鈴木透『食の実験場アメリカ』

 リモート読書会で読んだ。

 

 

 サブタイトルが「ファーストフード帝国のゆくえ」なので、ははあ、アメリカ=ファストフード帝国批判なんだろうなと思って読んだが、さにあらず

 アメリカでの食文化が様々なエスニックな要素が混ざり合ってできた豊かな歴史を持ち(クレオール料理)、同時に、それがやがて近代の効率性によって画一化への変容しながらも、それへの批判者としてヒッピー文化が登場。ヒッピーの運動そのものは挫折したが、食から政治や社会を変える可能性について展望するにまで至る。

 

面白い小ネタがいっぱい

 ぼくが面白いと思った主な点は2点。

 一つは、アメリカの食・歴史についての小ネタが満載という点。これを学ぶだけでも、本書は十分楽しめるのではないか。

 例えばバーベキュー。今ぼくが日本で見ている姿は単なる「焼肉」なのだが、「バーベキュー」とは一体もともとどのようなものだったのかを本書で知れる。

白人の支配階級は、牛や豚などの良質な部位を奴隷たちに調理させるようになるのに対し、奴隷たちは家畜用の牛や豚はめったにありつけず、残った部位か、他の食材で調理するようになっていた。(p.26-27)

南部の貧しい白人や黒人奴隷たちにとって重要な蛋白源の一つとなったのは、野生の豚であった。これを捕まえて焼いたのである。その時用いられたのが、ヨーロッパとは違う焼き方だった。それがバーベキューである。(p.27)

語源は西インド諸島のタイノ族という先住民の言葉で、焼くための設備をさす言葉「バルバコア」にあるらしい。(同)

西洋の肉の焼き方が至近距離の直火で短時間に焼くのが一般的だったのに対して、バーベキューは低温の炭火を離れた場所に置き、その煙でいぶすようにしながら長時間焼くものであり、肉がその分やわらかくなる。だが、大掛かりな野外設備を必要とする長時間の重労働だったため、当初アメリカでこれを担っていた中心は黒人奴隷だった。黒人奴隷たちは、西インド諸島で先住インディアンたちと接触した際にこの技術を身に着け、南部へと持ち込んだと考えられる。(p.28)

 

 あるいは「コカ・コーラ」や「ドクター・ペッパー」のような炭酸の清涼飲料水。もともとは医療的な「薬」として売り出されていた。

アメリカの場合、ピューリタン的な倫理が世俗化されるにつれ、アルコールへの依存度を低めようとする禁酒運動が一九世紀以降盛んになってくる。それゆえ、アルコール抜きの飲みやすい、飲料水型の食品が求められるようになる。その結果開発されたのが、炭酸飲料だったのである。(p.98)

当初、炭酸飲料は、専ら病気の人が安全に水分を補給する手段とみられていた。ところが、これは普通の人が飲んでもいいのではないかという考えが広まり、炭酸水に様々なフレーバーを付ける試みが行われるようになる。(p.98-99)

 こうして「ドクター・ペッパー」「コカ・コーラ」の誕生へとつながっていく。「薬くささ」はその名残なのだ。

 

食を通じて社会を変える?

 もう一つは、本書が結論として食を通じて政治や社会を変える可能性について考察していることだ。

 筆者は、トランプ旋風などに見られるような反知性主義アメリカ第一主義を心配している。しかし、それを「食」が変えるかもしれないというのだ。

異種混交的なアメリカの食の成り立ちを再認識することは、他の集団からの恩恵をこの国が受けてきたこともあらためて浮き彫りにする。食べ物に刻まれた、忘れられた記憶を回収することは、アメリカと国境の外との世界との意外なつながりを明らかにしてくれる。それは唯一の超大国が苦手としている自己相対化のための契機を提供し、アメリカ型多文化主義アメリカが第一主義の併存するねじれ現象に一石を投じる可能性を秘めている。(p.233)

 うん、こう聞くと「なんて馬鹿げたことを」と思うかもしれない。

 いや、ぼくも「馬鹿げてる」と思った。

 だから、筆者も「荒唐無稽」かもしれないが…という言い訳を何度も書いているのである。

 確かに、アメリカの食の成り立ちの多様性を知るようになれば自分たちを相対化するきっかけになるのでは? という問いは、ある種の層には当てはまっても、とても社会運動として広く社会・政治を変えるようになるとは思えない。

 

 しかし、もう少し読み進めていくと筆者は子どもの食育を例にとり、文化・健康・環境・農業など様々な方向から政治を変えていく可能性はないだろうかと問題提起をしていく。つまり「食育」は確かに部分的な運動と変革に過ぎないが、それが全分野で起きれば社会的に小さくないインパクトを与えられるのではないか、と考えるのだ。

 さらに

食というテーマが比較的反知性主義の抵抗感が少ないと予想されることも考えれば、このシナリオの実現可能性にアメリカはかけてみるべきではないだろうか。(p.241)

いやむしろ、アメリカを先取りするような発想が他の国にあってもよいのではないだろうか。実際、アメリカのCSA〔一種の産直運動。コミュニティ・サポーティッド・アグリカルチャー〕の重要なヒントは日本の生活クラブだといわれる。食文化研究から得られる知見を社会が真剣に受け止め、食の変革の持つ射程を再認識できるなら、その社会的合意を実行に移す力は、日本にもあるはずだ。(p.242)

 これは例えば「おいしいものを食べる・作る」という運動や「農産物を育てる」という運動をすることは、トランプ支持層のような人たちも敷居が低いということを言っているのだと思った。

 実際ぼくの近所にも参政党の運動を熱心にしている人が街頭に立っているけど、ビラを読んだり、訴えを聞いていると食の話がメインだ。

 

 知り合いの学者が、2050年に日本で食糧危機が起きる可能性について学者仲間と共同で研究を深めている。その人は、耕地の確保、国内食糧増産、農業生産者への税金投入について、社会そのものを変えてしまうような国民合意=政治変革が必要ではないかと考えている。

 その場合、例えば

  • みんなで郷土料理を作ってみる
  • 安くて健康な食材を食べてみる
  • みんなでカボチャを育ててみる

というような企画や運動を考えることができる。

 食糧支援に多くの人が協力したり、「子ども食堂」にたくさんの住民が参加したりしているのは、「政治」に熱い層とは別の、「一般の人」が参加している事実を示している。

 食糧自給を引き上げる合意を作ることは政治の一大変革が必要になる。その流れが、実は様々な政治変革の結節点になる可能性が確かにあるのだ。

 また、これがヒッピー運動がたどった末路のように、「地球に優しい高価な食材を入手できる人たちだけの運動」になってしまえばダメだが、非正規労働のような低賃金労働者がどうすれば食糧を手に入れられるか、という運動と結びつけば、それらを対立させずに一体の運動として取り組むことも可能になる。

 左翼は従来型の運動に縛られず、こうした切り口や入口で運動を始めるべきではないのか…そんなことも考えさせられる一冊だった。

 

 次回の読書会テキストは石井遼介『心理的安全性のつくりかた』である。