鈴木良雄『フルーツ宅配便』

 デリヘルを描いたマンガである。

 と書けば、デリヘルの「サービス」をしているシーンがあるマンガだろう、つまりポルノだろうと誰もが想像する。

 しかし、このマンガには性的なシーンは一切登場しない。

 せいぜい「事後」にピロウトークをしているシーンがある程度で、そこでさえ例えば乳首とか下着とか、そういうものは何も描かれない。

 作者がこのマンガにポルノ的な側面を持ち込むことをきっぱりと拒否していることがわかる。デリヘルという場にやってくるデリヘル嬢、客、スタッフの人生模様を、ニュートラルに描こうとしている。そこには悲劇もあれば喜劇もある。まあ、全体としてはペーソスが漂っている。デリヘルというのはやはり「人生の栄光」に結びつく場所ではなく、何かの苦しい事情がそこにあるからだ。仮に人生の希望ある再出発や人間の可能性を描く回があっても、やはりそこは「やり直す」という側面と結びつく。

 

 前から書いていることではあるけど、風俗産業を欲望一色で描くのではなく、それを告発したり、少なくともそこでの悲哀を描こうとしたりするなら、そのマンガから欲望の視線を極力排除すべきではなかろうか。

 戦争の悲哀を描くマンガなのに、興奮する戦闘シーンが入っているのに似ている。

 本作はその点で実に潔い。その一点だけでも賞賛に値する。

 

 本作は1話完結で、それほど波乱万丈な筋展開が毎回あるわけではない。

 例えば5巻を見てみる。 

 

 

 この巻には例えば、大食い選手権に出て吐いてしまうデリヘル嬢の話がある。「チェリモヤ」という源氏名、本名を「あやね」という。同窓会の旧友たちに友達が出場を話してしまっただけに、「吐いて失格」という惨めさが際立つ。あやねはデリヘル嬢という職業を人生の敗北のように考えており、出場はそこに差した小さな光のようなエピソードだったが、それも台無しになる。という展開だ。そこにラストがやってくる。ラストは明かさない。ただ、あやねにとって人生の救済になるわけではないが、台無しになった大食い選手権を埋め合わせる程度の小さな喜びをそこに見いだすことになる。その小ささが人生の悲哀感を出している。

 

 小さい頃に、父親に捨てられた「マンゴスチン」という源氏名、本名・ゆなという女性の話もある。

 父親はヤクザをしていて服役し、出所しているが今はもはや余命いくばくもない運命にあった。しかし、人生の終末を迎えてゆなに謝りたい気持ちでいっぱいであった。ゆなが金に困っていると聞いて、父親は病院を抜け出し質屋強盗をして大金を得る。「金は綺麗にしてある」と、資金洗浄した上で自分の兄(ゆなの叔父)を通じてその金と手紙を渡す。

…最後の頼みだ。頼むよ…

正直もう…

しゃべるのもしんどいんだ…

頼む。

その通帳はおれが生きた証なんだ。

頼むよ。

  父親は泣きながら兄に懇願する。兄はそれに打たれて引き受ける。

 父親は亡くなり、兄はゆなに手紙と金(通帳)を渡そうとするが、ゆなは事情を聞かずに、静かにそれを拒否する。手紙だけでもという兄の申し出も拒否する。

 それで終わりである。

 父親の破天荒と思える命の掛け方と謝罪・贖罪の仕方。

 そんな事情は全く知らないが、頑なにそれを拒むゆな。

 読者に放り投げるようにして終わる。

 そうかと思えば、仲の良い男2人の話。一人はデリヘル嬢と結婚することになる。もう一人もデリヘル嬢と付き合うことになる。しかし、最初の男は結局10万円を貸して女性が音信不通となり、後者の男はデリヘル嬢が今付き合っているDV彼氏っぽい男と別れるために利用されて終わる。「おれらバカかな…」と二人が酒を飲みながらつぶやく。

 

 終始こんな調子である。

 「デリヘル」というものに張り付いている印象を、縦横に使った作品だ。

 ディープな題材に振られたかと思うと、騙したり騙されたりする哀愁を漂わせた笑い話にしたり、「あなたならどうするか」のようななぞかけをしたりする。

 

 正直、それを軽く読みながら楽しんでいる自分がいる。読む際にエネルギーがほとんどいらないのである。読みやすい。だから、単行本が出たら買って読んでいる。時々思い返して読む。

 

 そして、絵柄や動きは、本当に乏しい。マンガのソフトで作ったのかと思うほど画一的である。構図も下図のように斜めを向いた顔が「斜めを向いている」と立体的に見えずに、円をかぶせてマスクしたみたいに見えてしまうときがある(上は、鈴木良雄『フルーツ宅配便』7巻、小学館p.70、下は同p.173)。

 

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 なかなかにひどいけど、まあ絵柄はたとえそうであってもいい作品なんだよということである。