花輪和一『刑務所の中』

 リモート読書会で花輪和一刑務所の中』を読む。

 ぼくがファシリテーターを務めたので、最初に報告した一文を紹介しておく。

 なお、ぼくは花輪についてほとんど詳しくはない。なので、最初は、花輪について書かれたウィキペディア(2023年9月26日)を使わせてもらった(そこには不正確なこともあるかもしれないのだが)。その部分は省略しておく。

 

 本作を読む場合の注意としてあげておきたいのは、本作が発表されてからの刑事施設の処遇の変化である。

 『刑務所の中』(2000年)が刊行されヒットした。

 そして崔洋一監督、山崎努主演で映画化(2002年)もされた。ぼくもファシリテーターをやるに際して、同作を鑑賞した。松重豊なども出てきて楽しく見られた。本作に忠実ではあるのだが、どこを取捨選択しているかで崔とぼくの注目ポイントが違うなあと感じた(後述)。

 花輪は、この経験をもとに、安部譲二とともに、受刑者の処遇改善などを話し合う法務省行刑改革会議(2003年)などにも呼ばれている。これは刑務行政職員が受刑者を暴行して死に至らしめた「名古屋事件」をきっかけにしている。

https://www.moj.go.jp/shingi1/kanbou_gyokei_kaigi_gaiyou03.html

(1) 我が国行刑の実情について、安部譲二氏及び花輪和一氏から以下のとおり説明がなされた。
〔…中略…〕

イ 花輪氏の説明
・ 銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反により、平成7年から同9年までの間、服役した。
・ 刑務所生活に不満はなかった。刑務所は、厳しければ厳しいほどいいと思う。
・ 作業賞与金の額が少ないと言えば少ない。

ウ 安部氏、花輪氏に対し,以下のとおり質疑応答がなされた。
・ 刑務作業は,社会復帰に役立ったか。
(回答:〔…中略…〕
 花輪氏 鎌倉彫を木工所でやっていたが、社会に出てからは、オリジナリティがないので、なかなか役立てることは難しい。)
・ 「刑務所の中」という作品はとてもよくできているが、本を書く上で、何かを持ち出したりしたのか。
(回答:花輪氏 畳の敷き方等については、分からないように紙に書いて持ち出した。)
〔…中略…〕

・ 名古屋事件の原因はどこにあると思うか。
(回答:〔…中略…〕花輪氏 原因は分からない。)

 刑務所の処遇について花輪は「刑務所は、厳しければ厳しいほどいいと思う」と述べており、本作でも花輪が(刑務所ではなく)拘置所内で食事をしながら「悪事をはたらいたのにこんないい生活していいのかな」と考えるシーンが出てくる。

 また、花輪は「不正連絡」で懲罰房に入れられるのだが、この会議で正直に「畳の敷き方等については、分からないように紙に書いて持ち出した」と述べているのが可笑しい。

 本書の「口絵」にあたる見開きなどを見た読書会参加者はその精緻さに驚いていたが、ぼくもこのようなスケッチは、自分の房内はともかく作業施設についてはなかなかできないのだから、後日取材したのだろうか? と思っていたのだが、そういうことをしたのかと少し合点がいった。

 そして、この後2005年に「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律」が改正され、監獄法も100年ぶりに改正された。

 ただ、入管問題にあるように、法務行政・刑務行政の抑圧性は本質的には改善されたとは言えない。

 しかし、2005年の改正で処遇の上で一定の改善・変化があったことは事実で、それは承知して読む必要がある。

 例えば本作のp.229は「1級・2級…」という名札の色の説明が出てくる。これは受刑者の処遇の等級を表すものだが、この「累進処遇制度」は廃止され、現在は新しい制度になっている。

 また、p.260から始まる「軽屏禁(けいへいきん)」という懲罰はもうない。

…などの改善点があるので、ここで描かれた刑務所の実態がそのまま現在も続いているわけではない。そのことは承知して読む必要がある。

 

 本作を読んでぼくが面白かった点 は何か。

 一言でまとめれば、自分の罪・罪悪などにも、あるいは刑罰の抑圧にもフォーカスせず、ひたすら事実を詳細に描き出し、それを独特の画力と人間観察が支えるという視点が、花輪ならではの高い客観性を与えていることだ。

 特に畳や古い木造の建造物の雰囲気を描き出すのに、画風が合っている。

 その上で4点ほど述べたい。

 

(1)何と言っても食事の描写が秀逸

 特に、p.185の「日本崩壊食」で描かれるマーガリンと甘味の描写だ。

 脳が溶けてしまうほどに甘味を欲して、食事時間が終わった昼休みの時間なのに、隠れて食べている受刑者の描写は心に残る。

 映画では、この小豆にマーガリンを混ぜて食べるところ、子供の頃のいかなる思い出よりもうまい体験として描かれる部分は強調されるが、受刑者が隠れて食べているシーンは描かれない。ぼくと崔洋一のセンスとはだいぶ違うんだなと思った。

 作品全体に、受刑者が甘味に対する飢餓感を感じている描写が多く、一つのテーマにさえなっている。自分なら「羊羹」「みどり豆」などが出てきても遠慮するように思うが、それは刑務所に入っていないからかもしれない。

 土山しげる極道めし』は、刑務所に入っている受刑者たちがお互いにシャバの時代に美味しかったものを語り合う物語だが、刑務所というのは、やはり食に対する飢餓感・喪失感が相当強い場所だという印象を受ける。

 この点は読書会参加者からも口々に同様の感想が出された。

 花輪が独房で人に会わない作業に没頭していることを受けて、ひょっとしたら一生ここに入っていてもいいかもしれないと錯覚するシーンなどを見て、一定の規制・縛りの中で独特の「幸福」というものが生じる瞬間について交流した。

 何かの制約や「縛り」をかけるというある種簡単な手続きを施すことで、急に、忽然と、そこい突飛な「幸福」が生まれてしまうのは、現代でもテレビのバラエティでの古典的な企画の一つとしてよく行われてきた。YouTubeなどにはそのような「古典」のわかりやすさが現代的に蘇っているのだと感じる。

www.youtube.com

 

(2)自分の犯した罪に対する罪悪感のドライさ

 p.125「うれしいお正月」も食事に関するものだが、それよりも受刑者たちの自分の犯した罪に対する罪悪感の乾燥ぶり(ドライさ)が印象的だ。

 p.139-140あたり。あいつ殺すからみんなこいや、っていう犯罪シーン。タバコ吸いながら殺している。

いやあ もう殺してくれってゆう目をしてたよ

 怖い感じもあるのだが、あとがきのエッセイで野口さとこが

この作品はどうしてこんなに開放感があるのだろう、と思っていたが、その答えを貰ったように思う。花輪さんは全てを断ち切っているのだ、最初から。そんな花輪さんの目を通して見るから、ムショの世界が面白く見えてくるのではないか。

と書いてる、その視点につながる。

 

(3)刑務所内の自由と抑圧

 刑務所の雑居房・独房、独房の中でも懲罰が始まるまでの房、懲罰を受ける房、そして拘置所などの違いが細かくわかるのが興味深かった。

 刑務所の雑居房は、「優良」とされる房であれば、テレビも毎日見られて、エロ小説も読めて、マスターベーションもできる、というのが意外だった。

 ただし、どこでも刑務官・看守たちの絶望的なまでに強力な権力は強く感じた。

 もみあげ、尻の穴など、身体の隅々までが管理され尽くしている。自分が不当な扱いを受けた時に、これに抵抗する手段はほとんどないであろうという恐ろしさを感じた。

 日弁連が受刑者向けに2022年に出したマニュアルを読んだ。

https://www.nichibenren.or.jp/library/pdf/jfba_info/publication/pamphlet/jyukeisha_jp_kai1.pdf

 そこには抗議する手法・手続きはいろいろ書いてあるのだが、受刑者は自分が受けた不当な扱いについて弁護士もつけられない。本当に行政内部で処理が終わってしまうために、勝てない。絶望的な気分になった。

 

(4)p.161の「夏は来ぬ」の言葉遊びのイメージ

 「鵜の鼻 仁王 柿根に ホトトギス ハヤ(オイカワ)も来 泣きて 忍び 寝漏らす 夏は絹」——もうあの曲を聞くたびにこのイメージが頭に出てきてしまうほどこびりついてしまっている。 

 

 それ以外にも本作には感じることがたくさんあった。とてもここには書ききれないので、また別の機会に書くことにしよう。

 次回のリモート読書会のテキストは古谷経衡『シニア右翼 日本の中高年はなぜ右傾化するのか』である。