・流行語大賞トップテンに「ご飯論法」が選ばれ、ぼくは、上西充子教授と共同受賞させていただきました。

 その時のぼくのスピーチを下記の記事から転載しています。書き起こしありがとうございました。

note.mu

 ぼくは、今年の重大なニュースの一つが、森友問題に関わる公文書改ざんの発覚だったと思っています。民主政治の危機です。そのことに関わる言葉としてスピーチできたのは意義のあったことだったなと思っています。

 なんども言ってますけど、この論法についての発見は上西さんによるものでした。論法として問題を提起することで、相手がすり替えようとしているものが見えてきました。

紙屋高雪のスピーチ(書き起こし)

 ブロガーの紙屋と申します。今日、選んでいただきまして、どうもありがとうございます。


 今日、話を聞くと、他の国語辞典(大辞泉)でも(「新語大賞」の「次点」として)この「ご飯論法」を選ばれたっていう話を聞いてて、ちょっと私自身もびっくりしています。

 といっても私自身は、上西さんの話をツイッターで「ご飯論法」と名前を付けただけなんですけども、ただ聞いた時にですね、初めて「あ、これ森友の問題でも、加計の問題でも、すごくよく見る論法だよね」と。政権全体にこれが広まってるんじゃないかと、すごくビックリした記憶があります。

 例えば、森友問題で佐川さんっていう財務省の局長だった人がいますね。あの方が「文書は、捨てたことは確認しました」という答弁をしたんです。その時に、その後文書が出てきちゃって、「あなた、確認したって言ったよね」と証人喚問で追及されちゃったんです。その時に佐川さんが「いや、確認したっていうのは、文書を1年で捨てるという、そういうルールを確認した、そういう意味なんですよ」っていう言い訳をされたわけですよ。つまり「私、一般的なルールを確認しただけであって、実際に文書を捨てるところを目で現認したわけじゃありませんよ」という、そういう開き直りをやったわけです。

 これ、典型的な「ご飯論法」だなというふうに思いました。「ご飯」という言葉をすり替えてやるのと同じように、「確認する」という言葉をすり替えてやるっていうやり方ですから。調べてみると官房長官もやっているし、首相秘書官も、さっきもありましたけれどもやってるし、政権全体に広がっているわけですよ。

 昨日、ちょうど M1グランプリがありましたけれども、その言葉のすり替えでコントやってるみたいなもんなんですね、これ。政権全体がコントやってるみたいな。だから、もともと昔から官僚っていうのは、あいまいな答弁とか、ちょっと小難しい答弁をするっていうのはやってたんですけれども、そういう「わかりにくい答弁」じゃなくて、言葉をすり替えて「嘘を言う」、「フェイクを言う」、そういうやり方だと思うんです。

 だから国会の答弁というのは、民主政治の基礎になっているので、それが、フェイクが積み重ねられていっちゃうとですね、政治全体がフェイクになっちゃう、そういうふうに思います。なので、そういうところの危機感が、「ご飯論法」と聞いたとき、最初笑われる方もいらっしゃると思うんですけども、「実はそれは笑い事じゃないんだな。恐ろしいことなんだな」という、そういう危機感が今回、こういう形で選ばれたり、受賞につながったのかなというふうに思っています。

 どうもありがとうございました。