ローマー『これからの社会主義 市場社会主義の可能性』(その5)

 ローマーの『これからの社会主義』については「あと1回」と書いたけど、前回記事のコメント欄を読んでみて思うところがあり、もう1回、前回の補足をしておきます。
 所有と企業の民主化についてです。

世の中の「所有」のイメージが貧しすぎる

 まず、所有について。
 ローマーが紹介している3つの市場社会主義のモデルのうちの3番目、企業の所有権はかわらず、法律・金融・税制・ステークホルダーなどでコントロールする、というタイプについて、「ぼくの考えは3.に近い」と書きました。
 そのさい「企業の所有権は変わらない」ということを少し考えてみます。


 民法では「所有権」は「自由に使用、収益、処分をなすことのできる権利」と定義されています。日本の憲法では、「財産権は、これを侵してはならない」(29条)と定めています(財産権は所有権を含むさらに広いものです)が、実際には社会権を実現するためにいろんな制限をかけています。「侵してはならない」などと大見得を切りながら、「絶対的に自由に使用・収益・処分してやるぜ!」ってことはできないわけです。
 よくある例では、労働者保護のための規制、私的独占の排除、公害防止、文化財の保護……なんかがあげられますよね。「俺の財産をどう使おうが自由だろ?」と言って、工場つくって有害な煙をもくもく吐き出したらマズいわけです。


 つまり、それは、現代の資本主義日本であっても所有(権)が実際には社会によって侵され、制限をかけられ、コントロールをされていることになります。
 しかし、かんたんにいえば、その度合いはとても小さいものです。
 いち企業の所有に対する制限・コントロールの度合いも弱いし、仮にある企業やある部門への所有に干渉して、かなりの制限・コントロールが効くようになってきたとしても、社会全体としては「もうけ最優先」「利潤ファースト」とも呼べる原理をくつがえすところまではいっていない。「社会的理性」が「祭り」の「前」から働くようにはなっていないわけです。


 所有への干渉はいま現在すでにおきているわけで、それを見てもわかるように、所有への干渉の深め方、つまり生産手段の社会化のありようは、一律ではないはずです。
 なるほど、会社が民主化されて、協同組合のようになることもあるでしょう。
 しかし、そうではなくて、株式会社のままであったとしても、外から法令でコントロールすることもできます。
 あるいは、政府や自治体が金融や財政(融資とか補助金など)で誘導することもできるでしょう。
 強弱や範囲の大小はあっても、いま日本でも普通に行われているような、政府や自治体による「計画」によって企業行動を変えることもできるでしょう。
 株主は株券を握りしめたまま、しかし、社会はすでにその企業の所有に、実際にはかなりのコントロールを効かせる、すなわち所有に大胆に干渉し、実質的には奪っている、というようなことができるのではないでしょうか。
 このような多様なチャンネルあるいはハンドルあるいはスイッチによって、社会が合理的に経済を「運転」(管理・運営)できるようになって、「利潤ファースト」の社会のありようを覆すなら、すでにそれは社会主義社会だと言えます(マルクスが工場立法のようなものを「新しい社会の形成要素」と呼んだこともここにつながります)。「修正資本主義」ではありません。


 「所有」という言葉には、狭いイメージがつきまとっています。
 「私的所有から社会的所有に」、というと、本当に狭いイメージになってしまいます。
 「生産手段を社会的所有にする」といわずに「生産手段を社会化する」という言い方をした方がいいとぼくが思うのは、単にごまかすためではなくて、「所有(権)の変更」という狭いイメージから抜け出すのには、その方がいいと思うからだし、すでに現実に資本主義の中でその萌芽が生まれていることを示せると思うからです。
 企業の従業員に所有を移行することを「社会化」「社会的所有」のメルクマールにしてしまうことは、社会化の多様な形態、イメージを奪ってしまうし、あとで述べるように合理的でもありません。

企業が民主化されたら社会は合理的な決定を下せるのか?

 次に、企業の民主化について。
 企業の民主化、例えば今述べた「企業の従業員に所有を移行すること」は、社会主義にとって必要不可欠なことでしょうか。
 ローマーがあげたモデルのうち1.の自主管理企業は、このスタイルでしょう。*1
 別に自主管理企業でなくてもいいんですけど、いずれにせよ、ある企業が従業員のものになり民主的な職場になったとしても、それは社会全体の合理的な決定になにか意味をなすものになるでしょうか? 別の言い方をすると、ミクロの企業が民主的になることと、マクロでの社会の合理的な意思決定とは別の話ではないかということです。
 結局、企業がもうけて利潤を稼いでそれを従業員に分配するというだけなら、企業はもうかるにはどうしたらいいかを考えることになり、みんなで民主的に話し合って、とんでもねーブラックな決定をしてしまうことだってあると思います。*2
 むろん、職場はなんらかの形で民主化された方がいいに決まっています。それは直接には働きやすさのためです。だとすれば労働組合をちゃんと機能するようにすればいいわけであって、狭い意味での所有権の移行をする必要は必ずしもないように思われます。


 ゆえにローマーが3.としてあげた「企業の所有権は変わらない」という点について、所有権はそのままかもしれないけど、実質的には社会がそこに干渉して、コントロールを効かせているわけで、資本家の所有権は空洞化していることになります。つまり、「企業の所有権は変わらない」ということに、ぼくは同意しているとも言えるし、同意していないとも言えるのです。

*1:ローマーは別の章でユーゴスラビアの経験を取り上げていますが、ユーゴでは結局国がけっこうイニシアチブとっていて、本当の意味で「自主管理」になってなかったんじゃねーの? というのがローマーの言い分のようです。まあ、それはともかく。

*2:社会主義になってもそういう企業のありよう自体は、ぼくは広く残ると思っています。