この記事ではこのマンガの絵柄や雰囲気に全くそぐわない対決軸の話から入る。
「1戸が独立していてそこで車椅子でも生活できる特養施設を作り、そのまわりにさまざまな施設をはりめぐらす。しかも山や川に囲まれた田舎で災害対策にもなっている」という「森の家」なる自治体の総合施設計画がこのマンガの軸である。
婚約者と友人に裏切られ死ぬつもりでいたし、今でもそのつもりでいる青年・縣伸路(あがた・のぶろ)が都会から移住し、建築士として役場に勤め、このプロジェクトをまかされる主人公である。
これに異を唱えるのは、なんと主人公をやさしく田舎生活に導いてくれている親切な独居のおばあちゃん・草葉シゲである。
縣が「可能性は無限大」「なんて合理的で洗練された構想」と絶賛する「すばらしいプロジェクト」のはずなのだが、地元の高齢者の生活感を代表するシゲにそのプロジェクトは快く思われていないのである。
理由はシンプルで今住んでいる家を離れたくないのである。「よそ者が考えそうな話」と突き放す。
この「合理的」と思われるプロジェクトは根本的な欠陥をあらわにするのか、それとも、シゲさんが変わるのか、果てまたはそのどちらでもないのか。
合理主義・理性主義的な設計と、生活の実感から立ち上がってくるものだけを信じる保守主義という、まるで『空想から科学へ』の最初の章のような対立を見せられる。ぼくはついついこの構想の合理性に「素晴らしい」と思ってしまったクチなので、シゲさんが変わる方に1000万ペリカ、と言いたいところなのである。
ぼくはちょくちょくそういう「夢想」をしてしまう。
例えば、この現代、田舎では戸別の農家や家庭が独立して生業を持っているというのはどうにも不利ではないのか、と考える。一種の「集団化」をした方がいいのではないか…と思ってしまうのである。
生活だけでなく、例えば村や町全体が「公社」を作って、住民を全員雇用し、そこで産品を売ったり、地域内の労働分担をすればいいのではないか、というコミュニティ構想を考えてしまったりするのだ。介護や医療も全て公的に賄うし、サービスも全部公営でやればいいではないか。公営食堂、派遣の家事、共同の保育。エネルギーも大半は自給だ。なんかコルホーズとか人民公社みたいになっちゃいますね。でも住民・生産者の合意があればどうでしょうか。ダメですか。*1
そういう設計主義的な夢想は、縣が手にしているプロジェクトの思想に近いものではないのだろうか。だから、ぼくは縣の感性に感情移入しながらこの作品を読んでいる。
田舎暮らしの労働・生活・恋愛・結婚をリアルに描いた作品といえば夢路行の『あの山越えて』を思い出すが、そういう生活に根ざしたようなリアリズムではない。
『果ての王宮』は絵柄もキャラクターもテンポも展開も、もっと軽妙で、デフォルメが効いている。だからリーダビリティが高くてするすると読んでいってしまうのである。冒頭に挙げた対決構図などはマンガを読んでいる最中はどちらかといえば脇役めいている。
まだ1巻だからわからないのであるが、ぼくは実は冒頭に挙げた対決構図がどこに導かれるかに興味がある。
シゲさんが屈する(変化する)に違いない、というとんでもない結論を予想している。
*1:あくまで夢想・空想のレベルなのであまり本気にしないでください。

