保阪正康『戦場体験者 沈黙の記録』

戦場体験者 沈黙の記録 (単行本) 40数年もかけて4000人から話を聞いたということ、戦友会の抑圧構造が一般兵士の戦場体験証言の少なさに結びついているという新聞広告を見て本書を手にとった。


 兵士としての戦場体験を直接聞けたのは、ぼくの父方の祖父と、つれあいの父方の祖父の2人だけである。しかし、どちらからも詳しい戦場体験を聞くことはできなかった。一、二度、アウトラインのようなものを話してもらってそれで終わりだった。こちらも「お話につきあう」程度の心構えだったので、当然である。どちらも鬼籍に入ってしまい、もう後の祭り。取り返しがつかない。いかに貴重な機会を失ったかを今さらながら思い知る。


 子どもとして空襲の被害に遭ったなどの「戦争体験」を語れる世代はまだ残っているが、保阪正康が本書で書いているとおり、2015年現在、戦場を体験した人は90代以上ということになり、

戦後七十年という節目の年、実際の戦場体験は今では語れる人がいなくなったといっていい。それだけに戦場体験を記録することはほとんど不可能な状態になっている。(保阪p.242)。

 しかも保阪の本書を読んで驚いたのは、一般兵士の戦場体験の証言は「軽視」(p.8)「無視」(p.9)され、「封じられた」(同)のだということだった。保阪は戦史・戦記・回想録・自伝などの出版状況を年代ごとにまとめているが、参謀や高官のものが多く、その後にジャーナリストのノンフィクションもの、ようやく一般兵士の証言が目立つようになったのは2000年ごろからだという。
 ぼくは、一般兵士の戦場体験証言などありふれたものだろうと思っていたのだが、それはぼくの思いこみであったことに衝撃を受けた。


 その理由の一つとして、戦友会の問題を保阪はあげている。

戦後の日本社会は、一般兵士がその戦場体験を語ることを許さない暗黙の諒解をつくってきたのである。一般兵士たちに、「おまえたちが体験したことは銃後の国民に語ってはならない」という暗黙の強要が、とくに戦友会を通じて行われていたといってもよかった。そのために一般兵士たちは、単に語るのをやめただけでなく、語らないということで、従軍とは別の形で国家に忠誠を誓うことになったのである。(p.12)

 これが本当なら、戦後70年間の戦争の語られ方というのは一体何だったのかと愕然とせざるを得ない。「被害体験も加害体験もだいたい集めされつくした。今後は当事者が死んでしまうから、様々な検証や議論が当事者の証言を真ん中においてはできなくなるな」というのがぼくの呑気な認識だったわけだが、保阪に従えば、たとえば「南京虐殺をはじめとする中国戦線での残虐行為」(p.13)などの加害体験は、語られない・集められないうちに、当事者が死に絶えてしまったということになる(もちろん、語られた一部は存在する)。これはどえらいことではないだろうか。
 保阪のいうように「そのような残虐行為は皆無だった」という主張する論者がこうした状況につけこんでますます大手を振るうようになるし、これからの戦争体験が「被害体験」一色で染まっていき、戦場体験や加害体験を新聞やテレビに載せることはいよいよ機会がなくなり、あるいは「偏向」の扱いをうけるのではないかという危惧を覚えざるをえない。


 ただ、ちょっと保阪のために付け加えておくと、保阪は戦場体験の問題を「加害」という角度からは一面的に扱ってはいない。戦場における過酷な体験全般について言っているのである。

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 戦友会が一般兵士の戦場体験証言に対して抑圧的に作用した構造について、保阪は書いている。保阪は、(一)昭和陸海軍の軍事行動正当化、(二)戦史を一本化するための統制…など戦友会の役割を7点ほどあげている。

(一)は連隊、師団などの戦友会では、軍隊内の階級が生きていて日中戦争、太平洋戦争の正当化が前提になっているということだ。(p.15、強調は引用者)

(二)は一般兵士が「大本営参謀が書いているわれわれの体験した戦闘内容は事実と違いますよね」と言ったときに、かつて連隊長だった将校が、声を荒げて「おい、一兵士風情が大本営の戦史に口を挟むな」と叱りつけた。その兵士は居ずまいを正して「はい」といって俯いた。私はこのときに、戦友会の役割を実見したのである。(p.16、強調は引用者)

 保阪によれば、このような抑圧的な作用だけではなく、一般社会では理解されがたい非日常体験を、同じ経験をした人たちの間で語り合うことで、「癒し」を果たす作用ももっていた。

彼らは苦しんでいた。平時の今、戦場体験という非日常の不条理を記憶の底に沈めながら、とにかく苦しんでいるのである。それを仲間どうしで助けあっている。つまり相互にケアしているのである。思いきりあの時代の罪業を口にすることで、仲間うちで癒しあっているのである。(p.110)

 保阪を戦友会に出席させる手引きをしたI氏が保阪に語ったことも戦友会の役割の一つを示すものだ。

「彼らは家に帰ると戦争の話など決してしないでしょう。子供や孫に聞かせられませんよ……」と、戦友会の真の役割を私に語った。「なにも戦争を賛美するのではなく、戦争の苦しさから逃れるための戦友会なんです。これが本当の戦友会ではないですか」と、つぶやいた。(p.111)

 戦場体験がなかなか家庭では語られずに、よくても「手柄話」などに終始するというのは、ぼくの個人体験とも重なった。
 先ほども書いたことだけど、戦場の兵士としての被害的な苛烈体験も、加害的な残虐行為も、実際のところは語られず仕舞いだったとすれば、日本人の歴史認識を形作っていくうえで大きな穴があいたままになっていることになる。そして、これからの十数年ほどは、たとえば子どもたちが学校などで「戦争体験」として聞く話はすべて空襲や引き揚げなどの「労苦」「被害体験」だけになってしまう(それを聞くこと自体は大切なことは間違いない)ことに恐ろしさを感じる。


 ぼく自身も、十五年戦争の認識を大きく変えたのは、やはり日本軍の加害体験を系統的に読んだ高校生になってからであった。それまでは「戦争はいけない」といったとき、それが被害者としてのイメージ(侵略される側のイメージ)しかなく、よもや自らが加害者(侵略者)の側にまわるとは思いもよらなかった。同じような歴史認識と戦争認識が再生産されてしまうのではないか。
 千島も竹島も日本の領土のはずであるが、実際には外国が実効支配をしている。刺激的にいえば「外国に占領されている」ととらえることもできるわけだが、だからといって、それを戦争で取り返すという選択肢はない。右派でさえないであろう。あるいは中国がいくら尖閣にちょっかいを出しているといっても、ここを武力で何か解決するということもないだろう。
 前々からぼくも言ってきたとおり、むしろ日本にとってリアリティのある危険は、アメリカ軍にくっついて遠い外国で、殺し・殺される関係に自衛隊が投げ込まれることだ。圧倒的に加害をする戦場体験を味わう危険として目の前にある。戦場体験の欠落は、日本人の平和・戦争認識に重大な影響を及ぼしかねない。

『共同研究・戦友会』と比べる

 さて、それにもかかわらず、保阪の認識を鵜呑みにするわけにもいかない問題もある。
 保阪の本書を読んだあと、ぼくは戦友会というものに少し興味をもち、戦友会について書いたものはないだろうかと他の本を調べていた。
 そのなかで、出会ったのが高橋三郎・溝部明男・高橋由典・伊藤公雄・新田光子・橋本満『共同研究・戦友会』(田畑書店、1983年)であった。
 この本を読むと、戦友会についての認識が保阪と正反対の部分がある。
 戦友会が旧軍隊の階級構造を無視した平等組織であるということだ。
 保阪は「連隊、師団などの戦友会では」という限定をつけているものの、「軍隊内の階級が生きていて」ということを戦友会の特徴としてあげている。ところが、『共同研究』では、

戦友会の組織は、旧軍隊がもっていた官僚主義的なタテの側面を復活させようと構成されているのではない。仲間の集まりであることが基本となっている。(共同研究p.255、強調は引用者)

そこでは、かつての軍隊の組織を思いださせる官僚主義的でかたいタテの人間関係は避けられている。戦友会での戦友たちのつながりは、いわばタテに対してヨコの仲間意識によるものであり、実際に戦友会では軍隊での上下の人間関係を復活させることは求められない。多くの戦友会が将校、下士官、兵からなる集まりであるのに、階級呼称を使ったり、軍服や軍帽を着用することは少ない…。(共同研究p.267、強調は引用者)

 このほかに、現在の社会的地位もまったく考慮されない、いわば現世を忘れての非日常空間であることも『共同研究』では強調されている。まったく平等主義的なのだ。
 『共同研究』では戦友会に大規模なアンケートを行っていて、「軍隊の階級名・職名を使うことがあるか」に対して3分の1が「使うこともある」としつつ、3分の2は「使わない」としているし、「戦友会で軍帽・軍服を着用することがあるか」についても「着用する」「着用することもある」をあわせても1割には満たない。
 保阪の本では、既存の戦友会にうんざりした人の話が載っている。予備学生の同期会に出て、「黒線二本のついた士官略帽をかぶり」「当時のままの調子で大声で号令を発する」(保阪p.46-47)とある。
 『共同研究』によれば、戦友会は学校戦友会(士官学校など)か部隊戦友会かで分かれ、さらに部隊戦友会は同じ部隊として顔をあわせたことのある「対面型」か、非常に大規模な連隊・師団などでそこに所属した時期なども違うためにお互いに知り合ってもいない「非対面型」かで大きく分かれる。ぼくなどがイメージする戦友会はいわば「対面型・部隊戦友会」であるが、保阪があげた戦友会の具体例は、必ずしもこのようなタイプの戦友会ではないことに留意する必要がある。


 保阪の描く戦友会の特徴と正反対のように思える。
 果たして、戦友会は旧軍の階級構造が生きて、言論の抑圧を意識的・無意識的に強いている組織なのであろうか。そうではないのだろうか。
 戦友会に一度も行ったこともなければ、本もほとんど読んでいないぼくには判断がつきかねる問題だ。
 ただ、まったくの独断と推測ということをお断りして、ぼくの考えを以下に記しておく。


戦友会の存在が証言にブレーキをかけたのはその通りではないか

 結論からいえば、保阪のあげたような旧軍的な構造が生きていた戦友会もあったのだろうが、大部分はそれを忘れた『共同研究』が指摘するような平等主義的な組織であったのだろう。そして、戦場体験を語らないのは、旧軍の階級構造が生きていて厳しい抑圧がかかっていたというよりも、臨死体験があったがゆえに旧軍の体験を「共同体としてのよさがあった」と懐かしめるプラス感情を、残虐・過酷の一色で塗ってしまう「戦場体験語り」にしてしまうことへの躊躇があったのではないかと思う。


 どういうことか。


 ブラックバイトの体験を読んでいたときに、コンビニのバイトで、職場一丸となって目標を達成しようという雰囲気に抗しきれずに、自腹でキャンペーン商品を買い取る、いわゆる「自爆」に抗議できなかったという話に出会ったことがある。
 それなりに人間関係もあった職場らしい。
 労働は過酷で不条理なことばかりだったが、いっしょにやっていた「仲間」たちとは、苦楽をともにし、ひょっとしたら今でも交流があるかもしれない。そういうときに、まず職場で現に働いているときにそれに抗することはかなり勇気のいることだったろうし、たとえバイトが終わってからであってもその職場を「ブラックバイト」「ブラック企業」という言い方で特徴付けることに抵抗のある人がいても不思議ではない。
 「ブラックバイト」「ブラック企業」という言い方にまとわりついてくる、人間を搾取し、使い捨てる冷酷な労働のイメージを用いてしまうことによって、自分のまわりの「仲間」たちまで同じトーンで塗ってしまうような気がする。そして、もしその職場での生活が一定の期間であったとするなら、自分の青春の一時期全体が無駄で浪費的なものだったように思えてしまう。
 ぼくがある左翼候補を紹介する一文を地域でまくビラで書いたとき、この候補者が昔いた職場を「ブラック企業」と書くことに候補者自身が抵抗していた。話を聞けば相当にブラックな現場であったのだが、当時自分がやりがいをもって働いていたことや今も交流することがある友人のことが頭に浮かんで、どうしてもそういう表現にすることには抵抗があるというのだ。
 環境が過酷であればあるほど、そこを共にくぐり抜けた連帯感は弥増すだろう。
 ぼくはブラック企業とかブラックバイトという規定自体は、世間に問題をわかりやすく知らしめるすぐれたアイコンであり、使用者側の姿勢を浮き彫りにするうえでも科学的だと考えるが、当事者とともに問題に立ち入っていくときには、いったんこのセンセーショナルな響きをもつ概念を捨てて、冷静に問題を切り分けていける、中立的な色彩を帯びた概念(たとえば労働時間数だの、労使協定だの、各種の労働法の規定だの)に切り替えないといけないと感じる。


 戦友会も同じではないだろうか。
 たとえば残虐な戦場での行為を対外的に「不用意に」語ることは、その残虐性一色で部隊の経験を塗ってしまうことになる。そうではない側面はどこへ行ってしまうのか。戦友たちの内面には、「そうではない側面」が広大に広がっている。


 ぼくは『共同研究』のなかで、戦友会では何が話題とされ、何がタブーとされたかという記述に注目する。「軍隊の組織がすべて復活させられるのではなくて、官僚主義的な組織的緊張を強いる側面は抑えられ、軍隊生活の共同体的側面が戦友にとって懐かしみうるものとして再生される」(共同研究p.276)としたうえで、次のように続く。

再生される体験は、軍隊生活と戦闘体験なのである。多くの戦友会の出席者は厳しい戦闘体験をもっていて、この体験がかれらの仲間意識の基盤となっているのだが、戦争の過酷な側面をあまり語ろうとしない。威勢のよい手柄話が語られることも少ない。運よく死からまぬがれた体験がよく語られる。戦友たちが同等に直面していた死が、奇妙な平等主義的連帯感をつくりだしている。戦友会の仲間たちの親睦は、死と隣りあわせであった非日常的な体験から生れるのである。この非日常性からも、戦友会は現実から切り離された場を必要とする。(共同研究p.276-277)

 『共同研究』のアンケートでは、「戦争体験を子や孫に伝えたいか」という問いに対して、「ぜひ伝えたい」は32%なのだが、「伝えたいが理解されないだろう」が48%と半数近い。これに「伝えるつもりはない」11%をあわせると6割近くが後ろ向きな回答をしている。

戦後の社会では、「戦争体験」の懐古は――過去の体験一般の懐古とちがって――、当事者以外の人びとに否定的に評価されるのが普通である。軍隊生活や戦争の話をする人は、しばしば好戦的と評価される。(共同研究p.136)

 「戦争はいけないものだ」とされ、軍事的なものの価値が否定された戦後社会では、自分たちの体験の収まりどころがないというのである。積極的に軍国主義を主張したいわけではない。旧軍が正しかった、よかった、復活したいなどとも思っていない。しかし、自分の体験を、ただ残虐きわまるもの、もしくは無駄で過酷で空費でしなかった青春、とだけ決めつけられることに違和感があり、それゆえに「わかってくれる」戦友たちと集まり、閉鎖的な親睦をする。


 戦友会を一歩でたところで証言することのリスクは、たとえば保阪の本書『戦場体験者』の中には、残虐行為を口述しているところを息子に聞かれてしまう体験者が登場する。

「息子から言われました。親父、あんたという人はそんなことをやってきたのか。そんな人間だったのか。僕はもうこの家には居たくない。今日を限りとしてこの家を出て行く、と言われました。以来、息子は私と会ってはくれない……」(保阪p.76)


 戦友会が機能しなくなり、かつて兵士だった層が死期に入り始めた2000年代に証言がふえたのは、おそらく「もう迷惑をかける戦友もいない」と覚悟をきめた一部の人たちが最期に語り残しておきたいと思ってポツポツと証言をしたからであろう。*2


 むろんぼくは「戦争はいけないものだ」とされ、軍事的なものの価値が否定された戦後社会を肯定的に評価する。だとすれば、かつての兵士たちが自分の体験の収めどころを見失ったのは、やむを得ないことではないかと考える。
 ただそれによって、一般兵士の戦場体験がほとんど語られないままになったのはあまりにも惜しいことではあった。


 戦後の日本では戦場体験の中でもとりわけ、残虐行為――あえてこの呼び方を使わせてもらえば、「加害体験」をうまく語り、受け止める基盤が脆弱だった。むろん民間にはそれを乗り越えて証言をし、それを収集した運動があったことは忘れてはならないが、他方で膨大な一般兵士の経験が証言の形にならずに埋もれてしまったことも否定できない。

余談――「靖国神社国営化運動に大半の戦友会は傾斜していた」か?

 以下は余談であるけども、保阪の戦友会の特徴づけには「(五)『英霊』に対する追悼と供養」というものが出てきて、「靖国神社へ収斂するとの意味(一時は靖国神社国営化運動に大半の戦友会は傾斜していた)をもっている」(保阪p.16)という解説をつけている。
 戦友会のメイン行事、そして共通する行事の一つが亡くなった戦友の慰霊であったことは『共同研究』でも裏付けられており、まさに戦死者を中心においての集まりでもあった。
 ただ、「靖国神社国営化運動に大半の戦友会は傾斜していた」についてであるが、これはおそらく「全国戦友会連合会」への加盟を意味しているのではないか。「全国戦友会連合会」は靖国神社の「国家護持」すなわち国営化を第一目的にしている。
 しかし、この全国連合会へ加盟していたのは「三〇パーセントにも及んでいない」(共同研究p.298)とされている。
 ところが『共同研究』(第1版)のp.299にある「表18 全国戦友会連合会への加盟」では「加わっている」が67.6%、「加わっていない」が28.5%と、本文の記述と逆になっているのである。
 本文と表とどちらが正しいかはわからないが、ウィキペディアによれば戦友会研究会『戦友会研究ノート』(青弓社、2012年)では『共同研究』に掲載されたアンケートを紹介して組織率を30%としているので、おそらく表の側の間違いであろう。
 なお同じ戦友会アンケート(世話人に質問)では、戦友会の多くは靖国神社の「国家護持」(国営化)について「賛成・推進活動」がだいたい1〜2割、「賛成・活動せず」がだいたい5割をこえて圧倒的に多い。反対はほぼゼロである。「賛成」が多いことは間違いないが、積極的に活動するほどではないという感覚であり、「運動に傾斜」という表現は明らかに行き過ぎである。
 したがって、保阪の「靖国神社国営化運動に大半の戦友会は傾斜していた」という認識は、「表」をもとにしてしまった誤りであると推察できる。

*1:今年の8月15日にBS7chで放映された「発掘! 戦場の叫び〜元兵士1500人が伝えたい真実」は「幹部ではなく一兵卒として戦地に駆り出された若者たち、その生々しい証言を収めた4000本を超すビデオテープ…。秘蔵映像の中に、いまこそ耳を傾けたい“人々の声”があった。(新聞広告より)」という内容だったようで、そういう意味からも見ておきたかった。見逃したのがつくづく惜しまれる。

*2:『共同研究』のアンケートによれば会員間の会合外での個人的交流は「活発」「ひじょうに活発」をあわせると65%にも及んでいる。(同p.130